大人になりたい君の唇
なぜか風呂場でずぶ濡れになっていた俺を夕歌が発見してから、しばし。
俺はそのまま入浴を済ませ、現在、夕歌が風呂に入っている真っただ中である。
滝行の甲斐あってか、脳内はどうにかクリアになったような気がする。
まぁそれでも、やはり大多数を夕歌が占めていることは否めない。
とはいえ昔もそうだったと思えば、なんら変わりはない。関わり方が変化しただけであると、納得することが出来た。
「お待たせしました」
部屋へと入ってきた夕歌は、まだ髪も乾かしておらず、俺のもの故にダボダボなジャージを着ていた。
「ゆっくりでも良かったのに」
急がせたか? いや、女の子の入浴時間なんてわからないけれど。
「私もお腹空いてるんですよ」
「そか」
ま、俺もだけどさ。
「あと、ほかにもいろいろ作っておきました。タッパーに詰めて冷蔵庫に入れたので、レンジで温めて食べてくださいね」
「え、そんな時間あったか?」
「こう見えてもそこそこやれるんです……って、なんで泣いてるんですか」
「うっうっ、人の温かみに触れたのが久しぶりなんだよぅ……」
いつもいつも冷たいコンビニ弁当ばかり食べていたからな。こういうシンプルな優しさが一番心に染みるんだ。
しかし冷蔵庫か。開けた時のお楽しみだな。
仕事前に気合いを入れる為にありがたく頂くとしよう。
「それじゃ、冷める前に食べましょう」
「そうだな。うひゃー楽しみだ」
「はしゃぎすぎですよ」
「正当な反応だよ。それじゃ、いただきまーす」
「いただきます」
まず、肉じゃがのじゃがいもから一つ。
あ、だめだこれ、美味すぎる。
詳細なんざくそくらえだ。シンプルに美味い。それに尽きる。
「う、っま……」
それだけ絞り出して、俺はがつがつと肉じゃが、米、サラダを豪快にかきこんだ。
「そ、そこまで美味しそうにされると、嬉しいけど照れます」
「だって、本当に美味いから! え、おかわりある?」
「まだたくさんありますよ」
「ふはっ、早い者勝ちだからな! なくなっても文句言うなよ!」
「子供じゃないんですから……」
早急に二杯目の肉じゃがを腹に流し込み。気づけば三杯目に突入していた。
明日の朝の分もと考えていたらしい夕歌は、俺が肉じゃがを丸ごと平らげたことにドン引きしながらも、嬉しさを隠しきれていなかった。
◆
食後の歯磨きを済ませ、部屋の中。
なんとなく無言な空間が広がっていた。
理由は、ほかでもない。
「で、どうやって寝るんだ?」
「それは家主である群上センパイが決めてください」
つまり、どっちがベッドで寝て、どっちがソファで寝るか、ということである。
昨晩はお互いお酒が入っていたこともあり、なんとなくその場の流れであんなことをすることが出来たのであって、素面である今現在では、どちらもがその恥ずかしさから昨夜と同じ、という提案が出来ずにいた。
確証はないけれど、夕歌も俺も、同じことを望んでいる。けど、気恥ずかしさがそれを邪魔する。
そうしてお見合いし始めてから、二十分は優に過ぎている。
「や、やっぱり俺がソファで」
「……意気地なし」
ぐっ……。そんな目で俺を見るな。ちょっとしょんぼりしたようなその目、普通に可愛くて目合わせられないんだよ。
「じゃ、じゃあ夕歌はどうしたいんだよ」
「べ、別に私はなんでもいいです」
「そっちだって意気地なしじゃんか」
「うるさいです」
なにこの時間。めちゃくちゃ楽しいんだけど。
恥ずかしさのゲージはとうに上限を貫いているから、それはこの際どうでもいい。
なんとなくよそよそしく、なんとなく羨望のまなざしを向ける夕歌を眺めているこの時間が、あまりにも楽しすぎる。
「や、やっぱりタクシー呼ぼうか? お金は俺が出すし」
「ここでそれは普通にドン引きです。ありえません。見損ないました」
「そこまで言うなよ……」
目が合っては、お互いに逸らす。それの繰り返し。
ベッドの上で正座をして向かい合う二人。ぼちぼち、足がしびれてきた。
「酒……買っとけば良かったな……」
とてもじゃないが、素面で「一緒に寝よう」なんて言えるわけがない。
いや、アイドルとファン、という関係性であれば、口にすることも容易かっただろう。だって実現しないわけだし。でも今は全くもって状況が違う。言えば遂げる。けれど、それを自分から言う恥ずかしさたるやタルタルソースってやつだ。
