サラリーマンになれば推しと並んで帰れる
「はい、お疲れさまでした。定時だよ」
十七時。残業禁止の我が社の社員は、そそくさと準備を初め、次々とオフィスを後にしていく。
帰っていく同僚に挨拶を返しながら、俺は隣で机に突っ伏している夕歌を観察していた。
「疲れました……」
顔を上げながらぽつりそうつぶやいた夕歌。
「まぁ、初日にしては頑張ったと思うよ」
事実、思いのほか集中力があり、俺の話を彼女なりに、一生懸命聞いていた。時折メモを取る姿は、勤勉な社員そのもので、なんとなく微笑ましかった。
「早く一人前になります……」
だらだらとしているうちに、オフィスには俺と夕歌の二人だけになった。相変わらず、みんな帰るのが早すぎる。
そんな状況もあり、張りつめていた緊張の糸が切れたのか、仕事中のキリっとした様相とは一変していた。
「そんなに急ぎなさんな。ゆっくりでいいからさ」
「余裕ありますね。どうせ私は無能ですよーだ。どうせ群上センパイはすぐに研修も終えて、バリバリ働いてたんでしょうねーだ」
悔しそうに頬を膨らませる夕歌。やはり、時折見せる当たりの強さが気になる。
「いやいや、そんなことないよ。同期三人の中では一番成長が遅かった」
あの頃は半分自暴自棄に働いていただけな気もするしな。それじゃあ成長効率が悪くてもなんら不思議ではない。
「ふーん。それなら、少し安心ですけど」
「そうそう。会社だって、新入社員にいきなり仕事の期待なんてしないよ。あぁ、もちろん良い意味でね。だから焦らなくていい」
「……そうやって優しいの、なんか癪ですね」
「理不尽だなぁ……。さ、いつまでもここにいたって仕方ないし、帰るぞ」
立ち上がり、オフィスを出る。夕歌は、何も言わずに後に続いた。
「あ、待ってたのか」
ロッカールームを出ると、既に鞄を手にしていた夕歌が立っていた。
「てっきり、先に帰ったものかと思ってた」
座って、スマホで適当にニュースのトピックを眺めたりなんかしていたから、五分くらいは経っているだろう。
「あの、一応出勤初日なんですけど」
ごもっともであった。
一人で会社から出るのもそれなりに緊張はするだろうし、だからと言って俺を待っていたのだと考えると、少々可愛く思える。いや、何していても推しは可愛いんだけれども。
「そうだったな。通勤は電車か?」
「あ、はい。そうです」
「最寄りえ――」
そこまで言いかけて、なんとか踏みとどまる。
部下の女性社員に最寄り駅を聞くのは、考えようによってはアウトなのではないだろうか?
それに元アイドルと元ファンという関係上、あらぬ詮索をしようとしていると思われかねない。
「それじゃあ、朝の通勤ラッシュに巻き込まれてるってわけだな」
だから、上手いこと、雑多な話題で茶を濁した。
「はい、そうです。まぁ、昔……その、アイドルをやっていた時も同じだったので、今更大変とも思いませんが」
「たくましいねぇ。俺には無理だ」
「電車、乗らないんですか?」
「うん。そもそも学生時代に秋葉原に行く少し人口密度の高い電車に乗るのもちょっとキツかったしな」
なんというか、閉塞感があって嫌だ。息苦しく感じる。誰も乗っていないような田舎の電車くらいがせいぜいだ。
「ライブではあんなぎゅうぎゅうなのに騒いでたじゃないですか」
「そりゃ、好きな推しがいたらそんなの気にならないもんだよ」
言い終えてから、とんでもなく気持ち悪いセリフを吐いたことに気付く。
これはまぁ、例のごとくナイフのような一言を放たれるのだろうと心構えをして、ちらりと夕歌の横顔を覗き込む。
「ふーん」
満更でもない変な顔をしていた。
これは、その、あれか、俺に好きな推しと言われたことを喜んでいると解釈してもいいのだろうか。おじさん期待しちゃうぞ。
「ということは、群上センパイはこの辺に住んでるんですか?」
「そうだよ。歩いて二十分くらいかな」
そんななんてことのない会話を続けながら、俺たちは社員ゲートを通り、外へと出た。
「駅、あっち。俺の家、あっち」
つまるところ正反対。
「あぁ、そうなんですね。それでは、ここで」
あまりにさらっとそう言われたから、少しばかり落ち込んだ。
「もう少し名残惜しそうにしたらどうだね。あの頃は俺が何周もしたチェキ撮影が最後だと分かれば、悲しそうな顔をしてたろ」
「……それ本気で言ってます?」
「いんや、半分冗談」
でも俺はそういう風に見えていたけどな。これがあれか、オタク特有の勘違いってやつか。
「半分本当なのもどうかと思いますけど……」
「あの頃のチェキ全部残ってるよ。見る?」
「ぶちますよ」
それはそれで。
「ぶちたまえ」
夕歌はドン引きしていた。なんて顔をしやがる。
「せっかく会社員になったのに、調子狂います。改めて言っておきますけど、会社で過去の話を匂わせたりしないでくださいね」
「匂わせはオタクの特権だからなぁ……」
「思い切りぶちますよ」
「ウィッス」
匂わせ禁止令が発令された。思い切りは痛そうだし、素直に従っておこう。
「第一、群上センパイだってバレたら困るって言ってたじゃないですか」
「まぁな。俺が三年間かけて積み立ててきた真面目で誠実で勤勉でイケメンな社会人像が崩壊するのは困る」
「いけめん……?」
俺の顔を凝視しながら、顎に手を当て、首を傾げた。
「おいやめろ、そういうのが一番傷付くんだ」
くそ、夕歌の顔が整っているだけに、虚しさがえげつない。
「男の人は顔よりも優しさですよ」
「つまり今日一日とっても優しかった俺のことが好きってことか」
「あぁ、そうですね」
「急に真顔になるのやめろよ!」
「真顔ではありません。全力否定の顔です」
「もっと悪い!」
「うるさいですね。私は疲れてるんですよ。もう少し気遣ってください」
やかましそうに、右耳を抑えながらそう言った。誰のせいだと思っていやがるってんだ。
「会社ではあんなにしおらしかったのに急に昔みたいに生意気言うようになりやがって……」
「お昼にも言いましたけど、今、勤務時間外ですよね? プライベートですよね?」
「うん」
「私、昔から群上センパイにはこんな感じじゃなかったですか?」
「うん」
まぁ、そういうところも推していたわけだし? むしろ会社での接し方は息苦しいとは思っているけど?
