ルナの帰還・3
飲み終えたコーヒーカップを脇によけたクロカミが、真っ直ぐに視線を合わせた。
「主人、頼みがある。これで聞いてくれないか」
そこそこ重みのありそうな革の小袋を、目の前に置く。音からして中身は、硬貨だろう。酒場の亭主なんぞをしてると、音だけでおよそ金額の見当はつく。この男が気前がいい男だとも分かる。
「取り敢えず聴くぜ。返事はそれからだ」
クロカミから椿館の上客の「ご趣味」を聞き、似た話を他で聞き知っていたことを思い出した。客・女主人・姉さんの三方が丸くおさまれば、傍迷惑ではあるが犯罪じゃない。
嬢ちゃんを巻き込みたくないと言うクロカミに、思うところを話す。あのマダムカメリアなら、そんな事はとうに見越して嬢ちゃんの身内に連絡を付けているはずで。必要なのは迎えが来る迄の時間稼ぎだ、と伝えた。
俺が嬢ちゃんを匿う役目を請け負うことになり、クロカミはコーヒーの礼と共に革袋を置いて椿館へ戻って行った。
嬢ちゃんを口説いちまえばよかったのにと思うが、金を払えば相手をしてもらえた娼婦時代のマダムカメリアに、手が出せなかったのは俺だ。人のことは言えない。
今日嬢ちゃんを迎えに来たレオン・ターナーにクロカミの事を詳しく教えなかったのは、クロカミから先に金を受け取っているからだ。
クロカミに親近感を覚えて肩入れしている、なんてことはない。絶対にない。
次の煙草に火を着けて、先月に嬢ちゃんに会いに来た男を思い出した。
軍人ではない、明らかに特殊能力持ちで選ばれた階級に属する男。見るからに育ちが良く人当たりもいい。陽気で洒落た優男に見えるが、嬢ちゃんの方が気を遣っていた。そうは見えないこいつが、一番クセがあるかもなぁ、と煙を吐き出す。
何にしろ嬢ちゃんの回りは、役者が揃ってる。それが幸か不幸かはわからない。
「美人なら幸せかっつーと、そういう訳でもねぇしなぁ」
今迄に見知った顔の綺麗な女達を思い出して、つい口から出た。
―――カタン。音がした。
目に入るカウンターの角に包みが置かれ、すぐに裏の木戸が開いた。足早に遠ざかる靴音が耳に届く。
感覚を研ぎ澄ませて、周囲の気配を探る。
おかしな奴がいれば足止めをするのは、この場合俺の仕事だ。黒髪から頼まれた訳じゃないが。クロカミから受け取った金は、匿うだけには多すぎる。
―――辺りに人の気配はない。マダムカメリアへの点数稼ぎにもなるかと思ったが、残念なことだ。
もういいだろうと、置かれた包みを開く。
グラスを拭くためにいつも使うリネンの隅に、店の名の頭文字が刺繍されていた。ロージーより下手だと嬢ちゃんは謙遜していたが、なかなかの出来だ。
礼には、次の機会にシチューを食べさせるとして。うまくやれよと心中で声援を送る。「演習」と呼んではいるが、昨日はネズミも出たことだし気は抜けない。
いつもの履き込んだブーツの横から小刀を抜き取り、光にかざして曇り具合を確かめる。若い奴等に触発されたせいか少し暴れたくなっていた。
「演習」にそんな機会はないだろうが。
二頭立ての馬車の前後には、保養地を出てすぐに四頭ずつの馬と一目で武装しているとわかる乗り手が加わった。馭者と八人の武装した共人、そして馬車内に「特別客」と従者、という一行。
一路国境に向かって順調に進んでいる。国境といっても明確な境はなく、関所があるわけでもない。途中三泊して屋敷に戻る予定だ。
「特別客」は、にこやかにマダムと椿館の人々の見送りを受け、「来年また来よう」と再会を約束して皆を喜ばせた。
従者の知る限り、同じ店に「また来る」と口にするのは始めてだ。もっとも今までは、娼婦を身請けして「持ち帰って」いたからという事もあるだろうが、同じ店を再訪したことはない。
帰りの馬車に化粧と香水の匂いがないのも、初めてのことか。従者が何ということもなく考えていると「特別客」だった主が口を開いた。
「小鳥を逃がしたな」
―――「お前は小鳥を捕まえ損ねたな」か、それとも「お前が私の小鳥を逃がしたな」か。
判りかねて、向い合わせの座席から視線だけを主へと送る。
「お前の小夜鳴き鳥は、さぞ良い声で啼いたのだろうな」
主は、にやりと口元に笑みを浮かべた。
従者が舌打ちしたい気分を圧し殺す所に、重ねる。
「まぁ、お前の後でも私は構わぬよ。籠に入れて手元で愛でたいものだな。あれはまだ美しくなるだろう」
目元に男盛りの色を滲ませて、思案するように親指で顎をなでながら追い討ちをかけてくる。
「あれは鳥ではなく花でございましょう。花はあるがまま野に置くのがよいという言葉もございます」
従者が気乗りしない調子で、車窓から外を眺めながら答えた。主のこの上なく楽し気な顔など見たくもないと、心中で毒づきながら。
「そうか。あれはお前には鳥ではなく花なのだな」
ふむふむ、と妙に感心した素振りを見せる。
「まだ咲き初めで、手折るのをためらったか」
人の悪い含み笑いの後に「お前も存外腰抜けだな」と、笑いを堪えきれないといった顔。
従者は沈黙を返答とした。
「花はほころび出すと盛りになるのは早い。芳しい香りに、すぐに虫が集るであろうよ」
主は、にんまりと笑みを深める。
椿館ではついぞ見せなかった、人の悪い笑顔だ。
従者は不機嫌を隠さずに、外していた視線を主人に向けた。この四日の内で一番上機嫌な主人には、今自分が何を言っても喜ばせるだけだと分かっている。
「お楽しみ頂けてなによりです」
従者は、逃げ場のない狭い空間とこれからの長い道程を思って嘆息した。




