序章
人、天寿を尊び和を貴しとす。
然れど刃を握ること事欠かず。
いちど振るわば避けえぬ修羅の道。
我が道と歩むが剣の道。
此処に修羅を行く剣鬼が一人。
幕開けるは人界に禍乱を招く魔刀を巡る幻想譚。
海原のように続く荒野。
その一辺に難攻不落と謳われた砦があった。
白岩城と見た目そのままに名付けられ、堅牢な壁を構えて百を超える年背を耐えの凌いでいた。
しかし、今宵はそれまでの年背とは様相が違っていた。
雪のように白い玻璃の壁を染めるのは鮮血。まだ新しいそれは壁を滑り床を濡らしてゆく。
壁にもたれ眠る……否、既に事切れ肩口より広がる刀傷から朱を垂れ流すは砦の守人。
砦を守るために剣の才を磨き、妙手とすら謳われるほどまで上り詰めた青年。しかし、今は正面より一刀に付され骸と成り果てた。
同じように既に命の息吹を失い、骸とかした者は合わせて六つ。
全てが全て妙手、一流の剣客として世に名を鳴らす程である。
この惨状を引き起こしたのは悪辣非道と太平の世に名を轟かす三魔会の仕業か、あるいは真の悪鬼羅刹の仕業か。
……事実はそのどちらでもない。
たった一人の剣鬼。
如何な人斬りであろうと兵集う不落城に一人で攻め入るなど、道を行く全ての者が一笑に付すであろう。
だが、それは市井を跨ぎまことしやかに語られる噂話などではなく、純然たる事実。
「貴様、ここがどこか知っての狼藉か?」
砦の中心に位置する部屋を塞ぐ城門を思わせる扉、その手前で壮年の男が刃を抜き放ち剣鬼に問う。
扉を背に経つ出で立ちは獲物を前にした虎の如き重圧を放ち、そして一部もの隙もない。
達人、そう呼ばれるに相違ない使い手であることは疑いようもない。
身なりは整えられ、首を覆うほど伸びた白ひげは一纏めに据えられ、同じくまとめられた頭頂には冕冠すら飾られている。
この壮年の男が如何程の使い手で如何程の位のものか想像は難くない。
対する剣鬼の出で立ちは嵐の中千里を渡り歩いた直後と思える程汚れきった黒の外套という物寂しさ。
だが、顔を半分も隠れるほど深く被られた黒頭巾より覗かせる口元は余裕の笑みを見せていた。
「それを問う意味はあるか?」
腹の底を凍りつかせるような酷く重く冷たい声で剣鬼が答える。
顔も見えぬ身なりであるが、その一声で剣鬼が男であることが窺える。
「くっくくっ……然り」
無遠慮な返しであったが壮年の男は宴会の席で心潤わせたように笑みを覗かせ答える。
「貴様がどのような理由でこの狼藉を働いたにしろ、もはや残されるは死あるのみよ」
達人が刃を躍らせ剣鬼に向ける。
殺意は一重に剣鬼に向かい、空気が震える錯覚すら覚える。
対する剣鬼はただ歩いた。
見物人が放牧された牛を眺め牧場を散策するような所作で。
既に殺し合いの最中。そのような所作を取るものなど正気を疑う他ないだろう。
それが詐術でない限り。
殺し合い、取り分け剣術とは化かし合い。
対敵の手を読んだものが勝利を収める。
なれば、このような詐術もあって然り。
対敵の正気を疑いまんまと思うがままになるが三流。
対敵の詐術に気づき意味を探るが妙手。
そして、達人とは動じず、揺るがない。
ただ対敵を斬る。
その過程で対敵がどのような詐術を繰り出そうと尽くを凌駕し刃を振るうものだ。
この壮年の達人も例外に漏れず。
剣鬼の所作に微動だにもくれず、己の間合いに立ち入るならばその時に成すことをなすと構えるのみ。
