第6話 守れ
佐藤瑛大は部屋に戻るや否やトイレに駆け込むと便器に向かって嘔吐した。一度戻して落ち着いた後、学生服の第一ボタンを外し、少しでも呼吸を楽にしようとした後で、青白い顔を再び便器に近づけて吐いた。
(殺された……、宮本さん……)
出すものもなくなったのか、彼はようやく立ち上がりトイレを後にした。それから小さく震える手でスマホを取り出すと「ににぉろふ」を起動した。
「水」
いつの間にか現れたそれの蓋を何とか外して一口含み、ゆすぐ。口内がさっぱりしたところで二口目を飲む。佐藤は洗面所の鏡に映る自分の顔を見た。ひどい顔だ、と彼は思った。
(宮本さんは、彼は、何も悪いことをしていない……)
佐藤はそう考えながら部屋を歩く。寝室のベッドに辿り着いた時点で彼はそこに倒れ込んだ。
「違う……」
誰に話すわけでもなく呟く。反響も返事もない。
(昨日も一昨日も、悪いことをした人が、選ばれたわけじゃない……。でも、でも、死んだ……)
佐藤は横向きになって体を丸めた。
(じゃあ、近藤、さん、は死んで当然だった?)
彼はその答えを持っていなかった。彼は、例えば死刑制度にしても、賛成でも反対でもなく、分からないという立場を常に取っていた。偉い人が決めたのだから正しい。そうしていた。
(人を殺したのなら、死んで当然? 法律でも死刑、あるし、どう……って、やっぱり、そうなのかな? でも、それって……)
佐藤は丸めていた体を縮こませ、目をギュッとつむった。
(僕たちも人を殺したことになるのかな……。1人で1人殺したら投票先に選ばれる。それなら、96人で3人、殺したことになる? それなら、僕たちは死んで当然? 今は96人で3人……、1人、0.03人……、最後の日は51人で48人……ほとんど1人で1人だ……)
佐藤は何とか事実を抽象的に、ただの数字にして自分をごまかそうとしている。しかし、最終日が近づくにつれてその数字が彼の幼い理論の首を絞めていく。
(このゲームから脱出できても、そのときにはもう、1人、僕が殺したことになる? なら、僕も……殺されて、当然? 誰に? どうやって?)
そのことに気づいた彼も頭の中の逃げ場を探そうとして、見つけた。
(そうだ。投票先は明らかにならないんだった。だから、96人が3人殺したんじゃない。その日に選ばれた人に票を入れた人たちが殺した。均等に責任があるわけじゃない。それに、誰が入れたのか分からない。だから、特定できない。僕たちの誰でもない誰かがやったことになるんだ。他の人から見たら誰でもない誰かがやったことになるんだ)
佐藤はその考えに満足した。自分は自分自身の投票先を知っているという重い事実を都合よく忘れていた。それからもう1つ、彼の言う、悪いことをしていない人でも選ばれるという事実を頭の隅に追いやっていた。
柔らかいベッド、まさにと言わんばかりにちょうど良い室温、それから制服に残っている自宅の洗剤の香り、そして、緊張が解けたことで、佐藤の意識はそのまま薄らいでいった。しかし、それの安らぎを妨げたのはスマホの着信だった。
佐藤は一瞬で跳び起きた。心臓が激しく鼓動し、呼吸が荒くなる。脳裏にはこのゲームで死んだ人の顔が、特に血まみれになった宮本の顔がだんだんと青ざめて、くたっと力が抜けた瞬間が思い起こされて、トイレに行く間もなく、佐藤は手近にあったゴミ箱に向かって吐き出した。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
佐藤は胃の中のものを出し尽くして、もう出るものもなくなって、ようやくスマホに手を伸ばすと「7SUP」を立ち上げた。
『佐藤くん、大丈夫ですか?』
