ハンマーとチェーンソー、それから薄紫
目が覚めた時、俺の体に巻き付いていた存在はなくなっていた。
「今何時……って、もう十一時前か。結構寝たな。うーん」
大きく体を伸ばし、間接をぽきぽきと鳴らす。起きた時のこれがたまらない。
「夕歌は……帰ったのか」
既に姿のない夕歌。鞄も見当たらないことから察するに、俺より先に起きて、すでに家を出ていたらしい。
なんだか物寂しかった。
「とりあえず、風呂でも入るか」
俺はベッドから出て、カーテンを開ける。日差しが瞳に突き刺さる。そうして、即座に覚醒した。
ジャージと下着を持って、すたすたと浴室へと向かう。
「くぁーあ」
バカみたいに大きなあくびをしながら、脱衣所のドアを開放した。
「……あ?」
いやに開放的な夕歌が、そこにいた。
Yシャツはすでに脱ぎ去っており、今まさに、スカートから足を抜いていた、つまり九割がたその工程が終わったところだった。
不意に空いたドアに反射的に視線を送った夕歌と、バッチリ目が合う。
で、俺も俺で、別に他意はなく、本当に他意はなく、反射的に視線を頭のてっぺんからつまさきまで、しっかりと七往復。
「お……おはよう……薄紫……」
と、夕歌の上下セット、ヒラヒラレースの下着の色をしっかりと詠唱。
「…………っ!」
わなわなと体を震わせ、スカートを脱衣かごにぽすりと落とした夕歌。
そうして、まず間違いなく昨夜のアルコールによるそれとは別ベクトルの紅潮が始まった。
「ぐ……」
ぐ?
「群上センパイのえっちー!」
「ぶんでるべぁっす!」
上手く下着を隠しながら、とんでもない威力の掌底がぶっぱなたれた。
俺はいまだかつで人類が発したことがないであろう文言を吐き出し、吹き飛んだ。
「ぼるふぁ!」
その勢いのまま、反対側の壁に背中を打ち付け、人類が発したことがないであろう文言第二号。その場に崩れ落ちた。
背中、めちゃくちゃいてぇ、動けねぇ……。
んなことより、夕歌、着やせするタイプかよ……。
出るところは出ているし、それでいてすらりと細身。そんな身体の映像が脳裏にフラッシュバックする。
俺はそのまま、浴室から聞こえるシャワーの音を、うつ伏せに倒れたままで聞いていた。
災難だな……いや、幸運か……。
◆
「なぁ、機嫌直してくれよ」
夕歌に続いて俺がシャワーを浴び終えてもなお、夕歌はつんけんとしていた。いや、無理もないか。
「何もしないとか言って、本当に何もしなかったと思ったら覗きですか」
「いや、そういうつもりは……てっきり帰ったものかと……」
「あの、それ私がお礼も言わずに帰る不躾な女だと思ってたってことですよね?」
「いえ、滅相もありません……」
「そうとしか思えません」
「鞄もなかったし……」
確かに、俺が起きた時、夕歌の鞄も、脱いだジャケットも見当たらなかった。だからこそ、帰ったと踏んだわけだ。
「二日連続で同じ下着は嫌だったので、買いに行っていました。だから鞄は玄関にあります」
「くそっ、そんなトラップが!」
「何か言いました?」
「ひっ! なんでもございませんっ!」
明らかに、瞳に殺意が宿っていた。返答を間違えれば、この部屋が血の海になることは免れない。
「そんなに見たいなら、昨晩脱がせれば良かったじゃないですか。それなら私も、それなりに覚悟はしていました。お酒も入っていましたし」
「変なこと言うな! ありゃ事故なんだって! 不可抗力!」
「いいですか? 私は恥ずかしさのあまり怒っているんです。だ、だってあんな姿、男の人に見られたことないですし!」
「あ、俺が初めてなの?」
「なんで嬉しそうなんですか! ぶちますよ!」
「ぶ、ぶってから……」
しかもみぞおち。殺意がガチすぎる。
「色は」
「薄紫のヒラヒラのレースのやブガッ!」
「記憶が消えてませんね。ちょっと待っていてください。今記憶の消し方を検索します」
スマホを取り出し、明らかに不穏なワードを検索し始める夕歌。くそ、正直者がバカをみやがる!
