聖女の奇跡
突如、空気を切り裂くような甲高い音が空を横切って行った。
「なっ…今のは!?」
その音に驚いてニールは慌てて馬車の外に顔を出したが、空には特に変わったものは見受けられなかった。
「救援信号…一体どこから」
ニールが首を傾けて周囲を見回すと、今度は別の方向から同じような甲高い音だけが空に向かって響き渡った。
「あれは多分最初に襲われた峠辺りでしょう。返答が早かったですから、すぐにこちらに来てくれるはずです。もしかしたらもう辺境騎士団がいらしているのかもしれません」
「しかし最初のは一体誰が」
「さっきあの…一緒に逃げた侍女です」
「侍女?姫じゃなくてか」
「はい。彼女はとても優秀な侍女です。あの人と逃げたのも、何か考えがあってのことでしょう」
王家が用意したカナルリアの影武者と侍女は、髪の色と目の色が近いだけでわざと外見はバラバラな女性が集められた。人々が思い描くであろう「宝石姫」の見目の者ばかり選んでしまうと、本物のリアの存在が浮いてしまうからだ。そして万一馬車の中を確認された時にリアが本物とはすぐにバレないように、同乗している侍女は見目の良い者を割り振っていたのだ。それは敵の目を欺く為の策ではあったが、味方である筈のトーマスがまんまとそれに引っかかったのだった。
「じゃあ下手に動かない方がいいのかな。しかしどこかに身を潜めていた方がいいのか…」
「この馬車は丈夫ですから、二人で立て籠れませんか?王ぞ…いえ、貴族が襲撃されたとしてもしばらくは保つようになっている筈ですわ」
本当は王族が使用している見た目は地味でも頑丈な鉄板が仕込まれている馬車なのだが、リアは今は誤摩化して伝える。ニールは末端の貴族ではあるが、あまり腹芸が得意ではなく真っ直ぐで好ましい人柄だ。しかし今は、リアが姫であることを知れば、彼の態度で敵にも知られてしまうかもしれない。
リアの母は身分の低い愛妾で、既に亡くなっているので後ろ盾のようなものはリアにはない。ただ幸運にも家族に恵まれて愛されていることで国内最強の後ろ盾を持っているも同然だ。もし敵の手に落ちて利用された場合、彼らは全力でリアを取り戻そうとするだろう。そのせいで無理難題を吹っかけられる可能性も捨て切れないのだ。それならばいっそ王族らしく割り切って切り捨ててくれればいいのだが、きっと家族はそうしないだろうとリアは確信していた。
だからこそ、リアは「カナルリア姫」であることを知られてはならない。一聖女と宝石姫の価値は天と地ほどの差があるからだ。自分が交渉の天秤の皿に乗せられるとしても、決して価値のある商品と気付かれるのだけは避けたかったのだ。
リアは扉の外に顔を出して周囲を見回した。雨のせいで視界は悪いが、まだ追っ手の姿は見えない。
「…まだ追っ手は来ていないようですが…」
「リアさん!!」
不自然なまでに馬車が揺れたかと思った瞬間、ニールの大きな手がそっとリアを馬車の奥に押し込んだ。丸い体型のリアがコロリと仰向けに倒れた次の瞬間、ニールの頭上から落ちるように黒い影と何か煌めくものが横切った。
「ぐあっ!!」
暗い馬車の中よりもずっと明るい外の曇天に、真っ赤な飛沫が上がったのが見えた。
ニールは背中に鋭い痛みを感じると同時に、反射的に体を捻って足を後方に蹴り出した。完全に芯を捉えた感覚はなかったが、それなりに重い衝撃を踵の辺りに感じた。振り返ると、先程の襲撃者と思われる者が泥の水溜まりに頭から突っ込んで行くところだった。まさかの真上からの襲撃だったので、気付くのに遅れてしまった。そして振り返った視界の端に、こちらに剣を構えて迫って来る三名ほどが見えた。