差出人は二瓶だった。
『顔色が悪かったので心配です。話したら楽になるかもしれません。気が向いたら連絡くださいね』
『ありがとうございます』
佐藤は話した方が良いのかどうか分からない。話したところでこれまでしたことがなくなるわけではない。しかし、気の持ちよう、考え方で次第で気分が楽になることも、救われることもある。しかし、そうならないことも当然ある。
佐藤は書けない。束の間の逃避、安息を邪魔された苛立ち、恐怖、相手の善意を善意と受け止められないもやついた気持ちが胸中を巡り、そして――。
「もう、やだ」
佐藤はスマホをベッドサイドテーブルに置くと、掛布団を被って必死に目をつぶった。二瓶もまた同じ立場にあることなどは考え付きもしなかった。
*
三石は何人かとともに野口の部屋に集まって、床に座り、それぞれが好きな物を食べていた。部屋に取り付けられたスピーカーからは流行のユーロビートがガンガンと重低音を鳴らしており、壁にはそのグループのポスターやTシャツが飾られている。話の内容といえば、お気に入りのアイドルや漫画の話であって、とても『透明な殺人鬼ゲーム』に参加しているとは思えない。
野口がハンバーガーの最後の一口を食べると包みを両手でグシャッと丸め、部屋の隅に置かれたごみ箱に投げ込む。綺麗な放物線を描いたそれは見事にそこに収まった。
「なあ、そろそろ明日の投票先、決めないか?」
「あー……だな! よっしゃ誰にすればいいん? 颯真クン?」
濱崎は興が削がれたと、ほんの一瞬、本能の部分で感じたがすぐに、野口にとってはしばらく経ってから、スマホを操作して音楽を止めた。三石を含む他のメンバーも自然と野口の方に注目する。
「ほら、今日はさ、完全にあの近藤って奴で決まりだったじゃん?」
野口は当たり前のことを問いかける。
「で、明日、基本時田たちの投票先に合わせて、でも今日みたいに明らかにそいつで決まりだったらそっちに投票しない?」
「でもさ」
三石がバスケットボールを片手で触りながら口を開いた。
「今日の話でなんか、入れる前に話すって決めたんじゃね?」
「無視すればいいっしょ、怜誠クン」
濱崎がごく当然のように言い切った。野口は意外そうな顔をしたが、すぐに濱崎が言ったことの足りない部分を補い始める。
「虎王クンの言う通りじゃね? 誰に入れたか分からないんだし、名前言われた人よりもさ、俺らにとっていなくなった方がいい人が選ばれた方が、よくね?」
「あー。だねー」
三石は相変わらずボールを片手で転がしつつ、返事をした。
「もし俺ら選ばれたらどうする?」
「そりゃ全力で守るっしょ! 絆じゃん」
濱崎が堂々と言った。真っすぐに明後日を見ている。
「でもさ……、やっぱ何でもない」
三石は歯向かうわけでもなかったが、続きを言おうとして、止めた。
(それ……、グループがバレるし、それに……、それに、お前を庇う理由、ないじゃん?)
「怜誠クン、どした?」
濱崎が顔を覗きこむ。剥き出しの汚れた犬歯や脱色した長髪、耳たぶに光るドクロのピアス、眉毛のない三白眼の一重が三石を捉える。
「何が?」
三石は、濱崎を心の中でバカにしていたことがバレたのではないかと思い、首筋に嫌な汗が吹き出すのを感じた。ボールを触る手が止まる。
「いやなんかメッチャ話すじゃん」
しかし、回答は三石の予想とは異なっていた。
「いや偶然、偶然。たまにはテンション上げないとじゃね?」
三石は普段通りの振りをして、ボールを持つと胡坐をしている足の上に乗せて抱えた。濱崎がキレたら顔面に叩きつけられるように。一方で、三石のわずかな頭に濱崎の言ったことが残った。
(いや、マジかも。何で俺こんなに話してんの?)
