靴底
ぱくぱくと、最近歩いている。僕の家はぎりぎり徒歩通学圏内で、毎日往復結構な距離を歩く。おかげで右のローファーの靴底が壊れてしまったのだ。歩くたびに靴底だけ一瞬離れて、少ししなってぱかっと戻る。そのときの音がぱくぱく。
すぐに買おうかとも思った。しかし僕の通う高校には、三年になってから靴を新しくすると受験に落ちるというジンクスがある。今は二年の夏休み前。今買い替えると、多分三年の冬にまた靴が壊れてしまう。受験の時に、ぱくぱく歩くのは嫌だ。
ジンクスを真に受けているわけではないが、そういうのは、あるだけで何となくそれに従ってしまうものだ。少なくとも僕は。
そういうわけで、二年の終わり頃まではこの靴で歩くことにした。
「最近ね、ヒロシ君が歩いてくるの、すぐわかる」
校門の前で、サキに言われた。
「愛で?」
言ってみたら笑われた。
「かき氷食べに行こうよ」
蝉時雨に混じってぱくぱく歩く。まだ行き先は決まっていない。
「いいけど、昼はどうする?」
終業式の午後というのは静かだ。車が余り通らない。
「ファミレスかなあ」
「逆方向だね」
サキがファミレス、と言ったときには僕はもうその方向へ歩き出していた。
「でも、ファミレスのカキ氷って、じゃりじゃりしてておいしくないんだよ」
サキは僕のあとについてきながら言う。
「みどりやがいいな。カキ氷は」
夏はかき氷、冬は大判焼きをやっている古い店だ。機械じゃなくて、手動のかき氷機を使っている。サラサラした氷を思い出す。
「そうだね。じゃあお昼食べ終わったら、そこまで行こう」
ファミレスとみどりやは方向が全く違うが、いつものことだ。僕らは、あまり効率を気にしない。いつも何となくふらふらして、適当に行きたいところに行く。同じ道を何度も行ったりきたりすることもよくある。
歩くのが好きなのだ。サキもそうなのかはわからないが、僕は。同じ所にいるよりも動いていた方がいい。でも落ち着きたいから、ゆっくり徒歩がいい。行き先をどこにしようか、話しながら歩くのが楽しい。最近は、ぱくぱくいう感覚が何となく愉快で、その時間がもっと好きになった。
僕はいつもサキの少し前を歩いて、サキは後からちょこちょことついてくる。
「なんか、靴底、ぺろぺろしてて踏んづけたくなっちゃうよね」
振り返ると、サキは下を向いて、歩くたび僕の靴ギリギリのところまでいちいち足を持っていって遊んでいた。
サキは校門に寄りかかり、本を読みながら待っていた。近づいていくと、すぐに気付いてぱっと顔をあげる。強い風のせいで、長い髪が絡まって顔に張り付いていた。
「何読んでるの?」
聞いた事があるようなないようなタイトルが返ってきたが、すぐに忘れてしまった。
「どこいこうか」
言いながらもう僕らは歩き出していた。僕の靴底はまだぱくぱくしたままで、もうこれは歩く時のBGMのようになっている。
振り返ると、サキは小説に再び目を落としていた。
「危ないよ」
「ヒロシ君の後ろついてくから平気」
ぱくぱく、って音聞こえるから、周り見えてなくても見失ったりしないよ。一度本から顔を上げてサキは言った。
「あとね、二十分くらいで読み終わるんだ。先が気になっちゃってね、やめられないの」
本を軽く閉じて顔の前に持ってきて、ごめんね、と言うとすぐにまた本に目を落とした。
どこに行きたい、と言っても、もう顔をあげてくれさえしなくなり、サキは黙って僕の後ろをついてくる。足音は聞こえるのに、僕の声は聞こえないのだろうか。
仕方なく一人で行き先を考えながら、ひたすら歩いていた。歩道はそれなりに広いが、夕方は人が多く通る。ぶつかりはしないかと、常に後ろに気を配り、たまに振り返ってはいたけれど、サキはそんな気遣いは必要ないというようにすいすいまっすぐ歩いていた。もう大分本の残りは少なくなっている。
ふと、傍から見たらおかしな二人だなと思った。
サキと二人でいる時、特に会話がなくても気にならない。互いに別々の事をしていても。良い関係だと思う。
