第5話 レーナのまなざし
「レーナのまなざし――母として見守る、あの人たちの日々」
――あの人は、まったくもって、面白い男だ。
歳をとると、ちょっとやそっとのことじゃ驚かなくなる。けれど、この年になって、まさかあんな風変わりな人に拾われて、娘と一緒に王都の屋敷で暮らすことになるなんて、思ってもいなかった。
私はレーナ。この年になると、腰も痛けりゃ目もかすむが、まだまだ現役の家事担当だ。獣人の血は丈夫なもんでね、台所の火起こしから洗濯物の干し上げまで、娘のティナより手際よくこなしてやってる。
……そう、ティナ。私の自慢の娘で、少し頑固で、人付き合いが不器用だけど、根はとても優しい子だ。
最初、カール様のお屋敷に雇われたとき、あの子は不安げに私の手を握っていた。
「本当に、ここでいいの……? 私たちみたいなのが……」
けれど、あの黒衣の剣士は、まるで当然のように言ってくれたんだ。
「君たちのような人を、ここに迎えられてよかった」
その時のティナの表情は、今でも忘れない。まるで、氷が解けるみたいに、こわばった顔がふっと緩んだんだ。
あれからというもの、この家ではいろんなことがあった。
とにかく、賑やかだ。
毎朝、セリアお嬢様とリアナさんが、ささいなことで言い合いを始めるのは日課のようなもの。魔術の理論だの、戦術の優劣だの、私からすれば「どっちでもいいよ」と言いたくなるようなことを、真剣な顔でやりあってる。
「でもまあ、あれがあの子たちなりの“仲の良さ”ってやつなんでしょうね」
私は台所で煮込み鍋をかき混ぜながら、そうつぶやいた。
セリアお嬢様は、優雅で真面目、でもちょっと融通がきかないところがある。リアナさんはその逆で、好奇心旺盛で自由奔放。よくぶつかるのも仕方ない。でも、どちらもカール様のことになると途端に意地を張るのだから、見ていて面白いものだ。
そんな中、うちのティナはと言えば――
「レーナお母さん、カールおじさまって、あの二人のどっちが好きなのかしら?」
「さあね。男ってのは、案外どっちつかずで流されるもんだよ。昔のあんたの父親がそうだったようにね」
「……それ、なんか説得力あるわ」
ふふ、ティナのそういう返しが好きだ。
あの子、最近は前よりよく笑うようになった。カール様やセリアお嬢様とも、自然に会話するようになったし、ルゥと庭を駆け回っている姿なんて、私には小さい頃のティナそのものに見える。
ああ、ルゥっていうのは、フェンリルの子ども。ふさふさの尻尾に大きな瞳、そして最近では――なんと人の言葉まで話すようになってしまった。
「ティナおねーちゃん! あのね、今日のおやつは何ー?」
「ルゥ、まだお昼も食べてないでしょ!」
このやり取りがまた、ほほえましいったらない。
そして、カール様だ。
あの人は、若いのに不思議と貫禄がある。どこか陰があって、でも人の痛みに敏感で……一見ぶっきらぼうだけど、実は誰よりも他人を大切にしている。
「私たちのような者にも分け隔てなく接してくれる人なんて、なかなかいないよ」
「……うん。でも、カールおじさま、無理してないかしら」
ティナがそう心配するのも無理はない。あの人、他人のことを気にするあまり、自分のことは後回しにする節がある。
だから、私は今日も、ちょっと多めに煮込みを作る。
どうせ、帰ってきたらまた「疲れて食欲がない」なんて言うんだろうけど――そういう時に限って、熱々のスープを一口飲んだ途端、黙って三杯おかわりするのだ。
先日は温泉旅行にも連れていってもらった。山の麓、湯けむりの立ちこめる静かな宿。あんな贅沢、私たちには縁がないと思っていたけれど……
「日頃の労いと、感謝のつもりです」
そう言ってくれたカール様の言葉に、私もティナも、思わず目を潤ませてしまった。
温泉では、ティナが珍しく私の肩をもんでくれてね。
「いつもありがとう、お母さん」
――ああ、もう、嬉しくて泣けてきたよ。
私は、もうこの先に大きな夢があるわけじゃない。ただ、娘が笑っていてくれて、帰ってくる家があって、美味しいごはんが食卓に並ぶ。それだけで、十分に幸せなのだ。
……でも。
できれば、この幸せが、長く続いてほしい。
カール様の周りには、きな臭い話も多い。魔族、禁術、戦争の気配――そういった言葉を、私は台所の陰から何度も耳にしてきた。
だからこそ、今のうちに、たくさん笑って、たくさん支え合っておきたいと思うのだ。
「ただいま」
玄関から聞こえた声に、私は鍋の火を止め、布巾で手をぬぐった。
「おかえりなさい、カール様。ごはんできてますよ。今日は、あなたの好きな肉と野菜の煮込みです」
「……ありがとうございます、レーナさん」
その声に、私は心の中でこうつぶやく。
――どうか、無理はしすぎないでくださいね。あなたが無事でいてくれれば、それでいいんです。
今夜もまた、あたたかな食卓が始まる。
それが、私にとって何よりの幸せなのだから。




