第1話 選ぶな
男が目を覚ましたのは、昼とも夜とも分からない、広い無機質な白を基調とした空間の、中央よりやや左端の壁際である。男はそこにいる理由に覚えがなかった。最後の記憶はたまの休日のこと、いつものジャケットスタイルで街へ繰り出そうと靴を履いて――確かにドアノブを握ったのだが、その次に起こったことはどうしても思い出せなかった。
(何だ、ここは?)
男は鈍い頭の中の痛みを誤魔化すように眉を寄せると、自分がつい先ほどまで倒れていた場所の周囲を見渡した。
そこにはすぐ前までの男と同じように横たわっている人たちと、その人たちを揺り動かしている人たち、それから大小さまざまなコンクリートに似たブロックが無造作に散らばっているだけだった。男はその光景に呆気に取られていたが、ともかく自分も何かしなくてはと思い立ち、その群れに加わろうと腰を上げたとき、何者かが男のジャケットの裾を掴んで引っ張った。
(何だ?)
反射的に男はその腕を掴んだ。身に覚えのない場所で後ろから触れられれば、誰もが警戒するだろう。男もそうだった。男の想像の中では、気味の悪い醜悪な女が膝立ちとなり薄汚い手で服に触れていた。だから男はその腕を振り払おうと腕を掴んだ。しかし、その腕は男が想定していたものよりも細かった。男が振り返ると、そこにいたのは子供だった。留紺色のだぼついたワンピースを着ていて、酷く怯えていた。
「大丈夫? 君、どうしたの? 名前は?」
男はこの異常事態に咄嗟に対応できていなかった。その子供の両腕を掴み、目線を合わせて軽く揺すった。それは誰もが取りそうな日常の、人間らしい行動であった。当然そこには筋書き通りの返答も想定されていた。しかし、男の意に反して、子供は大きく目を見開いて緊張気味にわずかに頷くだけで何も言葉を返さなかった。
「君?」
周りの人々が誰かを起こして、他の誰かがそれに答えているのを耳にしながら、訝しむように男は再び問いかけた。それでも、子供は返事をしなかった。男はふと考えると再び口を開いた。
「Are you OK? May I have your name?」
その言葉に応答して、子供は首を横に振った。
「話せない?」
子供の首が縦に動いた。
周囲のざわめきは段々と大きくなっている。男は不思議とその中に加わる気分でなくなった。替わりにこの子供に興味を持った。自分の倒れていた場所から考えると、その子供が自分を起こしてくれたのだろう。男はそうとも考えた。事実、近くには他に人はいない。
男はいつも持ち歩いているメモ帳とボールペンを取り出そうとジャケットの内ポケットに手を入れた。そこには目的の物の別にもう1つ、メモ帳とそう変わらないサイズの何かがあった。
(何だ?)
男がまとめて取り出すと、それは見かけないタイプのスマホだった。
(そうだ。どこかに連絡を……)
男は元々持っていたスマホを取り出そうとジャケットの横ポケットに手を入れたが、そこにあるはずのものはなかった。連絡手段があるならばもうとっくに誰かが試しているはずであることに気付いた男は、この奇妙な一連の事象がこれ以上増える前にまずは目下の未知を片付けようと、子供にメモ帳とボールペンを手渡すと、再び「名前は?」と聞いた。
『瑞葉』
「みずは?」
子供は頷いた。瑞葉はメモ帳にスラスラと素早くペンを走らせ、しかし、読みやすい字を書いて男に見せた。
『名前教えて下さい。』
「私? 私は――」
男は瑞葉に名を告げようとして、ふと、考えるとペンを瑞葉に渡すよう手で仕草をして、受け取ったそれで『柘植廉』と書き込んだ。それから瑞葉の顔を見て、わずかな安堵の中に疑問符が浮かんでいるのを読み取った男は漢字の上に『つげ れん』とルビを振った。
この短いやり取りの間に、その場に閉じ込められた全員がすでに起きていた。つまり、柘植が意識を取り戻したのは遅い方だった。起きたときに柘植の近くに他の人がいなかったのは、たまたま周りと離れたところにいたことと、誰かが誰かを起こした後に必ず行われる定番の質問のせいで、手が回らなかったことが理由だった。ともかく、柘植が瑞葉を連れて近場の集団に合流しようとしたとき、無機質な空間の上方2.5メートル付近の、左右と中央に数枚ずつ、やや斜めに傾いた半透明のモニターが現れた。
*
天井近くに現れたそれに広間のどよめきがほんの一瞬だけ止んだ。しかしすぐに元の大きさとなり、一気にそれを越えた。騒然とした中、モニターに何かが表れることは多くが予想しているが、何が映し出されるかは誰にも見当がついていなかった。誰かが跳躍してモニターに触ろうとしたが、その手は空を切っただけだった。
「ニニィです。よろしくね。みんなにはこれから、『透明な殺人鬼ゲーム』に参加してもらいます」
突然、モニターから子供が子供をあやすような、甘ったるい口調の女性のような声が聞こえてきた。映っているのは頭身の低い、わずかに女性のような曲線を盛り込んだ、白と水色を基調とした人型のロボットのようである。場が静まり返った。