「それで、さ」
唐突に野口が切り出した。右手で頬を掻いている。
「なんか、あれ、ごめんな。ほんとは俺らの立場、良くなるようにしたかったんだけど」
野口の言う「あれ」とは、先ほどの話し合いで、君島に論破されたことである。誰もが分かることである。彼の右手は首の後ろを掻き始めた。
「いや、いいって、マジで!」
濱崎がフォローに入ると他のメンバーも口々に慰めの言葉をかける。それを聞いた野口は顔をほころばせるといつもよりも大きな声で「次! 次はマジだから!」と約束をする。
(こいつ、口だけで本当は何もできないんじゃね?)
三石は、へらへら笑っている野口を見ながら密かに思った。
*
高橋は水鳥の部屋で他の何人かとともに明日の予定を確認していた。彼女は最前列に座って幸せを感じていた。何故なら――。
「真弓ちゃん、もう、大丈夫?」
水鳥が心配してくれるからである。
「ええっと……」
高橋は何をどう返事してよいのか分からなかった。ただ、水鳥の顔に見とれてポーッとしている。すでに間近で何度か見ていても、一緒の部屋にいたことがあっても、彼の顔に慣れることはないようであり、さらに、何と言っても――。
「もしかして、まだ痛いのかな? 辛かったら部屋で休んでいる?」
水鳥の注意を、視線を独り占めできる。
「真弓ちゃん?」
「あ、だ、だいじょぶです!」
高橋は何とか答える。ずっとこのままでいたい。そう心の中では願っているが、そうはいかない。
「……」
「……」
他のメンバーからの視線が刺さる。彼女たちも怪我をしたことや襲われたこと自体は心配してくれている。心配してくれているが、水鳥との甘い一時を長々と楽しもうものなら、その次にされることは仲間外れだ。そうなれば、死、だ。その辺が鈍い高橋でも分かるくらいの鋭さである。
「そう、良かった。じゃあ、続きだけれどもね――」
水鳥が話を元に戻すと、高橋へ向けられていた視線の槍は下ろされた。高橋はほっとしつつ、水鳥の話を聞いていたが、その実、今の自分の状況に酔いしれていた。
(怪我するのも、ちょっとくらいならいいかも)
「明日、広間を監視するのは千裕ちゃんと優香ちゃんだね。2人とも気を付けて、何か気になることがあったら覚えておいてね」
名前を呼ばれた須貝と北舛は「はいっ」と小さく気合を入れて返事をした。
(みんな、優しくしてくれる。究君も私を見ていてくれる。気にしてくれる)
高橋にとって一番大事なことは、大半と同じように、生きてこのゲームから脱出することである。つまり、一番優先すべきは自分と、自分の一番大事な人の命である。しかしそこに贅沢なものが、憧れどころではなく現実的な意味を持って付加されてきていることに高橋は気づいていない。
「それから、明日のことなんだけれども、松葉さんの言っていた指名システム、あれ、よほどのことがないと誰も言わないと思うんだ。だってそんなことしたら、自分がこのゲームに乗り気ってことになるよね? だから僕たちが名前を呼ばれることはないと思うんだけど、もし、そうなったら……」
水鳥はゆっくりと全員の顔を順々に見る。この次に言う台詞は、水鳥が彼女たちに初めて使う、厳しいものだ。だからこそ、聞き手がどの程度心を開いているのか、表情の微妙な差異を瞬時に読み取ったのである。
(もう少しの間、痛いってことにしようかな? 怖くて眠れないって言ったら、もしかして……なんてあるかな?)
