第21話 エンシェントドラゴンとの対話
――竜骨峡谷。
古より竜が棲み、あらゆる者の命運を狂わせる場所。切り立った岩の稜線が並び、濃霧と瘴気が漂う死の谷。けれど今、その場に少年と仲間たちが足を踏み入れていた。
「……空気、重いね」
リーリアンが息を飲んだ。あの明るい表情も、今は少しだけ曇っている。
「魔力の流れが乱れてる。竜の影響ね。近いわ」
セリアが淡く輝く氷の結晶を指先で撫でながら答える。風が吹くたび、彼女の銀髪がさらりと揺れた。
「ルゥ、大丈夫か?」
カールが小さな背に乗るフェンリルに声をかけた。
「ふぇ……うん、大丈夫。でも、なんか……すごくでっかい“気”を感じるの。ずっと奥のほうから、じっと見てるみたい」
「“見てる”か……やっぱり、待たれてるのかもな」
カールの表情が引き締まる。
剣の柄に手をかけると、ドラゴンキラーが静かにうなった。刀身が脈打つように赤く明滅し、竜の気配に反応しているのだ。
「ほんとに戦うの……?」
リーリアンが、ぽつりと呟いた。
「そりゃあ、戦いに来たんだけど……でも、あたし、まだ怖いよ。エンシェントドラゴンって、何千年も生きてる竜なんでしょ? 神に近いって聞いた……!」
「その通りよ。理性を持ち、人の言葉を操り、時には世界を動かす。けれど同時に、己の誇りを最も重んじる存在でもあるわ」
セリアの声には緊張と敬意が混じっていた。
「なら……話せるってことか」
カールの言葉に、二人が同時に顔を向けた。
「話す、つもりなの?」
「カール、それって――」
「戦うのは最後の手段にしたい。剣を手に入れて、力もある。けど、滅ぼすために来たんじゃない。俺たちが求めてるのは、“竜の加護”だろ?」
「……甘い」
セリアが静かに首を振った。
「あなたが何を言っても、エンシェントドラゴンが“人を信じていない”なら、言葉は通じない。……それでも、話すつもり?」
カールは、少しだけ笑った。
「うん。剣でぶつかるより、まず言葉を交わしたい。だって……そのほうが、俺たちらしいだろ?」
「ほんと、カールってば……正義の味方ぶっちゃって」
リーリアンがむくれたように言う。
「……でも、そういうところが、好き」
「え?」
「なんでもないー!」
ぷいっと顔を背けるリーリアン。カールは苦笑した。
「さ、先に進みましょう。霧が濃くなる前に、奥へ行った方がいいわ」
セリアが前を指差す。
谷の奥は、まるで竜の骨のように折れ曲がった巨大な岩々が林立していた。その隙間を縫うように、小さな道が続いている。
「気をつけて……この道は、昔ドラゴン信仰の巡礼路だったって記録にあるわ。罠もあるかもしれない」
セリアの言葉に、カールは頷く。
「ルゥ、前を頼む」
「うんっ!」
フェンリルの子犬はぴょんと飛び出し、前を駆ける。鼻をひくひくさせながら、魔力の流れを探っているようだった。
谷を進むごとに、霧が濃くなる。
風が止み、音が消え、世界が静寂に包まれていく。
そして――
「……見えた」
カールが呟いた。
視界の先に、巨大な竜骨のようなアーチがそびえていた。その下に、まるで神殿のような祭壇。そして、その奥に――
黒き影。
悠然と、そこにいた。
「でっか……」
リーリアンがぽつりと言った。
それは、あまりにも巨大だった。全長は人の何十倍もあり、漆黒の鱗は星空を思わせる光を宿している。黄金の瞳がこちらを見下ろし、長い尾がゆったりと動くたびに空気が震えた。
「エンシェント……ドラゴン……」
セリアですら、足を止めていた。
そして、竜が――動いた。
「我が名は――ウロボロス」
その声は、空気を揺らす雷鳴のようでありながら、不思議と心に直接届くような響きだった。
「……よくぞ来た、人の子よ。忌まわしき“ドラゴンキラー”を手に、その地に立ったか」
「……!」
カールが、剣の柄を強く握る。
「我が眼は、全てを見ていた。洞の奥で、お前が剣を抜いたその時より……我が心は警鐘を鳴らし続けていた」
「……ウロボロス」
カールが前に進み、一歩踏み出す。
「俺は、お前と戦いに来たんじゃない。話を――」
「黙れ、小さき者よ」
その瞬間、空気が一変した。圧倒的な威圧感がカールたちを押し潰す。
「我は、お前たちの“願い”を聞くために眠っていたのではない。人の愚かさと欲望を、何百年、何千年と見てきた。我が名を口にする資格など……貴様らにはない」
セリアとリーリアンが、すぐにカールの両脇に立った。
「……話は通じない、みたいね」
「でも……やるしかないのかな」
「待って、まだだ」
カールはふたりを制した。
剣に宿る鼓動が、彼の心と共鳴していた。
「ウロボロス……それでも俺は、伝えたいことがある」
そして、彼はエンシェントドラゴンの瞳を、真っすぐに見上げて言った。
「この世界を守るために、お前の力を借りたいんだ!」
――返事は、なかった。
だが、竜の瞳が僅かに揺れたように見えた。
その沈黙は、果たして怒りか、戸惑いか――それは、まだ分からない。
竜の試練が、今――始まろうとしていた。




