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宮廷道化師

部屋のなかに誰かいるのは気配で分かっていたから、驚かない。でも接触してくるなら外だと思っていた。


 人の部屋に断りもなく侵入し、窓の外を眺めている彼の目には、リリーが帰ってくるのも当然入ったはずだ。


「新年おめでとう」

リリーは男の背中に声をかけた。


 ダンスのターンさながらに華麗に振り返った彼は、今日も帽子を目深にかぶっている。


「あなた様の健康と幸運を祈念申し上げます、お嬢様」

軽やかに返すはイグレシアスの側仕え。



 リリーは外から戻ったばかりだからコートを着たままだ。彼もきっちりと着ているのは、長居をするつもりがないからだろう。

 今来たようにもずっとここに居たようにも感じられる不思議な佇まいだ。


「お誘い致しました水の都の祝祭、お嬢様のご意向をうかがいに参りました」


 乱れてはいない呼吸を整えるように、リリーはひとつ間をおいて口を開いた。


「ご招待お受けします。諸々よろしくお願いします」


見る見るうちに男の唇が、美しい弧を描く。


「快適な旅をお約束いたします。では三日後お迎えにあがります」


 片足を軽くひく古風な一礼がよく似合う。立ち去ろうと脇を通り過ぎた彼に、リリーはが尋ねる。


「私をお嬢様と呼ぶあなたを、私はなんと呼べばいいの?」

「道化、そうお呼びつけください。お嬢様」


 静かに閉まる扉で風がおき、ふわりと香りが届く。淡く優しい香りは、ラウールとは真逆のものだった。









 三日、三日で何が出来るだろうか。ずっと付き合ってくれたマテオとマタドールに別れの挨拶をすべきだと分かっているのに、言い出しづらく思ううちに一日過ぎた。


 旅なのだから、いずれ元いた場所へ帰る。永遠の旅人がする旅はリリーから見れば旅とは言えない。



 宿のおかみさんにあと二日で発つと伝えると、悲しんで別れを惜しんでくれた。

そして「ラウールには、言った?」とすぐに聞かれる。


 朝帰りをした日、満面の笑みで迎えられて「ご期待には沿えておりません」と正直に言えなかったので、おかみさんはラウールとリリーが「男女の仲」になったと思っている。


おかみさんが「余計なことを言うようだけど」と切り出す。


「ちゃんと別れは済ませておいでよ。でないと、いつまでも引きずるのが男ってもんだからね」

「マタドールは、女の人なんてよりどりみどりだろうから、そんなことなさそう」

「色男ほど、あっさり去った女に未練を残すもんよ。しょぼくれたマタドールなんて見たくないからね」


 わかってないねぇ。おかみさんは出来の悪い子を見るような目つきで、断言した。


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