例えば、高橋が話半分に聞きながら夢の世界に飛び立ちかけているのも、水鳥はほとんど正確に読み取っている。
「助けてあげられないんだ」
水鳥は優しい声を使いつつも目に映る言葉のインパクトを読み取り、次の言葉を選ぶ。そして、それに最適な間とトーンを、表情を、付け加える。
「みんな、助けるのはすごくいいことだよね。でも、その次に聞かれるのは、それなら誰が替わりに、ということなんだ。それに、もし僕たちの何人かが庇ったら、同じグループだって知られるよね。だから、自分の力で何とかするしかないんだ」
「あの」
本村が手を挙げる。水鳥が笑みを浮かべて発言を促す。
「明らかに悪い人がいたら、その人を言えばいいんじゃないかな?」
「そうだね。そういう人がいたら、その人の方が選ばれると思うよ」
その言葉を聞いた本村はほっとした顔になった。しかし、水鳥は続ける。
「でもそれは、先に、だよね。今日と明日で2日、そういう風に選ばれるはずだよ。他の人にとっては、冷たいようだけれど、両方とも選ぶのが一番いいんだ。だから、自分がその人たち、全員にとって大事だってちゃんと言わないといけないんだ」
やんわりとであるが、否定されたことで本村はしゅん、となった。何人かが「余計なことを言うな」と言わんばかりの視線を本村に向ける。
「でも、ちゃんと考えて話してくれたことは、すごく良かったと思うよ。嬉しいな」
水鳥は褒めた。絶妙な程度で、であった。褒められた人が張り切るように、他の人も倣うように。あまり褒め過ぎると嫉妬で足を引っ張りあってしまうことを水鳥は熟知している。
(あ、私の番は……明後日。頑張らないと。それまでは……このままでいようかな? だって、多分、ううん、きっと、怪我をしていたら、投票先に選ばれないよ。だって、可哀想でしょ?)
高橋は全てを自分の都合のよいように解釈した。生き残るために、水鳥と親しくなるために。死にかけた事実などのことは、とうに忘れていた。
*
政所紫音は吉野の部屋に他のメンバー全員と一緒に呼ばれていた。吉野の部屋はデフォルトの内装を取り払って高級そうな洋風の家具で統一されており、その中に置かれている柔らかい臙脂色のクッションの付いた肘掛け椅子にそれぞれが座ると吉野は口を開いた。
「悪いねぇ、急に呼んだりしてさ」
この呼び出しは完全に予定外のものであったわけではない。時間が早まったのである。
「明日の投票先は、濱崎虎王にしようかねぇ」
(濱崎……、あの乱暴そうな子よね。理由は、それかしら)
政所は吉野の言葉を受け止める。そして、他のメンバーと同様に理由や今後の展開を質問することもない。
「それから、あたしたちは力もないし、女だ。今日みたいな奴がまたいつ出てくるか分からない。野蛮そうな奴とは距離を取るのがいいねぇ。投票で選ばれるならまだ事前に分かるかもしれないけれども、いきなりナイフでブスッてのは、逃げようがないじゃないかい? 普通に考えて、そんなことしないと思ったんだけどねぇ」
吉野は顎を上げて堂々と話した。
(普通に考えればリスクしかないわよね。だって、そんなことしたら投票されるに決まっているし、自分と自分の一番大事な人が優先じゃない? 血迷ったのかしら)
政所は目の前に座っている夏里の白髪から覗く頭皮を見ながら近藤の行動を不思議に思った。
(大体、自分の意思で誰かを殺すなんて……。やっぱり血迷ったのよね)
「ただ、誰も見ていないってのなら話は別にならないかい? 一応警察サンはいるけどさ、鑑識じゃない。どれくらいできるのか分からないけれど、人前でやるのに比べたらずっと安全さ」
吉野はその続きを言う前に一度沈黙を設ける。彼女はそうすることで聞き手が自分の言葉を飲み込むまでの時間を作ることができると知っている。
(それはそうかしら、ね。でも、見つかったら確実に死ぬのよね。それに、人が人を殺すなんて……、私たちのしていることは、まだ、ニニィにさせられているって理由があるけど……)
「それに、悪い言い方だけれど、殺せば得をするんだ。このゲームを生き残って終わらせやすくなる。少しだけれど、それでもやる奴はやるってもんだ。こんな状況だ、良識や倫理は通用しない。だから、誰かを部屋に招くときなんかは本当、気を付けないとだねぇ」