ニールは狭い馬車の中に体を捩じ込むようにして飛び込むと、扉を閉めて内側から閂を掛けた。トーマスのせいで金具が緩んではいたが、少しならば保つだろう。体の大きなニールが小さな馬車の中に入ると、それだけで一杯になってしまったように身動きが取れなくなる。扉を閉じた瞬間、剣を突き立てられたのか、ガツンと重い音が何度も馬車の中に響いた。その勢いで馬車全体もユサユサと揺れる。
リアはニールの邪魔にならないように馬車の奥で出来る限り体を縮めて、思わず喉の奥から漏れそうになる悲鳴をグッと堪えていた。平和な世の中で王族も命を狙われるようなことは殆どなく、リアの立場では巻き込まれることなどなかったが、やはりそれでも王族として襲撃された時に足手まといにならない振る舞いは教えられている。しかし狭い馬車の中でそれこそ目と鼻の先で広いニールの広い背中に大きな刀傷が斜めに走り、そこから血が噴き出して服を真っ赤に染めている光景に震えが止まらなかった。上着でリアを包もうとして防具を脱ぎかけていた為に、少し緩んでいた箇所を狙われたようだ。辛うじて致命傷は避けられたように見えるが、それでも傷は広範囲だ。
扉の小さな明かり取りの隙間から、剣の切っ先が何度も差し込まれている。斜めになっているので深く浸入して来ることはないが、狭い馬車の中なので扉を押さえているニールの肩や頬に僅かに届いて浅い傷を幾つも作った。
外から絶えず攻撃されているのかそこら中からガンガンと音が響き続けていた。いくら頑丈と言ってもこのままではすぐに壊されてしまうのではないかと思うと、リアの体の底から恐怖が沸き上がって来る。その恐怖は、自分の命の危機よりも、ニールの身が危ないことから来る恐怖だった。
「大丈夫。リアさん、大丈夫だから」
震えているリアに気付いたのか、半身で扉を押さえながらニールが片腕だけでリアをしっかりと抱きしめた。まるで背中の傷をリアの視界から外すように、無理に体を捻って胸に抱き込んだのだ。しかし彼の背中の血は止まらず、前側の胸元まで血が染みつつあった。
「…ごめんなさい。わたくしのせいで」
「大丈夫。すぐに助けが来るよ」
「ごめんなさい。やっぱり逃げてもらうべきでした」
「そんなこと言わないで」
「わたくしが…わたくしが狙われているのです。最初から大人しく捕まっていれば」
先程抱きしめられた時は熱く感じたニールの体が、ひどく冷えているように思えた。リアの目から涙がハラハラと流れ落ち、ニールのシャツを濡らした。今はリアの流した涙の方が熱いくらいに感じられた。
「わたくしが、貴方の誇りに傷を付けさせてしまった」
かつて団長に「傷のない背中」を褒められたと嬉しそうに語って聞かせてくれたニールの笑顔を思い出していた。今やその背中に大きな傷が付き、流れ出す血は止まる気配がない。
「それじゃ、リアさんは責任を取って俺を娶って貰ってもらわないと」
「そんな冗談…」
掠れた声でニールが微かに笑った。少しだけ眉を下げてリアが泣笑いの表情になった時、ふとニールの首がカクリと下がり、体から力が抜けたように凭れ掛かって来た。下がった顔がリアの髪に埋まるような体勢になり、彼の唇がリアの額に触れる。しかしその冷たさにリアの表情が凍り付いた。
「ニール、さん…?」
リアの喉の奥から引きつったような声が漏れた。何とか息を吸おうとするのだが、上手く出来なくて短くて浅い呼吸を繰り返した。震えの止まらない手を伸ばしてニールの頬に触れるが、ヒヤリとした感触だけが伝わって来て、彼は一向に反応を返して来なかった。
「嫌…嫌だぁ…」
「うわああぁぁぁぁんっ!!!」
その瞬間、周囲は眩い光に包まれたのだった。