「会社と同じように接した方がよかったですか?」
とはいえ、それを本人に言うのは恥ずかしいし、何より敗北感が大きすぎる。
「好きにしたまえ。君の社会人としての考え方に任せる」
「かしこまりました。本日は一日ありがとうございました。明日からまた頑張りますので、教育よろしくお願いいたします」
あ、きつい。心壊れちゃう。
くそ、現状はただの部下であってそれ以上でもそれ以下でもないってのに、余計なことばっか考えやがるぼんくら脳を持った俺はあまりに不幸だ。
「すまん俺が悪かったから元の山口さんに戻ってくれ」
敗北感とか羞恥心とか、なにわけわからんこと言ってんだか。
しかしながら、夕歌は「仕方ないですね」なんて言って、キリっとした真面目顔から、普段の可愛らしい表情へと切り替わった。おぉ、さすがは元アイドル。
「そういう群上センパイは、会社と外でどっちも苗字にさん付けなんですね」
「いや、それはまぁ」
「自分はフランクを相手に求めるのに、不公平じゃないですか? 昔、私のことなんて呼んでましたっけ?」
「いや、それはまぁ、ほら」
若気の至りってやつでしてね?
「そうですか。お疲れさまでした。群上センパイ」
その顔やめろ。なんかこう、いつも笑顔を向けてくれていたアイドルのマジ顔は異常なまでに心に刺さる。
ええい、こうなったら!
「ユ……」
「なんですか?」
「ユ、ユーカ……たそ」
俺の顔面が火を噴いたような気がした。
「よく出来ました」
「く、屈辱的だ……」
可能であれば五年前の俺をぶん殴ってやりたい。貴様のせいで大恥をかいた。
「顔赤いですよ? 熱でもあります?」
きょとんとした顔でそう尋ねてくる。
「小悪魔アイドルって歳でもないだろ、お前……」
「まだ二十歳なのでセーフです」
ふふんと胸を張った。
「あ、二十歳? 二十二歳じゃないのか」
夕歌は年齢非公開でアイドルをやっていた……というより、地下アイドルで年齢不詳は珍しい話ではないが、てっきり大卒だと思っていた。
「あぁ、私、短大卒なんですよ……え、まさか推しの生年月日知らないんですか?」
「うーん、確か当時俺が聞いたとき、アイドルに年齢なんてないんだにゃん! とか言ってたような言ってなかったよ――」
「今すぐ忘れてください。口縫いますよ」
「あいだだだだだだ! 頭蓋骨が砕ける!」
両手をグーにして、思い切り俺の頭にグリグリと押し当てるあれ、なんて言うんだろうな。正式名称あるんだろうか。
「忘れた! 忘れましたにゃん!」
「こっ、このっ!」
「ぐべぁぁぁぁぁ!」
頭蓋骨は多分普通に割れた。
周りからはおかしい奴らを見る目で見られていた。
「あー、なんか頭がまだグラングランする。頭蓋の割れ目から脳みそが漏れてるかもしれん」
「ぐ、群上センパイが悪いです。恥ずかしさから凶行に走るのも無理はありません」
「ユーカたそとか呼ばせた奴が何言ってんだよ」
おあいこみたいなもんだろうが。
「それは群上センパイが好きで呼んでたんじゃないですか」
「山口さんだって、あれ普通に素だろ。にゃんとかわんとかうっきーとか」
「うっきーは言ってません!」
「ふーん、つまりその他ぶぁっ」
「ぶちますよ!」
「ぶってから言うな!」
明らかに不条理なやり取りが発生しているが、まぁ、俺は夕歌のそういうところを推していたのだし、不快感はない。でも肩は痛い。肩パンはあんまりだ。
「で、もう駅ですけど。なんでついてきてるんですか?」
くだらないやり取りの中でも足は進んでいたらしく、気づけば会社の最寄り駅が目の前にそびえ立っていた。
「心配だったから送ってやったのさ。これが俺の優しさってやつよ」
「私とのおしゃべりが楽しくてついついついてきちゃっただけのくせに」
よく自分で言えるよな、それ。
まぁ、それだけ自己肯定感が高くなきゃ、アイドルなんて出来ないか。
「まぁ、それも半分くらいはあるけど。じゃ、気を付けてね、山口さん」
俺がそう言ったのが聞こえていないのか、夕歌はすたすたと駅構内へと歩き出した。随分と不機嫌そうだった。
そして不意に振り向いたかと思えば、
「私、山口さんって呼ばれるのは会社だけで良いです」
なんて言ったものだから、俺も自然と、
「今日もお疲れ、ユーカ。また明日な」
そう返せた。
「はいっ、群上センパイ!」
そうして、その瞬間だけは、かつてイベント終わりに交わしたまたねの挨拶がリフレインしたようで、頬が緩んだ。
今日は、ちょっと良いご飯でも食べてから帰ろうと、なんとなく、そう思った。