収穫祭ー準備・2
三年前
九歳のヘザー嬢は、それはそれはかわいらしい女の子だった。弟か妹が産まれる間の一ヶ月、祖父母である先代伯に預けられた。
「たまには自然に親しむのも良かろう」
そう考えた先代伯夫妻は、ヘザーを連れて夏の間、この領主館に滞在していた。
ルナは、ヘザー嬢の「学友」という名目で招かれたが、あれはまだ幼いご令嬢の「退屈しのぎの遊び相手」という方が正しいだろうと、今のルナならば分かる。
ルナが来なければ領主館にいるのはヘザー以外、みんな大人だ。大人が付きっきりで子供の相手をするのは、疲れるものだ。
それならば、同じ年頃の女の子をあてがえばいい。子供は子供同士、すぐ打ち解けるだろう。
先代伯夫妻の考えたように、身分差もよく知らない女の子二人が仲良くなるのには、時間がかからなかった。
ままごとのようなマナーレッスン、ダンスレッスン、乗馬レッスン。何事もヘザー嬢と共に教えてもらった。教師もそれぞれに優しく、ヘザー嬢とルナが何をしても誉めてくれるので、楽しいばかりだった。
先生方はもったいなくもただの子守り。一緒に遊んでくれたようなものだ。あれから数年経ち淑女教育を受けたヘザー嬢は、どれほど美しく教養あふれる女性におなりだろうか。
恐れ多い事ではあるけれど、かなうならお目にかかりたかったと、ルナは磨きあげた十二本のフォークを揃えた。曇りかけていたフォークは、今や顔が映りそうなくらいに輝いている。
仕上がりに満足して、ルナは次に磨くデザートナイフを手に取った。
もうひとり、記憶に残る方がある。
名前も伺わなかったその方とは、夜の庭園で出会った。
その夜、ルナはキッチン脇の裏の通用口から、静かに裏庭へと抜け出した。
抜け出したその訳は。
「ルナ、どうしよう。噴水のところに昼間ノートを忘れて来てしまったわ。おじい様が、明日は早くから雨だと言われたし……濡れてしまう」
この一ヶ月ですっかり仲良しになったヘザーが、今にも泣きそうな顔でこっそりと相談してきたから・だ。
私の責任でもあると、ルナは反省した。ヘザーは、おおらかで優しい性格だけれど、うっかり屋さんで忘れ物が多い。普段はヘザー専用のメイドがついてまわって回収しているそうだけれど、今回は本邸を離れることが出来ず、自然にその役目はルナのものになった。
ヘザーが立つ時や、移動した後には、ざっとルナが確認するのは習慣になった。なかなかの確率で残っており、ルナがさりげなく持って行く。
指摘すれば、ヘザーが気にするからだ。
昼間、噴水から戻る時には、絵画教師と話しながら歩いてしまったせいで、たいして周囲を見もしなかったのだ。自分のせいでヘザーにこんな顔をさせてしまったと、ルナは申し訳ない気持ちになる。
「大丈夫よ。ヘザー。みんなが部屋に引き上げたら、夜の内に取りに行ってくるわ」
裏庭の噴水なら、十分も歩かない。今夜は月も出ているし問題はない・と力強くヘザーにうなずいてみせる。
「ありがとう!ルナ」
ヘザーはようやく笑顔になった。
裏口の閂は、かかっていなかった。
毎晩かけていないのかもしれない。ルナは気にもせず、外へ出た。
館の裏は小高い丘に繋がっており、丘の上には昔に砦として造られた廃墟があると聞く。
今は荒れてしまっているが、裏庭はその廃墟をアイ・キャッチャー(添景)として組み込んだ、当時の著名な作庭家の設計だと、絵画教師が教えてくれた。
木が大きくなりすぎ廃墟をのみ込み、ルナにはただの森にしか見えない。
かつては水を湛えていたはずの噴水も、ずいぶんと前から水も出ない。ろくに手入れもされず裏庭全体が荒れているけれど、「これはこれで野趣があって良い」と絵画教師は評した。
月明かりで見る庭は、昼間とはまた違った雰囲気だ。
こっそりと抜け出したことを誰かに気付かれたのでは? ルナは何度か館を振り返ってみたが、館全体が眠りについているかのように静かで、夜の空気はトロリとした重さを感じさせた。
夜の散歩で庭を独り占め。
非日常が少し楽しくて、ルナの顔には笑みが浮かんだ。「怖くなんてない。むしろワクワクするくらい」迷うことのない足取りで、噴水に向かう。
忘れ物はあっけなく感じるほどすぐに見つかった。
昼間、腰かけて素描をしながら先生の話を聴いていた噴水の縁に、そのまま置かれていた。革張りのノートの表紙は夜の庭にはあまりに場違いで目立つ。
「あった」
ノートに手を伸ばしかけて、ふと思いつく。
……せっかく来たのだし、何か、来た証を残しておこう……
この辺りにある物で何か。
少し考えて、足元の小石をいくつか拾う。噴水の周辺に敷きつめられた小石は夜目にも白く浮かんでいる。
ルナは、噴水の縁に白い小石を並べてハートマークを描くことにした。
次に来たときに、ヘザーが見つけたら「何をしているのルナったら」と笑顔になるに違いない。
できるだけ小さい石を選び、細かく一本の線で引いたかの如く見えるようにと、いつしか夢中になって丁寧に並べて行く。
―――だから、気がつかなかった。
すぐ後ろに人が立ったことに。




