珍しくたじろぐ推しは、きっとお酒のせいじゃない
「はぁ……」
夕歌はそのきれいなおでこをテーブルに押し付け、ケルマディック海溝よりも深いため息をついた。
「私、どうかしてました」
「そうなの?」
ビールをぐびっと。そして、そう返した。
「なんですか手をつないでほしいですって! なんですか! あぁ恥ずかしい! 忘れてください!」
「さすがに鼓膜にこびりついてるから無理」
あんな可愛らしいセリフを推しに言われて、それを脳内メモリーから削除するなど愚か者のすることだ。
「わーすーれーてーくーだーさーいー!」
「死んでも忘れん! 推しからのありがたきデレセリフだ!」
「はぁ……なんであんなこと言っちゃったんだろう……」
依然として突っ伏したままの夕歌。
「酒は本性を暴くって言うし、つい本音が出たんじゃない?」
「ぶちますよ」
「だからぶってから言うな」
力なく腕だけ上げ、俺の肩をぽすりと叩いた。
「よし」
「ん?」
不意に、何かを思い立ったかのごとく顔を上げた夕歌。
「群上センパイが忘れてくれないなら、私が忘れます」
「どうやってさ」
「忘れるまで飲みます! すみませーん! ビールください!」
あまりにも頭の悪い手段を選んだ夕歌に、俺は苦笑いを浮かべながら、もう一口分くらいしか残っていないビールを飲み切り、
「二杯で!」
なんて、後に続けた。
店員さんの威勢の良い返事が響く。
俺は、つまみのエイヒレを一口かじった。
「それ、美味しいんですか?」
不思議そうな顔を浮かべながら、俺の食べている謎の物体をまじまじと見つめていた。
「マヨネーズと唐辛子をつけたらこれはもうたまらねーよ」
キングオブ酒のつまみだ。
「ふーん」
サクサクと、ししとうのてんぷらを頬張った。
「ししとう、好きだな。相変わらず」
「世界で一番美味しいです」
「一個貰ってもいい?」
極端に好きではないが、いざそこにあるとなんとなく食べたい。ししとうって、そのくらいのポジションだと思っていた。
まぁ、人の好物にケチ付ける趣味は俺にはないから、口には出さないけど。
「いいわけないじゃないですか」
「けち」
「そんなことないです……あ、美味しいですねこれ」
「なのに俺のエイヒレを食べるのか……」
なんたるわがままガールだろうか。
「まぁいいけど。あ、ビール来た」
「へい、ビール二丁お待ち!」
「ありがとうございます。あ、すみません、ししとうのてんぷら追加でお願いします」
夕歌がくれないから、自分で頼んでやった。
おい夕歌、嬉しそうな顔するなよ。俺のだからな。
「それじゃ、まぁ改めて、乾杯」
「乾杯です」
二杯目のビールを流し込む。なんだかんだで、これが酒の一番の醍醐味だろう。
「かぁー! これが一番染みるわぁ……って……ゆ、夕歌?」
正面に座る夕歌が、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「な、なんですかこれ……」
「何って、ビール」
「苦い……」
いや、だってビールだし。
ていうか、
「ビール、飲めないのか?」
いや、明らかに飲めないやつのリアクションではあったし、聞くまでもないけどさ。
「初めて飲みました。でも私にはまだ早いかもしれません」
そう言いながら、また一口飲んで、同じ顔。面白い顔だなおい。
「無理して飲まなくていいよ」
「大人だから大丈夫……と言いたいところですが、さすがに厳しそうです」
珍しく俺の言うことを認めた。よほど舌に合わないのだろう。
「群上センパイはビール、好きなんですか?」
握ったジョッキの中にある黄金色の液体と俺で交互に視線を動かす夕歌。
「ん? まぁ好きっちゃ好き、くらいだけど。まぁ一杯目はビールかなって」
あくまで、気持ちの問題ってなところである。必ずしもビールに始まらなければならないという決まりなんてのはありはしないが、そういうもんでしょ、くらいの認識だ。
大学時代、それこそ夕歌のライブを見た後なんかは、オタク友達とサイデリアでビールを飲んだりしていたな。あの頃は若かった。
なんて、感傷にふけるが如く、過去を思い返しているさなかだった。
「じゃあこれあげます」
「もらう」
過去の失敗から学ぶ生き物、人間。あの日、夕歌からうどんを貰わなかったことに後悔して枕を濡らした俺が、同じ失敗を繰り返すわけがなかった。
「あっ」
俺は差し出されたジョッキを受け取り、そのまま一気に喉へと流し込む。うーん、こころなしか、一杯目よりも美味い。
「……なんで本当に飲むんですか」
「どうせからかうつもりだったんだろうし、先手を打ったまでよ」
そんな俺の言葉に、夕歌は気恥ずかしさと悔しさを足して二で割ったような、なんともいえないような表情を浮かべた。
今回は俺の勝ちである。
「やっぱり甘いお酒が良いです。すみませーん、カシスオレンジください」
で、結論カシオレに行き着くあたり、しっかり女の子って感じだなと、しみじみ思った。
さて、異常にペースの上がった夕歌が完全に酔いつぶれたのは、四杯目のカシスオレンジのグラスが空いたころだった。
言っておくが、俺は止めた。
それを華麗に聞き流し、どかすかとアルコールを体内にぶち込んでいく姿は、ついさっき見た笹嶺課長みたいだった。
――まぁつまり、とても嫌な予感がした、ってな話だ。