「ルールを言うからね。あ、メモしなくていいよ。スマホからもチェックできるから」
モニターの中のニニィは、話に合わせて指で長方形を形作った。その言葉と仕草に、何人かが全く同じスマホを取り出した。大多数は混乱してまだ何も状況を掴めていない。
「えーっと、一、1日に1人、殺す人を決めて投票してね。そこにいる人数が半分くらいになるまで続くよ。匿名だから安心してね。二、点数、あ、点数のことは後で説明するからね、とにかく、その点数が一番多かった人は死ぬよ。三、死んだ人の一番大事な人も一緒に死ぬよ。たぶん、今、頭に思い浮かんでいるよね」
殺す、死ぬと度重なる言葉に、『透明な殺人鬼ゲーム』という言葉を冗談と思っていた人たちは現実感を取り戻していった。現実感。現実なら、投票で人が死ぬなどあり得ないことだと思われるだろう。しかし、この場の異常さ、ニニィと名乗る声の声質、それから脳裏に勝手に浮かび上がらせられた大切な人の顔はそれを現実のものと認識させるには十分だった。
「おい、待てよ! ここはどこなんだよ!」
着崩した学生服の男子が叫ぶ。大半が知りたいと思っていることだ。近場にいた者たちが「そうだ!」と加勢し、また他の者も追従するように頷く。
「話は最後まで聞こうね。四、一番点数の多い人が何人いても、さっきのルールは変わらないよ。五、自分にも投票できるよ。自己犠牲の精神だね。投票をしなかったときも自分に投票されるからね」
しかし、ニニィはそれを相手にしなかった。その明らかに上位の者と思われる態度に、その男子はその勢いの行き場を失った拳を下ろし、それに連動するように周りの声も消えていった。話し声はニニィのものだけになった。
「六、それから、1日に1人、守りたい人を決めて投票してね。こっちは自分には投票できないよ。もちろん、殺す人と同じ人に投票もできないよ。これも後で説明するね」
もはや説明を妨げる者はいない。ある者は現実逃避している。ある者はこのゲームを制するために必要な情報を漏らすまいと聞き入っている。ある者はそれを聞いている他の参加者の様子をじぃっと観察している。ある者は、隣にいる人の服の裾を握っている。共通しているのは、なぜが誰一人としてそこから逃げ出そうとしないことだ。
「七、さっき言ってた点数ね。投票数はね、自分のも相手のも毎日ランダムに同じ確率で1.0から1.9倍に、0.1刻みに変わるよ。例えばね、ある日のある人の倍率が1.7だったとして、倍率1.0の人たちに3票入れられたら、点数は1.7かける3イコール5.1の切り捨てで5点、その人が誰かに入れたら1.7の切り上げで2点。ちょっと難しいけれど、大丈夫だよね?」
「それで、守りたい人の話だけど、ここで引き算をするんだ。さっきの例えの人が、倍率1.2の人たちに2票入れられたら、3ひく2で1、1かける1.7は、そのままだよね。それを切り捨てて、1点。ここまで大丈夫?」
「自分の倍率が1.4以下のとき自分の投票は1点分、1.5以上のときは2点分、自分に投票された分全部を最後にまとめて、倍率をかけて、切り捨て。おまけだよ」
モニターの中のニニィはおどけるようにVサインをした。
「それから、追加ルールね。八、殖えるのは禁止だよ。前はみんな減るよりも早く殖えちゃって、ゲームが成り立たなかったんだ。あ、ちょうど、末広がりの八だね」
ニニィが両手を使って8の形をとる。
「九、続けて同じ人を選ぶことはできないよ。最後に、十。投票はその部屋でやるんだけど、もし時間になっても参加者が8割を超えていなかったらゲームオーバーね。10分前に閉まるから気を付けてね。ニニィとおしゃべりしたかったらスマホのアプリ『ににぅらぐ』を使ってね。ばいばい」
ニニィがそう言い残すとモニターはブラウン管のスイッチを切ったときのような音とエフェクトを出して消えた。
*
モニターは再びすぐに現れた。誰かが「ににぅらぐ」を使ったからだ。
「ここはどこなんだ! なんなんだ!」
スマホに向かって話しかけられた声はニニィの横にSMSさながらの吹き出しとして現れて、ニニィに似た声で読み上げられた。
『ここはどこ?』
「ここがどこかは言えません。ごめんね」
ニニィが手元を目の下にやりながら答える。
『どうして私たちがここにいるの?』
それは声ではなく、手動で入力された質問だった。もっともこの通りに打ち込まれたのかは不明だが。
「ランダムだよ」
ニニィが指を立てて何度か、どれにしようかなと言わんばかりに動かした。
「そもそもどうやって生きていけっていうんだよ!」
「ふざけるなよ! 選べるわけないだろ!」
「お願い! ここから出して!」
皆が口々に叫んでいる。その中にはアプリを立ち上げていない者もいる。しかし、誰かのスマホを通してその声はニニィに届いているようであった。
『衣食住はどうするの?』