それから、話をする時はどんな事を話していたかと考えた。
(どこにいく、っていう話くらいしかしてないかもしれない)
会話の切り口はいつも「どこに行く」だ。もしくは、「ここに行きたい」。行き先を指定するのは、大抵サキ。そして行き場所を尋ねるのは大抵僕。行き先についてあれこれ言って、決まったら、あとはただ歩いていた。
僕は行き先を決められずに、ぱくぱくと足音を鳴らしながら、サキを連れて夕方の街を歩いた。少しまぶしかった日は落ちて、遠くに見える林の中に消えかけている。
振り返ると、サキがいなかった。さっきまでいたのに、と慌てて辺りを見回すと、サキは僕の前に回っていただけだった。
「読み終わったよ」
手が冷たくなっちゃった、とサキは両手をこすり合わせた。本をめくるために手袋をしていなかったのだ。
「あったかいもの食べたい」
僕らは少し歩きすぎたようで、大通りから外れた、街と田園地帯との間くらいに来ていた。店はぽつぽつあるだけ、街頭も少なく、辺りは大分暗い。コンビニの光だけが煌々と目立っていて、僕はそこでサキに温かいお茶と餡まんを買った。
「日が落ちるの、早いね」
餡まんを頬張りながらサキが言う。辺りはもうほとんど真っ暗で、時計を見ると五時を回ったところだった。
「寒いし、帰ろうか」
もうすでに、さっき歩いてきた道を引き返していた。風はますます強くなり、サキは髪が顔にまとわりついて餡まんが食べにくそうだった。
「ねえ、今度クリスマスプレゼント、一緒に買いに行こう」
餡まんを食べ終えてからサキが言った。
「今度の日曜日」
「いいよ」
僕は頷いた。
その後、僕らは何も話さなかった。いつものことだけれど、今日に限って後ろでだんまりしているサキが気になった。振り返ってみると、サキは眉をハの字に下げ、寂しそうな、がっかりしたような、少なくとも元気とはいえない表情で僕をじっと見ていた。つめたい風がサキの頬を赤く染めている。しかしその表情も一瞬で、僕が振り返ったのに気付くと、サキはぱっと表情を明るくして、どうしたの、と聞いた。
「なんでもない」
何となく、罪悪感に胸をきゅっと締め付けられたような気持ちで僕は前に向き直る。またぱくぱくと間の抜けた音が夜に響いた。
日曜日に外出するのは珍しい。僕らがデートをするのは大体放課後で、僕は休みの日は引きこもりだ。
サキは薄いピンクのブラウスにスキニージーンズをはいて、トレンチコートを着ていた。サキの私服を見るのも、そういえば久しぶりだった。僕は緩めのジーンズに灰色のセーター、その上から黒いダウンを着ている。
「なんか、ヒロシ君もこもこしてるね」
駅で会ってすぐ、ダウンに軽く手を置いてサキが言った。
「休みの日ってあんまり外でないから、つい完全防備になっちゃうんだよな」
プラットホームに下りるとき、靴がぱくぱくしないのを物足りなく感じた。
僕らは二つ隣の町の駅ビルで互いにプレゼントを選んだ。僕はサキに、茶色に白の水玉のシュシュを二つと、白とピンクのボーダーのニット帽を買ってあげた。サキはまだ僕のプレゼントを迷っている。ビルの中の店と店を渡り歩くサキの後を、僕はぼんやりとついていく。サキのあとを僕がついていくのは珍しい。今日は何だか珍しい事が多いような気がする。
「ヒロシくんと同じになっちゃうけど」
小一時間ビルの中を歩き回ったあと、結局僕がサキにニット帽を買った店に戻ってきて、僕に茶色と白のボーダーのニット帽を買ってくれた。
「あ、これと一緒の方が良いよね」
店を出ようとしたとき、サキはニット帽とおそろいのマフラーを見つけ、それを持ってもう一度店の中に入っていった。
「ありがとう」
僕は渡された紙袋を受け取って言った。
昼飯はビルの最上階にあるスパゲティ店で食べた。注文を待っている間、僕らは互いにもらったばかりのプレゼントの袋を開けて身に着けてみる。サキはピンクが似合う。
「なんかヒロシ君、ますますもこもこになっちゃったね」