吉野は目を細めた。それから、水を一口飲んだ。
「野蛮そうな人には近づかない。でも、露骨にじゃあダメだろうよ。あくまでも善良な人間として応対しないと。そうだねぇ、1.5m、自分の身長くらいかね、絶対に近づいちゃいけない。野蛮な人から身長分離れる。覚えておいて損はない」
「野蛮な人から身長分……」
何名かが頭に刻み込むようにぶつぶつと呟く。
「野蛮な人から身長分。明日の投票先は濱崎虎王。それじゃ、終わりにしようかねぇ」
その合図をきっかけにそれぞれが動き始めた。自分の部屋へ戻る者、誰かと寝る前に雑談をしようと誘いかける者、吉野に話しかける者……、政所も自分の部屋に戻るのにスマホを取り出し「カードキー」を使った。視界が一瞬歪むと、そこは誰もいない自分の部屋であった。
「さて、と、今日は何にする?」
政所は癖でつい独り言を呟くと、それに返事をしてくれる夫の存在がここにはないことを思い出して寂しげにくすりと笑った。
(別に作らなくてもいいのよね。何にしようかしら)
少し考えた後で政所は結局食べ慣れている夕食のメニューを「ににぉろふ」を使ってテーブルの上に並べる。
(そう言えば……)
箸を持ってコロッケを2つに割ったとき、政所は近藤が最期に言った言葉を思い出した。
(『――お前らだって昨日! 一昨日! 殺したじゃないか! 何が違うんだよ! 目に見えてないだけだろお! お前らだって、これで得したんだろお――』)
近藤の言葉は事実であった。政所はそれに気付く程度には聡い。
「そんなこと言われても、ね……」
しかし、何が違うのか、と言われると言い訳はいくらでも思いつくが、根本のところは同じような、違うような、と政所は思う。現実でもそうだ。非道徳は薄めれば非道徳ではなくなるのか。法に触れるか触れないか、もっと言えば、不法行為と裁判所で判決が出るかどうか、そうならないのなら、そうならないうちは、それは――。
(それより、これからも生き残ることを考えなくちゃ)
政所は潰れかけたコロッケを箸で器用にまとめると、口に入れた。それはただのコロッケなのに、ジャガイモの甘みと牛肉の旨みが極上で、高級なデパートでも並んでいないような、一流のシェフが作ってようやく追いつきそうな味であった。
*
影山の部屋には何人かの男女が集まっており、ネームラベルの貼られたポーンを動かしながら明日以降生き残るための立ち振る舞いを話し合っていた。事務机やホワイトボードが並ぶ無機質なそこは生活のための空間ではなく、働く、つまり生き残るための情報を集約して知恵を絞る空間となっている。
「まとめよう」
影山が全体に向かって言うと場はしんと静まり返った。
「まず、水鳥を中心にした若めの女性のグループ、吉野を中心にした似た年代の女性のグループ、それから、笠原を中心にした大人しそうな子供たちのグループ。この3つは一枚岩だろう。水鳥はカリスマで、吉野は金で――自分が生き残ったら2000万円を渡す、でしたか?」
影山が猪鹿倉晶子、情報を入手したスーツ姿の表情の乏しい女性に尋ねると猪鹿倉は即座に淡々と答えた。
「ええ。さぞ嬉しそうに自慢されました」
「前2つは内部でポジション争いがあるかもしれないが、この3グループは基本的に1つの思考で動いていると思っていい。それから、時田のグループと野口のグループ、それから高邑のグループ。これらが裏で手を組んでいるはずだ。この3人をよく見る野郎が何人もいたからな」
影山の説明を聞きながら関口がポーンを動かしていく。何人かは推測で配置しているが、それでも比較的見やすい勢力図が出来上がっていく。
「このグループは元から割れているだろうが、お互いの面識がある。基本的に投票先はまとまるが、守る人はバラバラだろう」
「それと、高円寺……そこじゃない、高円寺、高円寺稔だ」
ポーンを探す関口が別のポーンの塊に手を伸ばしそうになっているのを見て、影山は正しい方へ誘導する。関口は表情を明るくするとその通りにする。