「だから言ったんですよ」
頬を膨らませて、不満をあらわにする夕歌。
「うん。こればかりは夕歌の方が正しかったね」
「群上センパイが正しかったことなんてほとんどないです」
「手厳しいなぁ」
そして、また沈黙。
「あの……」
沈黙を破るのは、てっきり俺だと思っていたから、それが夕歌だったことに少しばかり驚いた。
「どうしたのさ」
俯いたり、ちらりとこちらを見たり。とはいえ、こちらを向くときの視線は、俺の胸元で止まっていた。
何度か口をぱくぱくさせて、頑張って何かを言おうとしていた。
「が、我慢出来ないです」
「がま……? え?」
「身体が、寂しいです」
そう言いながら夕歌は、この上なく恥じらいながら、ずりずりとこちらへとにじり寄ってきた。
「だから言ったじゃないですか……密室で理性を抑えられるわけないって……」
少しばかり息を荒げ、俺の脇からに手を回し、そのまま引き寄せた。
意外と、力あるんだな……。
それ、ユーカの話だったのよ。
俺の胸元に顔を埋めているから、表情は見えない。けれど、きっと真っ赤に染まっているんだろうなんてことは、容易に想像が出来る。それを裏付けるかのように、夕歌は消え入りそうな声でたった一言、
「電気、消してください」
ただ、それだけ絞り出した。
「あ、あぁ」
俺は枕元にあるリモコンで、室内の電気を消す。
明かりを失った室内は、カーテンの隙間から差し込むわずかな月明かりだけの世界。
「まだ、私に言わせるんですか」
依然として、顔を見せちゃくれない夕歌が、いい加減にしろとおでこを俺の胸板に、コツコツと、リズムよくぶつける。
「あ、えと……」
「ほら、早く言っちゃえ」
俺ももう、限界だった。
「一緒に、寝てほしい」
ようやっと絞り出せた一言。もっとすんなり言えていれば良かったのだけれど、そんな簡単に言えれば俺は今頃総理大臣にでもなっているだろう。
「仕方ないですね。でも、襲っちゃだめですからね」
「あ、当たり前だ。こうしてるだけでも問題なのに」
「やっぱり、真面目ですね」
なんてくすりと笑いながら、布団を被る。俺も一緒に横になって、夕歌は少し体が離れた俺を抱き寄せた。
「じゃ、じゃあ、おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
月は、雲に隠されてしまったらしい。
真っ暗闇の中、俺は測定不能なほどに早い心臓の鼓動が、どうにか夕歌に聞こえないように誤魔化す。なんて試みてみても、俺にぴったりとくっついた夕歌に対してそんな猪口才な真似は、少しも通用しなかった。
「どくんどくん、うるさいです」
「う、うるさいな。おちょくるなら離れるぞ」
「やっ」
ぐっと引き締まる身体。
「ぐえ、苦じい」
ダンスをやっていただけあって、やっぱり力は強かった。
「真っ暗ですね」
「夜だからな」
ごそりと、夕歌が動いたような気がした。
「これだけ暗いと、何があっても分からないですね」
また、少し動いた。
「私、大人の女性になれてますか?」
「うん。今日もすごく大人っぽくて、その、ちょっと、見直した……? じゃないな、なんて言うんだろ」
上手く言葉がつながらない。国立大学卒って言ったって、この程度のものだ。
「眠くて言葉が出てこん。じゃあ寝る」
なんて言って、俺はそのまますとんと寝たふりを始めた。
それがやがて睡眠に近づきつつあるような、夢と現のはざまのあたりだった。
「寝ちゃいましたか?」
小声で、ぼそりと呟く。
「心臓はこんなに早いのに。本当に何もしてこないんだ」
少し、不満そうに。
「群上センパイが惹かれるような、大人な女性、かぁ……」
一人で、ぶつぶつ。
まるで覚悟を決めるかのように、何度か深呼吸をした。
「じゃあ、もっと、大人になっちゃいますね。ちょっと、ずるいですけど。ふふっ」
それから、夕歌の言葉は続かなかった。
――それから、俺の唇に、何かが触れた。
二秒、三秒。刻々と時間だけが経過する。それでも、俺の唇は、何かに塞がれたままだった。
そんな折、俺の顔に、かすかに風が吹き当たったような感触。
かすかに荒い、小さな鼻息の音。
俺の身体をさする夕歌。少しくすぐったい。
悠久とも思える時を経て、俺の口呼吸が解放されたかと思えば、夕歌は既に、夢の中だった。