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救援信号を頼りに駆け付けた辺境騎士団は、襲撃を受けている小型の馬車を発見した。その馬車は何度も斬りつけられたのか傷だらけで、あと少しで壊れてしまいそうな状態だった。
彼らはその馬車の中にこそ待ち望んだ聖女がいると確信して、各々が剣を持って襲撃者を制圧すべく走る速度を上げた。彼らが馬車に辿り着くか、それとも先に破壊されるか。そんな紙一重の瞬間、目の前が眩い光に包まれ、その場に居合わせた人々の視界が真っ白になった。
その瞬間を離れた場所にいた人々は、突然山から巨大な光る樹が出現して、一瞬にして雲を裂いてその上の青空が見えたと言った。その樹があったのはほんの瞬きをするだけの時間だったが一気に枝を伸ばして葉を生い茂らせ、まるで砕け散るように光る葉が空一杯に飛び散ったそうだ。人によっては、その飛び散った葉は、精霊王樹と同じ四つ葉の形をしていたと証言した。
そしてその葉が空気に溶けるように消え去った後、再び空を覆った雨雲から温かな雨が降り始めた。年中冷たい雨しか知らなかった辺境の人々はその不思議な雨に誰もが空を見上げたが、ふと気が付くと足元から一斉に植物が生え、見る間に成長して地を覆い尽くした。それは地滑りの被害を受けて剥き出しの土だけになってしまった土地にも降り注ぎ、あっという間に見渡す限りの牧草で覆われた。
餌が足りなくて痩せ細り蹲っていた牛達はその雨水を飲むとたちまち立ち上がり、豊かに生え揃った牧草を食むとすっかり元気を取り戻したという。
それはまさしく聖女のもたらした祝福であったと、後世まで伝えられた。
馬車の近くにいた辺境騎士団が我に返ると目の前の光は消え失せて、少し離れたところには倒れた黒ずくめの襲撃者達と、跡形も無く壊れてしまった馬車の残骸が広がっていた。そしてその中央では人とは思えぬ程美しい女性が大きな体の騎士を抱きかかえて、子供のようにわあわあと声を上げて泣きじゃくっている姿があった。
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ニールは何だかフワフワと良い香りのする場所で揺蕩たっているような感覚だった。何だか眠いような、眠くないような不思議な心地で重たい瞼を引き上げると、目の前にはリアが泣きそうな顔で覗き込んでいた。そして彼女の小さな手が自分の頬に触れているのだが、柔らかく極上の肉球を思わせるフカフカの感触ではなく、ほっそりと冷たい華奢な指の感触だった。
「リアさん…ちゃんと食べて…こんなに窶れて…」
「ニールさん?」
「一緒に、美味しいものを、食べ、よう…リアさん…」
切れ切れにそう呟くと、ニールの目は再び閉じられてしまった。少し乾燥している唇からは、微かに寝息が漏れていた。
「ええ、元気になったら食べに行きましょうね、ニールさん」
体内にたっぷりと溜め込んだ聖女の祝福を一気に放出したリアは、すっかり宝石姫の名の如く儚く可憐な姫君の姿になっていた。自分でも朝起きて鏡を見る度に違和感が拭えないのに、意識が朦朧としている筈のニールは何の疑問も挟むことなくリアを認識した。その事実が何よりも嬉しくて、思わずリアの目が潤んでいた。
ニールはかなりの重傷ではあったが、聖女の祝福を間近で浴びたおかげなのか、それともリアの祈りを精霊王が聞き届けてくれたのか、どうにか一命を取り留めた。今はまだ意識ははっきりとしておらず、時折ぼんやりと目を開けることがある程度だ。だが、体力と流れた血が戻れば問題なく回復するだろうという医者の見立てだったので、リアはそのまま辺境領に留まりニールの側を離れずに自ら看病を続けていた。
それから半月ほど経過して、ようやくニールの意識がハッキリと戻った。
「ええと…この書類は一体…」
「見ての通り、養子縁組の承諾書だ」
