公都のグレイス・1
お帰りが遅いと思ったらこんなところに。
ルナは共有部の階段の踊り場から、中庭を見下ろした。地面に飛び降りることも可能な高さだ。しないけれど。
石で出来ているのか或いは木製か。暗くてはっきりとはしないベンチに、腕を大きく広げて男性が座っていた。
踊り場に立つグレイスの耳まで微かに届く声には、節がついていて、耳を澄まして聞いてみるとグレイスには馴染みのない歌のようだった。公都で流行っているのかもしれない。時間がかかって田舎まで届く歌もあれば、流行っても届かない歌もある。
レオンにはくどいほど「誰が訪ねてもドアは開けるな」と言われたけれど、誰も訪ねていないこの場合はそれには当てはまらない訳だし、開けて私が外に出るのは問題ないわよね?
そもそも言われたのはルナであって、わたくしではないし。と屁理屈をそうと知りながら捏ねあげ、グレイスのする必要のない言い訳などして、眼下の男を見守る。
「失恋の歌かしら」
小さく呟いてみる。切れ切れに聞こえるハリーの声は「別れるために出会ったわけじゃない」とか「傷つけるために愛したわけじゃない」とかなんとか。
「そんなの当たり前じゃないの」と思う言い訳のような歌詞も、ヘンリーの声だと心に染みる気がするのはどういうわけか。グレイスが首を傾げていると、いつの間にか歌が止んでいた。
「ようこそ公都へ。風の良い夜だねグレイス」
ヘンリーがぐっと頸を反らして、こちらを見上げていた。いつもはきちんと着こんでいる上着は、肩に掛けているだけで腕を通していない。ネクタイは最大限に緩められているという、珍しく着崩した姿だ。
それはそれでまた、疲れた男の色気のようなものを感じさせるのはヘンリーが都の男だからか。それともある意味「欲目」のようなものだろうか。などとつらつらと考えるうちに、グレイスの返答が一呼吸遅れた。
さらりと触り心地の良さそうな髪が、額からこめかみへと流れる。
「お帰りなさいヘンリー」
夜風を共有して指先を振ってみせると、ヘンリーが微笑した。
「いつからそこに? ヘンリー」
「今さっき。本当は今夜君と出掛けたかったんだけど……思いの外帰りが遅くなって」
広げていた手を戻し、ベルトの上で指先を重ねて、仰け反るような姿勢で座るヘンリーに、少しばかり違和感がある。いつもならすぐに密着したがるのに。
今夜は「降りて来て」とも乞わず、こちらへ来ることもしない。グレイスは当然の疑問を口にした。
「お部屋へお戻りにならないの?」
「落ち着いてしまうと動くのが面倒になるから、先にバスルームを使うよ」
「すでに、動くのが嫌になっていらっしゃるように見えるわ」
人差し指で宙をつついて指摘すると、ヘンリーは「間違いない」と、クスリと笑った。
「あまり遅くならないうちにお戻りになってね。わたくしは先に休むわ」
実のある会話はしそうにない今夜のヘンリーに見切りをつけ、寝ることにしようと、挨拶する。
「グレイス」
背を向ける直前に呼び掛けられた。
あらためてベンチを見下ろすと、変わらない姿勢のヘンリーが目に入る。なに? と声を出さずに問いかけると、ひた向きな視線に射られた。
「明日は仕事を休みにしてきた。昼間はルナちゃんと出かけるつもりだけれど、夜は君と過ごしたい。そのつもりでいて」
いつものヘンリーらしからぬ視線に、言葉が直ぐに出てこない。口角を少しあげ「楽しみにしているわ」グレイスがようやくそれだけを伝えると、ヘンリーの表情が和らいだ。
「うん、僕も楽しみにしてる。おやすみグレイス。良い夢を」
「あなたもね。ヘンリー」簡単に返して、ひらりと指先を振って今度こそ背を向けると、ヘンリーはもう何も言って来なかった。すぐそこにあるフラットのドアに手を掛ける。
違和感の正体には「バスルーム」がヒントをくれた。わたくしには知られたくない何かを、洗い流してから会いたかったのだろう、とグレイスは思う。
中庭の風向きが逆だったら気がつかなかったくらいの微かな香り。それは確かにヘンリーから立ち上っていた。
清純なご令嬢を連想させる、咲き初めの初々しい花の束のような香り。潤んだ瞳と愛らしい紅く小さな唇を持ち、一心に恋する相手に寄り添う若いお嬢さんが、目に浮かぶようだ。
ほっそりとした細い腕が、体を投げ出して座るヘンリーの胸にそっと添えられる様子を想像して、思わず僅かに顔をしかめると、グレイスは後ろ手にドアを閉めた。