それを知ってか知らずか、剣鬼は一歩、また一歩と歩を進め、遂には達人の間合いへと足を踏み入れた。
刹那、刃が振るわれる。
「──既に決したと知れ」
「ぬっ……ぐわぁ……」
達人を背に剣鬼は歩みを進めていた。
苦悶の声を漏らす達人、その肩口より一目見て分かる致命傷。
雌雄は決していた。
「貴様、その剣技……朧紫電か……」
留めなく血を吐き出す胸を抑え、達人が漏らす。
朧紫電、と呼ばれた男は振り返ることもなく答える。
「このような僻地にも我が異名が知れ渡っているとはな。存外悪い気はしない」
「……貴様のような下郎が……何故あれを……」
「それこそ知れたことよ。剣鬼が剣を求めて何も可笑しな事はあるまい」
「あれは……御夜城剣はただの刀ではない……太平の世に争乱を巻き起こすものだ」
「争乱か。何、望むところよ。我が剣は死合い場にて生くべきものよ」
「罪もない民草を巻き込んで何が生くべきものか……。剣とは民草の為に振るわれるものなり」
「民草の為にだと?成程、貴様に我が剣を捉えられぬも道理よ。そのまま夢見心地で果てるがいい」
背を向け魔刀の元へと進む剣鬼。
壮年の達人は既に事切れていた。
向かう先を壁よりも厚き玻璃の扉が塞ぐ。
だが、その程度の扉では剣鬼の道を塞ぐには足りるはずもなし。
いとも容易く切り捨てられた扉を潜り、遂に剣鬼が魔刀に手をかける。
果たしてそこに鎮座するは太平の世に禍乱を齎すとされる邪悪なもの。
煌びやかな装飾などなく、無骨なままに武器としての姿を持つだけの悪意。
まだ眠っているのだが、放たれる重圧は迂闊に近づくものを射殺してしまうほどに感じる。
魔刀と呼ばれるほどのものであるが、改めて異様。
鞘で眠るままでこれほどとは、一度抜かれれば如何に恐ろしきものか。
百を超える年背を眠り、封印されしそれは巡り巡って剣鬼の元へ。
何ら抵抗も見せずに引き抜かれた魔刀は、初めから持ち主がその者であったかのようにすんなりと手に馴染む。
「と、頭首様……」
己の血溜まりに眠る達人の元へ遅れて衛兵が駆けつけてくる。
一目見て手遅れだと分からぬはずもないのだが、衛兵共は必死に体を揺さぶり、やがて剣鬼へと視線を移す。
「おのれ下郎。報いを受けるがよい」
いっせいに抜刀し突き進む。
「……四つ……五つ……六つ。試し斬りにはちょうどよいか」
西暦二千といく年か。
旧時代と区分されもはや曖昧となり、正確な年月すら忘却されつつある年。
相次ぐさんまの不漁により、遂に世界は混迷の時代へ。
血で血抜きを行い、隣人のさんまを食らう混世。
多くの民草が住処を、或いは命すらも失った。
その最中に在ったものこそ三つの魔刀。
大気すらも凍ると謳われ、人修羅が住むとされる北界洞より生まれ日ノ本へ齎された災厄。
即ち、「御夜城剣」「巌手剣」「刀山剣」である。
千年の時、或いは全ての人が死滅するまで続くとされた争乱はこの三つ魔刀により戦火を広げ、終わりを迎える。
戦うことに疲弊し、遂に矛を収めることを願った人々はこの三つをそれぞれ別の場所に祀り、それを中心に国を勃興。
互いが互いに災厄を保持することで一応の抑止力を得て薄氷の和平を結んだのだ。
そうして西暦から三魔暦に変わりいく百年の時が流れる。
悲しきことは人とは忘れることを良しとすること。
かつての争乱を忘れ、さんまを分け合い薄氷であった和平が堅氷へと。
その代償に魔刀の存在は薄れていったのだ。
──そして、三魔暦三百年。
魔刀は世に放たれた。