第59話 町娘シュルンの記憶
『春の街と銀の剣聖――町娘シュルンの記憶』
その日、王都ルメリアの空はよく晴れていた。
「おばさま、アスフェルトの花、もう少し負けてくださらない?」
「だめだよシュルンちゃん、それは今朝届いたばかりの上物なんだから」
青い布のスカーフで髪をまとめたシュルンは、明るく笑って手を振ると、かごを抱えて市場を駆けていく。朝の市場は活気に満ち、パンの香ばしい匂いと、花々の香りが風に乗って街を包んでいた。
けれど、その日、街にはいつもと違うざわめきがあった。
「見たかい? 北門から“あの人”たちが戻ってきたんだって」
「カール様だろ? 銀髪の剣聖……ほんとに生きてたんだな」
「おまけに、“白銀の聖女”と“紅翼の魔族”を伴って、魔王の墓地を攻略したって噂さ」
どこからともなく広まった噂は、春風より早く王都全体を駆け抜けていた。
それはまるで、誰もが待ち望んでいた“伝説”が、現実になって戻ってきたかのようだった。
――カール=キリト。銀髪の剣聖。
――セリア=ルゼリア=ノルド。白銀の聖女。
――リーリアン=フリーソウ。紅翼の魔族。
彼らの名前は、もう市井の人々にとって「冒険者」などという枠を越えた存在になっていた。
「……戻ってきたんだ、本当に」
シュルンは、小さく息を呑んだ。
彼女にとって、カールはただの“噂の英雄”ではなかった。
一度だけ、ほんの一度だけ。まだカールが駆け出しの冒険者だった頃、市場で道に迷っていた自分を助けてくれたことがあった。
「気をつけて。王都の人混みは慣れてないと危ないから」
あのとき、笑って手を差し伸べてくれた銀の瞳――それが、忘れられなかった。
「ねえ、お姉さん、今から北街区に行くの?」
後ろから声をかけてきたのは、パン屋の娘だった。
「えっ、どうして?」
「だって、お姉さん、さっきから上の空だったから。カール様の家って北街区でしょう? 私たち、見に行ってくるの。もしかしたら会えるかもしれないから!」
少女たちは目を輝かせて言った。
シュルンは思わず笑ってしまう。
「……そんなミーハーじゃないつもりだったんだけどな」
けれど、気づけば彼女も北街区の方へと足を向けていた。
***
北街区は、他の地区に比べて落ち着いた雰囲気を持っている。
古い石畳と、手入れの行き届いた庭付きの家々。カールの家もその一角にある。
家の前には、すでに何人かの市民が集まっていた。誰も騒ぎはしない。ただ、そっと見守るように静かに佇んでいる。
「本当に、ここにいるのかな……?」
そんな声が聞こえたとき、家の扉が開いた。
「カール様だ!」
誰かの声に合わせて、一同がそちらを振り返る。
そこには、やや寝癖の残る髪をかきながら、くしゃみを一つする銀髪の青年――カールが立っていた。
「……お、おはよう。って、こんなに人が?」
あまりの人数に驚いたようで、後ろから出てきたセリアが苦笑する。
「カール、あなた目立ちすぎたのよ」
その姿を見たとたん、誰かが拍手を始めた。それは次第に広がり、やがて通り全体が、ささやかな祝福の拍手で満たされていく。
「ありがとう、カール様! 街を救ってくれて!」
「聖女セリア様も、魔族のリーリアン様も……ありがとう!」
思いがけないその光景に、カールたちはしばらく言葉を失っていた。
そして――リーリアンが、そっと帽子を目深に被り直した。
「……あたしなんて、怖がられると思ってた」
「その分、ちゃんと見てる人もいるんだよ」
セリアがそっと、彼女の手を握る。
シュルンは、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
(きっと、これから先も困難はあるだろう。でも、この人たちは信じられる)
カールが、市民たちに向けて一歩前に出た。
「俺たちは、まだまだ未熟かもしれません。けれど――これからも、この街を守るために戦います。皆さんの暮らしを、未来を、護るために」
その言葉に、誰かが泣き出した。子どもが手を振った。老人が帽子を取って礼をした。
街全体が、静かな喜びで一つになったような瞬間だった。
春の陽光が、銀髪の剣聖の肩に降り注ぐ。
シュルンは、そっと目を閉じた。
(またきっと、いつか……あのときみたいに)
――あの優しい声が、自分を導いてくれる日が来るようにと。