「そう、それ。あののんびりした作業着の爺さんだ。残りをまとめるのなら彼くらいということだったな。 このグループは基本、情報共有程度でまとまっていないだろう。残りははぐれ者だが、ここの境界は曖昧だ。どちらにしても、そう影響力はない。こんなところか」
「そうですね」
藤田が相槌を打つ。
「後はスパイですね。先の話し合いでも議題に挙がりましたように、各勢力間で情報をやり取りするにはほぼ必須です」
「藤田さんの言う通りだ。完全に仲間ではないだろうが、利害が一致すれば協力するに越したことはない。このゲームは基本的に多数決だ。それに、相手の手の内が分かればこちらの投票先も計画しやすい」
「でも、スパイって危険じゃないんですか?」
関口が腑に落ちないといった顔で無意識のうちに髪をかき上げながら尋ねた。
「メリットがあります。まず、どちらのグループからも役立つと思われている限り投票先に選ばれません。それに、仮に一方のグループが全滅しても他方に寄れば生き残る可能性があります」
仁木佑亮が説明し出す。ブラック企業でプログラマーをやっている彼はこの手の話、パターン分類して整理することが好きだ。
「それならみんなやった方がいいんですか?」
関口は未だよく分からないといった様子で両腕を組みつつ再び尋ねる。
「スパイと一口に言っても、何パターンもあります。1つは例えば、Aのグループの情報をBのグループに流すだけの場合。Aはそのことを認知していません。次に、AB間の情報を橋渡しする場合。この場合、投票先をまとめるのが目的でしょうから共有したい情報だけ、あるいは意図的な嘘が伝わるでしょう。AもBもこのことを知っているわけです。最後に、実は、どちらにも属していない場合。要は、グループの意向とは全く別に考えた嘘を織り交ぜて自分が生き残り易い状況を作るということですね」
仁木は一旦ペットボトルの水を飲むと、続ける。
「1つ目と3つ目はそれなりの能力が必要です。正体を隠し、相手に信用されて、時に自分の言うことが真実であるように演技し、整合性のつく嘘を組み立てなければ、つまり、裏切り者です。生き残ることは非常に難しいでしょう」
「それならやらない方がいいじゃない?」
長堂マリアが大きめの声で尋ねた。彼女は私服の上からは分かりにくいが、非常に筋肉質であり、それが声量に反映されたようである。
「そうするのが、最も自分が生き残るのに適しているやり方だと判断すれば行うのだと思います。それに、大きい集団を陰でコントロールすることや、失敗したら死ぬというスリルを味わうこと、自分の有能性を何にしても証明することは、その手の人たちにとって代えがたい何かです」
仁木は説明を終えると影山の方にアイコンタクトを送った。
「仁木さんの言った通りだ。この中で、まずはスパイをできそうな人物は誰だろうか? どこと繋がっているのだろうか? 最適なグループと、とは限らない。相手側からアプローチされる場合もあるだろうからな」
影山たちは机の上に並べられたポーンに改めて目をやると、怪しそうな人物の目星をつけ始めた。判断材料が限られた中で行うことができるのはあくまでも推測であり、話し合いは程なくして終わった。
全員が自分の部屋に戻った後で、影山はその部屋の隅々まで調べ上げた。盗聴器が2つ、事務机の裏側とカーテンの内側から見つかった。影山は憎々しげにそれらを見ると、床に叩きつけてから踏んで壊し、それから初日に集まったメンバーを再び招集した。彼にとっての本当の話し合いはこれからであった。
**
日本語
日本人なら日本語の読み書き聞き話しができて当然というのは大分前の話かもしれない。今は、文章を音として目に入れて、耳を通し、口から出すことはできても、肝心の内容は恐ろしいほど伝わっていない人が、本当に驚くほど普通にいて、それが普通と思う人が普通にいる。そういう人の脳を経由してしまった日本語は混沌属性が付与されて、特に文章だと、わざわざ小難しい助詞や接続詞が間違えて使われていて、その文章をそういう人が読んでまたカオス変換した日本語が……ってなると常人は気が狂う。実際、ニニィのお友達のお友達も、大きくなってから今までの自分がおかしかったのかと真剣に悩んで、日本語の文法を0から勉強しようとしていたよ。