序章
「さあ、今日も眠くなるまで本を読んであげよう。ここにおいで、ミレディ」
やわらかい声で、私を呼びながら自分の膝を軽く叩くその人は、カウチに座ってこちらを見ている。
同時に雷鳴が轟き、激しい雨が窓にあたる。
先ほどまでは、雨音ひとつしなかったのに。
「……!」
驚きのあまり立ちすくむ私を、彼は素早く抱き上げた。
「大丈夫。僕がいるから怖くないよ」
そっと私の頭をなでながら、自分の肩口に寄せてくれる。私がすがりつくように彼の首筋に顔を埋めると、額にひとつキスを落とされた。
「それにしても急な雷雨だね。これ程ひどければ、じきに降り止むだろう。眠ったらお部屋に運んであげるから、ここで眠ってもいいんだよ。君が眠るまで、ずっと隣にいるから」
それならば怖くないだろう? と言外ににじませて、彼は抱いている私をあやすように揺する。
それに力を得て、時折光る外が見たくなった。彼の腕の中から外を覗くのなら、怖くない。だって、ここは温かで乾いていて、良い香りがしていて。
大好きな香りだ。
四歳の私には、二十歳の彼は絶対的に安心できる大人だ。
外が見たいとせがむと、彼は私を抱いたまま重厚なカーテンの合わせ目から、窓近くへと体をすべり込ませた。二階から見る地面に叩きつける雨は、前庭の土も白く見せるほどに激しい。
稲光。こんなに眩しいのは初めて。
私が彼に言いかけた時、ひゅっと耳元で聞いたことのない音がした。喉?
くっきりと暗い庭を照らし出す一瞬の光。
見上げると、幾度目かの稲光に照らされた彼の白い顔があった。口元は微かに震えている。
彼の視線は、庭の一点に縫い止められたように動かない。私がその視線の先を辿ろうとした時、私の世界はカーテンで遮られた。
「これは隠れんぼだよ。いつもと同じ。教えたね?」「僕がいいと言うまで、声を立ててはいけない。音を出してもいけない。いいね」
灯りを落とした室内で、膝をついて目の高さを合わせてくれる彼の声は、いつものように穏やかで、落ち着いている。
かわらない。私の手を包んでいる彼の両手の冷たさ以外は。
その冷えた手で、私の口のなかにキャンディを含ませてくれる。これを舐めて声を出さないように、と。薄暗い部屋のさらに薄暗い片隅で、彼の人差し指が私の唇に優しく触れる。
お口に鍵を。そういう「おまじない」なのだろう。
理由はわからないけれど、何かが起こっている。起ころうとしている。できることは、言いつけをきいて、彼を安心させることだけ。
彼が望むなら、私は言い付けは絶対に守る。絶対にだ。だから私からひとつ、彼にもお願いをした。
「あとで、ご本の続きを読んでくれる? 私が眠くなるまでずっと」
氷のように冷たい彼の手を、ぎゅっと握る。まだ私の手は小さいけれど、少しでも温められればいいのに。
今の彼の表情をなんと表現すればいいのだろう。
膝をついて目の高さを合わせてくれている、その人の目は。微かに震える絞られた口元は。
私の手を握り潰さないように、必死で自分を押さえつけているような、指先の白さは。
そして私の世界に優しい幕が降りた。
彼が、手のひらで、私の瞳を覆ったから。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
女声の悲鳴。駆け出す軽い足音を、重い足音が幾重にか追う。
でも私は動かない。彼がいいよと言わないから。
この部屋は、もう乾いてはいない。いい匂いもしない。かわりに、知らない匂いに満ちている。
不意に声が耳元で聞こえる。彼だ。灯りはいつの間にか消えていて部屋は暗い。彼の声は近いのに、彼の温かさはない。
「大丈夫? ミレディ」
私はうなずく。
「そう。よくできました」
姿の見えない彼が、誉めてくれる。
声を出してもいいか、と尋ねようとする私に、
「まだ、だよ。彼らが戻ってくるといけない。外が明るくなるまで、そこにいて」
吐息まじりの願いが届く。
彼がそう言うならばそうする。私の口の中のキャンディは、大きさを変えず舌の上にある。
「ありがとう。明るくなるまで、側にいるよ」
彼が続ける。
「本は読んであげられないけれど、ひとつお遊びをしよう。君が本当のレディになったら、贈り物をするよ」
彼の声が、ささやく。
私の頬が濡れるのは、なぜだろう。床に小さな水の染みができるのは……どうして。そうか私は泣いているんだ。声をたてなければ、泣くのは許される?
彼の声がする。
「泣かないで、ミレディ。君の未来を守るのが僕じゃなくて残念だけれど。君はきっと、君を守るナイトに出会える。神のご加護が君にありますように。その日が来るまで、君が今夜を思い出しませんように」
「忘れなければ、きっと君は生きていられない」
初めまして
お読みくださりありがとうございます
名前・容姿・関係性などは、会話の中で入れて
いきますので、気にとめずに読み進めて頂けます
またお目にかかれますように