マフラーとニット帽を身に着けた僕をみてサキが笑った。
お店の中ではダウン脱ごうよ、言いながらサキはニット帽を袋の中に戻す。丁度カルボナーラとミートソースが運ばれてきたところだった。
春の気配を感じるというと、何を気取っているんだと自分で思ってしまうが、このところ空気が湿気を帯びて、確実に温かくなって来た。今日は突風が吹いている。春一番というやつだろうか。サキはシュシュで長い髪を二つに縛り、ピンクと白のボーダーのニット帽を被っている。クリスマス以来、ずっとそうだ。
僕は夏から段々靴底のぱくぱくが気に入ってきて、歩くたびに大袈裟に音を出したりしてきたものだから、もう靴底は半分以上べろべろだった。最近はぱくぱくなんていう可愛らしい音ではなく、ばくんばくんと、しまりのない音になっている。
僕らはいつもと同じように、行き先を決めずにふらふらと歩いていた。
「そろそろ買い換えるの?」
サキが後ろから聞いてきた。
「うーん、どうしようかな」
靴底が、一度足の裏を離れ少ししなってから勢いよく戻ってくる感覚が、もっとも最近はべろべろになりすぎて戻ってくる勢いも半減しているが、それが楽しくて、ずっとこの靴を履いていようかと考えていた。
「どこにいく?」
サキに聞いた。
「今日はあったかいから、ヒロシ君についてく」
温かいから、というのが理由である理由はよく分からないが、僕はそう、とだけ言ってあとは黙って歩いた。また、ただ歩いて終わりになってしまいそうな気がする。
ばくんばくんと鈍い音が風の音に混じって響いていた。ふと靴裏の感覚がおかしくなる。べろんべろんになった靴底が、つま先の方へ半分に折れ曲がってしまったのだ。
「どうしたの」
すぐ後ろを歩いていたサキが僕にぶつかりそうになりながら言った。
「いや、なんでもない」
ちょっとこれは流石に使い物にならなくなったかな、と思いながら足を振って靴底を元に戻す。再び歩き始めると、靴はばくんばくんとならなくなっていた。ついでに言うと、足裏の感覚も少しおかしい。
「ごめんちょっと待って」
僕は止まって、右の靴を脱いだ。あれだけべろべろになっていた靴底が、くっついている。靴底を持って少し引き剥がそうとしてみる。すると、靴と靴底の間に、白い柱が何本も出来た。
「……ガムだ」
僕は気分ががくりと落ち込むのを感じた。お気に入りが理不尽に壊されてしまったような。
「一応、直ったってことじゃない?」
ガムの柱を覗き込みながらサキが言った。
「冗談じゃないよ」
僕はため息をつきながら、仕方なくそれを履き直した。僕らはまた当てもなく歩き出す。ばくんばくんという音がしなくなったとたんに、辺りが静かになった気がした。
クリスマス前に買い物へ行ったときもぱくぱくする靴を履いていなかった。しかしそのときとは、物足りなさがずいぶん違う。
袖口が、くんと引っ張られた。振り返ると、サキがつかんでいる。眉はハの字に下がって、不安そうな顔をしていた。今までにも、何度か見たことのある表情。僕はサキのこの顔を見るたびに、理由はわからないけれど、罪悪感に襲われる。いつもはすぐに笑顔になるのに、今日はその気配もない。僕はサキの顔を見ていられなくて、前に向き直る。顔は見えないけれど、それでもつかまれた袖口からサキの緊張が伝わってきた。
「どこに行くの?」
しばらく歩いた後、サキが尋ねた。非難めいた口調ではない。しかし、どきりとした。
サキが行き先を尋ねる事はあまりない。もしかしたら、一度もなかったかもしれない。僕がふらふらと歩いているだけでも、特に何も言わなかった。僕らは、ふらふらしているか、サキが行き先を言うか、どちらかだった。
僕はすぐには答えられずに、黙って歩いた。
素直に足の裏についてくるようになった靴底は、履いていると変な感じがする。
僕は一瞬立ち止まって、今来た方へ歩き出した。
「靴屋」
そう言った時、サキはどんな顔をしていたのか。
ただ、袖口から伝わる緊張は消えて、僕らは黙って歩いていた。