「それは分かるのですが、何故私の名が記載されているのでしょうか」
「それは儂がお前を息子だと認めたからだ。我が息子よ」
「まだサインはしておりません…」
ニールがようやくベッドから起き上がれるようになった頃、辺境伯夫妻が部屋にやって来ていきなり書類を渡された。何かと思って確認すると、そこには養子縁組の為に必要な書類が揃っていて、既にニールの両親のサインが記入され、後は当人の署名を入れるだけの状態になっていた。
ニールが意識を取り戻してから色々と怒濤の状況になっていて、もしかしたらまだ夢を見ているのではないかと思うことばかりだった。
まず食事が足りなくてすっかり痩せてしまったと思っていたリアが、実は宝石姫の二つ名を持つカナルリア姫で、聖女の祝福を使ったので元の姿に戻ったということ。そしてどさくさに紛れるように勢いで告げた求婚はそのまま有効だったこと。しかもニールが目覚める前に既にリアが書簡で国王に報告していて、すっかり婚約が調っていて後は国民に公表するだけになっていたこと。
そして身分が違い過ぎると頭を抱えたニールに、何故か辺境伯が養子にする準備をほぼ終わらせてベッドの脇でニールに圧を掛けていた。
「我が辺境伯家は幼い息子を亡くしてから後継者が決まらぬままだった。分家の者から選ぼうにも、王都を出ることはなく遠隔で差配をしようという軟弱者ばかり。たまに気骨のある者がいたかと思うと、領地を任せるに値する才が皆無でな。困っていたところにそなたが縁戚だと判明してな」
「ええと…全く血縁のない遠縁の遠縁だと伺いましたが」
「何を言う!妻の従妹の嫁ぎ先の…」
「義理の弟の妻の甥、でしたのよ」
「それ、絶対他人じゃないですか…」
ニールは地方領主の三男なので、一応貴族籍ではあるが後継教育も領地経営も全く携わらないまま生きて来た。それをいきなり広大な辺境領の後継者として縁組みされても、領民が困るだけだろう。そう思って辞退しようと思ったのだが、ニールを取り込めば確実に辺境を救った女神と感謝を捧げられている聖女カナルリア姫の降嫁が付いて来るのだ。それに彼女も実践はしていなくても、王族の基礎知識として領地経営などの勉強は履修済みなのだ。どちらかと言うとリアを辺境伯家に迎えたいと言う方が正しいだろう。
ニールの両親は突然の息子の養子話にさすがに渋っていたようだが、もう既に王家からニールとカナルリア姫の婚約は確定している為に長兄が「降嫁した姫がうちの領地に来られても十分な生活の保証は出来ないと思う」と助言をした途端、即養子縁組の許可を出したらしい。ニールも実家の財政状況を知っているので、それに関しては反論出来なかった。
「息子が出来た途端に娘も出来るって素敵よねえ。リアちゃんの食べる顔は可愛いから色々あげたくなっちゃうわ」
「そうだぞ、息子よ。我が領は牧畜が盛んであるので、新鮮な牛乳、バター、チーズだけでなく、生クリームをたっぷり使用した菓子も豊富だ。それにステーキもハムも食べ放題だ。姫も大喜びで毎日食べておるぞ」
「…分かりました。その…よろしくお願いいたします」
ニールも、辺境領の料理を幸せそうに食べているリアの顔を思い浮かべると、もうそれ以上は拒否することは出来なかった。生涯リアが幸せそうにお腹いっぱい食べることが出来るよう人生を捧げるのもきっと悪くない。彼女の愛らしい笑顔があれば、それだけでニールには十分だと思ったのだった。
現在王家直系で唯一の聖女のリアが爆速で降嫁が決定したのは、兄王子は一人を除いて全員既婚で姉姫もほぼ既婚か婚約済みなので、今はいなくてもその内その中から聖女が誕生するだろうと思われている為です。あと、多分王家が全力で全方位根回ししてる。




