レイクサイド荘・1
いつもより少し早く起きたルナを、シスターやロージー、他の子供達も口々に心配してくれた。
倒れたことを「疲れのせいだ」と、ハリーが上手く説明してくれていたおかげで、大げさな心配はされずに済み、ルナはハリーの心遣いを有り難く思った。
考えているうちに、眠らないまま朝を迎えてしまったわけだけれど、ライオネル・ターナー氏とヘンリー・ビクター・リンデン氏は、自分を可愛がってくれたオスカーが信頼していた人物だと理解した。
なぜ忘れていられたのかと思うほどのあの惨劇を、二人に会ったことを切っ掛けとして、思い出したということだろう。
何度考えても暗示でもかけられたとしか思えない。
でなければ、忘れようもない夜だ。
たった一晩で、家族のように愛してくれたオスカーとママを失って、ルナは独りきりになったのだから。
レオンとハリーには礼を言わねばならないし、ふたりもルナの様子が気になっているに違いない。
断片的に覚えているレオンの言葉と、驚きのあまり声も出ないというようなハリーの姿は、いま思い返しても申し訳ない気持ちになる。
けれど。まずは、ひとりで確かめたいことが幾つかある。根拠のないことを取り留めなく口にするのは、避けるべきだ。
寝不足で回らない頭ながらも、ルナはそう考えをまとめた。
いつもの手順で日課を片付けていけば、早く起きたおかげで、午後の早い時間には一日分の仕事を終わらせることができた。
これなら、辻馬車を上手くひろえばあの家―――記憶の中に存在する家―――へ、夜までに行って戻ることが出来るはずだ。
あの家がまだ存在するのかどうかも不明だ。
場所も詳細はおぼろ気だが、たどり着くことができれば、まだ埋まらない記憶の一片なりとも取り戻せる。
ルナには、確信めいた予感があった
行き先をぼかしつつ道順を教えてもらったシスターリリーには、相応の言い訳をして、ルナは埃よけに薄手のショールで髪と頭を覆って身支度をした。
教会の裏手の牧草地を突っ切って街道へ続く小道を行こうと、礼拝堂の裏口から出た。
ろくに手入れもされていない古い石塀の、崩れて低くなっている所を跨いで越え、牧草地へ出る。
「これからレイクサイド荘へ往復するのは、女の子にとっては、いささか時間が遅すぎるんじゃないかな。ルナちゃん?」
思いがけない声が聞こえて、ルナは飛び上がった。
ぎょっとして、声のした方を反射的に見る。
菩提樹にもたれて立つハリーが、人好きのする笑みを浮かべて、ひらりと手を振った。
「ハリーさん……」
いたずらでも見つかった子供のように、ルナの足が止まる。
「もっと早く出かけるかと思ってたら。……いやいや、ずいぶん待たされたよ」
苦笑とともに距離が詰められる。
「すみません」
とっさに謝るルナに、ハリーの表情が「逃がすつもりはない」と告げていた。
「いいんだよ。レディを待つのは、男の楽しみだからね」
ルナの顔を覗きこむようにしながら、ハリーは自然な動作でルナの手荷物を取り上げた。
空いたルナの左手を、自分の右腕に添えさせる。
「さあ、参りましょうか? お嬢さん」
ハリーの良い笑顔に、ルナは自分の立てた計画が教会の敷地内で阻止されたことを、認めないわけにはいかなかった。
牧草地の端に用意されていた二頭立ての馬車を、ハリー自らが走らせ、ルナとレオンは言葉少なに隣り合わせで座った。
レオンが何も聞かずにいてくれることが、有難い。
時折向けられる気遣わしげな視線が気まずくて、ルナは目を閉じて過ごした。
馬車は街道を走り、途中から小道へと折れた。
道の両側から覆い被さる樹木のアーチを通り抜け、小道は少し上り坂になる。
池というよりは、おそらく人工の沼地のようなものがあり、鴨が滑るように水の上を進んでいる。
さらに行くと、轍の跡もなく草地か道かもわからなくなる頃、視界の先に少し寂れた佇まいのマナーハウスが見えた。
レイクサイド荘だ。
ルナの記憶と、ほぼ変わらない牧歌的な場所。
昨夜見た悪夢のような惨劇の舞台は、落ち着いた雰囲気のごく普通の別荘だった。
「着いたよ、ルナちゃん」
声と共に馬車の扉が開かれ、ハリーの手が差し出された。
……降りたい。降りなければいけない……
思うのにルナの身体は、本人の意思に反して全く動かなかった。
ハリーはそのまま辛抱強く待っている。
「大丈夫か?」
隣から、レオンの大きな手がそっとルナの手を撫でた。
「ごめんなさい……」
口から出た声は、ルナが自分でも驚くほど弱々しい。
かろうじて聞き取れる程の小ささだ。
ルナのあまりに頼りない様子に、男ふたりは言葉を飲み込んだ。
無理をさせるべきではない。大人ならば、皆そう思うはずだ。
「レオン」
ハリーの目配せにレオンが頷く。
動けないルナの隣をすり抜け、先に馬車を降りる。
「邸内を確認してくる」
レオンは、レイクサイド荘へ向かった。
「ルナちゃん。手を握ってもいいかな?」
ハリーの柔らかな眼差しと声に、ルナは馬車の内でうつむいたままうなずいた。
「ありがとう。……手が冷たくなってる。ボクの方が温かいね。ボクが暖めるよ。ボクの温かさを感じて」
膝の上でぐっと握られたルナの手を、外から馬車の内へと手を伸ばしたハリーが、両手でふわりと包み込んだ。
「大丈夫。君は今ひとりじゃない。ボクたちがいる。ねぇ、ボク達と一緒なら怖くないよ。出ておいで。ボクは待つよ、ボクを信じて」
砂に雨粒が染み込むように。
曇り空に陽が差すように。
抑制の利いた、それでも心からとわかる声音。
「ねえ、ボクを見て」
ルナは顔を上げて、やっとハリーと目を合わせた。