「朗報です。とりあえず脳の海馬という部分を破壊すれば記憶が消えるみたいですよ。試してみましょう」
「うん多分だけど俺死んじゃうね」
「覗き魔には当然の報いです」
「本当にすみませんでした」
くそ、死ぬくらいならいくらでも土下座してやる。死ぬよかマシだ、死ぬよか。
「本当に反省していますか?」
「うんしてるしてる。反省が深すぎてブラジルが見えてきた」
「トンカチ、どこかにあるでしょうか」
「本当に本当にすみませんでした」
大事な場面でちょけるクセは親父譲りだ。くそ、くだらねぇもん譲りやがって。相続放棄出来ることならしてやりたい。
とまぁ、そんな鍔迫り合いを続けている折だった。
夕歌の声色が、少し低くなる。
「……ふしだらな女だと思いましたか?」
「ふえ? なんで」
質問の意図が全く読めず、思わず聞き返す。
すると、なぜか夕歌は目をきょろきょろと泳がせる。
「その、あの、ちょっぴり大人な下着だったので……いえ、たまたま、本当にたまたまチャレンジしてみたやつなんです。普段はもっとこう、普通のものを……って、何言わせるんですか!」
なに勝手に怒ってんだこいつは。
しかし、大人な下着にチャレンジ、ねぇ。なんというか、感慨深い。
「別にそんな風には思わなかったけど。逆にこう、成長がうかがえて喜ばしい」
「なんていうか、昔からそうですけど、群上センパイって時折引くほど気持ち悪いこと言いますよね」
ジト目で俺を見つめる夕歌。
「え? 自覚ないな」
昔からって、俺は夕歌のライブを見に行って最後列彼氏ヅラしてたくらいじゃね? それは発言じゃなく言動だけど。あぁ確かに「今日はずいぶん後ろでしたね」ってライブ終演後の物販タイムで夕歌に言われて「たまには遠くからユーカたそを眺めるのも風流なのだよ」とか返した記憶はあるけど、別にそんなに気持ち悪くはないだろうよ。
「じゃあ末期です」
もはや呆れている様子だった。はてさて、認識の相違もここまでくるといっそすがすがしいな。
とはいえ、というやつである。
「しかしまぁ、俺が嫌な思いをさせてしまったのは事実だし、お詫びになんでも聞くよ」
その言葉に、夕歌はピクリと耳を動かした。
「なんでも?」
いや、まさかそんなはちゃめちゃな要求はしてこないだろう。例えばトンカチを貸してくれとか。
「トンカチ貸してください」
「俺ユーカが怖い!」
「なんて、冗談ですよ。その代わり、私の下着姿を時折思い出しては悶えてください」
「言ってて恥ずかしくねーのかよ」
「当然これも冗談です。そんなことしていたら本当にトンカチです」
「多分それは冗談じゃないだろうから肝に銘じておくよ」
とはいえ、忘れたくても忘れられやしないんだけどな、あんな映像。
「賢明ですね。さて、冗談はさておき」
俺の命がさておかれた件に関してはノータッチでいよう。
「私、食べたいスイーツと観たい映画と欲しい服があるんですよ」
どうやら、今日はなかなかに忙しくも充実した一日になるらしい。つーかお前、お金持ってないんじゃなかったのかよ。あれか、全部俺持ちか。
まぁ、アイドル時代の物販にデート券とかなかったし、それを今買ったと思えば安いものかもしれないが。
で、
「下着はいらないのか?」
「チェーンソー買ってきます」
財布を持って部屋を飛び出そうとした夕歌を止めるのに、おおよそ五分と四発の肩パン被弾を要した。




