第13話 リリスの動揺
◆リリスの動揺◆
――リリス視点
王都ルメリアの貴族街。その華やかな館の一室で、リリス=アルセリアは震える指先で銀の香水瓶を握っていた。けれど、香りではもう心は鎮まらない。
目の前の召使いが口にした言葉が、空気を凍りつかせたのだ。
「……“黒衣の剣聖”が、ギルド本部に姿を現したそうでございます。魔獣王を討伐し、その名を――“カール”と。」
その名を聞いた瞬間、リリスは立っていられなくなり、壁へと寄りかかった。
カール。
かつて、自らの婚約者でありながら、“役立たず”として見捨てた男。
キリト家の三男にして、何の実績もなく、家令や兄たちからも冷遇されていた存在。
リリスは、そんな男に価値などないと信じていた。
だから、政治的にも有利で、将来を約束されたダンガー子爵との縁談が持ち上がったとき、何の迷いもなくカールとの婚約を破棄した。
その時の彼の顔を、今もはっきり覚えている。
怒鳴りもせず、罵りもせず、ただ静かに一礼して屋敷を去っていった男――。
「……剣聖? 本当に……カールが?」
信じたくなかった。
だが、ギルド本部に持ち込まれたのは、確かにSランク魔獣・魔獣王バルグロスの魔核。
今や王都の広場では、子どもたちが“黒衣の剣聖”ごっこをして走り回っている始末。
それが、あのカールだというのか?
リリスは鏡の前に立った。
薄い金髪は丁寧に巻かれ、白い肌は化粧品で完璧に整えてある。美しいと評される容姿。
だが、今、その美貌は蒼ざめていた。
「どうして……今さら戻ってくるの……?」
彼を捨てたのは、他ならぬ自分だった。
それでも、彼の眼差しは――今でも、心に焼きついて離れない。
追放された直後、ふとした拍子にリリスの目に映った、あの背中。
誇りも、立場も、すべてを失いながら、黙って歩き出した男。
滑稽で、愚かで、哀れで。
だからこそ、怖かった。
「わたくしは、間違っていなかった……カールは“何者でもなかった”。あの時は、それが真実だったのよ……!」
声に出しても、心は納得しなかった。
今や“剣聖”として王都に帰還した男を、誰もが尊敬の眼差しで語っている。
その名を誇りに感じ、貴族ですら媚びるような空気さえある。
いったい、何が変わったのか。
いつ、彼は“英雄”になったのか。
リリスは、そっと胸に手を当てた。
そこにあったのは――悔しさではなかった。恐怖でもなかった。
ただ、消したはずの“未練”だった。
あの時、もし少しでも彼を信じていれば。
彼の傍で、共に歩んでいれば。
「――いいえ、もう遅いのよ……今さら何を思っても、彼の隣に立てるのは、わたくしではない」
窓の外では、春風に乗って王都の噂話が流れていた。
“黒衣の剣聖が帰還した”
“魔獣王を斬った男が、貴族たちの欺瞞を見透かす”
“キリト家の落ちぶれた父と兄たち、そして――元婚約者リリスの名はもう過去のもの”
リリスはゆっくりとドレスの胸元を握った。
指先が白くなるほどに力が入っていた。
「……せめて、一目。彼が、どれほど変わったのか、自分の目で確かめたい……」
それが未練か、それとも贖罪か、自分でも分からなかった。
けれど、胸の奥の痛みは、今も静かに疼いていた。