ただし、ゲームに必要のないと思われる言葉は省略されていた。
「もう少ししたら入り口を開けるよ。そこから自分たちのお部屋に行けるからね。そこにペレットとお水が用意されているからね。自動で補充されるから安心してね。服も、今みんなが着ているのと同じ物が自動で補充されるよ。トイレもお風呂もベッドも、そこで使う物は何でも自動で補充されるし、自動できれいになるから安心してね。完全プライベートだよ」
ニニィが耳を手で塞いで、それから両腕を元に戻すと今度は腕組みをした。
「ペレットは1袋で一食持つし、アレルゲンフリーの植物由来だけだから、色々な人でも大丈夫だよね? 他にもお酒や煙草、本なんかも言ってくれればある程度出てくるよ。大サービスだよ」
「俺は飲まないと死ぬ薬があるんだ! 出してくれ!」
「誰も選べないよ…」
「怖いよ…。助けてよ…」
『お薬はどうすればいいの?』
「それもお部屋にあるよ。お医者さんにお世話になるようなことはある程度まで良くなっているよ」
そう言われて何人かは自覚症状が消えていることに今更ながらに気が付いた。その大半は関節痛、風邪、熱っぽいといった類の緊急時には気にならないものであるから仕方がないのだろう。
『スマホアプリには何があるの?』
「ニニィとおしゃべりする『ににぅらぐ』、写真も動画も音もとれる『カメラ』、誰かと直接チャットができる『7SUP』、アラーム付きの『時計』、お部屋やこの部屋に入るための『カードキー』、名簿と一緒の『投票箱』、『ルールブック』、『メモ機能』それから、さっき言った色々なものを出してくれる『ににぉろふ』があるよ。無くしてもすぐに出てくるから安心してね」
『どれくらい票が入ったか分かるの?』
「全部、内緒だよ。だから安心してね」
ニニィが口元を手で隠しながら答えた。
「ここから出られたら、何かあるのか? 賞金とか!」
『ゲームが終わったら生き残った人はどうなるの?』
「元の世界に元に戻るよ」
その言葉に、明らかに落胆する者の姿が見えた。
「頼む! 午後から大事な手術があるんだ!」
「誰も死なずにここから出られないの?」
「そこから出てこい! おい!」
『今、世界はどうなっているの?』
「止まっているよ」
ニニィが目隠しをしながら答えた。話に合わせてとにかくコロコロと動きが変わっていく。
『ゲームに勝つ以外の脱出方法はあるの?』
「ないよ」
『ここには何人いるの?』
「100人だよ」
『ゲームオーバーって何?』
「全員が死んじゃうことだよ」
質問の中に徐々にノイズが混ざっていく。この現状を嘆くものから、いかにここで生きていくか、さらにはいかに生き残るか、つまり、いかに誰かを殺すかに思考がシフトしている者が出始めている。そして、モニターには目を向けず会場をずっと見ている者もいる。
「」「」「」
質問は止まらなかった。そうし続けることで現実から眼を背けられるかのように。事実、そうだったのかもしれない。しかし、それを制したのは他でもないニニィだった。
「ごめんね。もう質問は終わりです。投票時間まであと30分くらいだよ。詳しい時間はスマホの時計で確認してね。ばいばい」
*
ニニィの言うことが本当なら100名だが、それだけの人数が急にまとまるはずがなかった。あと30分くらいと言われたとて何も、心さえも準備ができていない状態である。幾人かが「ににぅらぐ」を起動して質問をしようとしたが、「お休み中です。ごめんね」とニニィの絵付きで表示されるだけであった。柘植は、次に起こるのは集団パニックと予想していた。しかし――。
「聞いてくれ! 俺は警視庁捜査第一課の影山だ!」
そう名乗る男の声が会場に響いた。30代前半だろうか、短髪のスーツ姿で、その目には鋭さよりも燃えるような勢いを宿している。
この異常事態で警察がどれほど役に立つだろうか。ともかくしかし、銘々が整理の付かない思考の中で動き出すよりも、例え漠然とした中であっても、これから何をするかある程度の舵を取る者が現れたことは意味があった。
「落ち着いてくれ! 何かタチの悪い奴の仕業かもしれない! 手分けして出口を探すんだ! 怪我人は……いないな! よし! 力のある人はこのブロックを動かしてくれ! 他は壁や床を調べてくれ! 奥に何かあるかもしれない!」
影山は反論がないことを一拍おいて確認してから、早速手近にいたスーツ姿の男性に声をかけて一緒にブロックを持ち上げ始めた。
柘植もそれに倣って目の前にあったブロックを持ち上げようとしたが、未だに瑞葉がジャケットの端を握っていることに気が付いた。柘植が体の向きを変えると自然とその手は離れ、瑞葉は一瞬寂しそうな顔をしたが、柘植が頭を撫でると満足感の満ちたものに変わった。
「じゃあ私は力仕事をするから、瑞葉ちゃんも頑張ってね」
柘植の言葉に瑞葉は頷くと、近くの壁の方へたどたどしく駆けていった。柘植はその背中をわずかに見送ってから手近にあるブロックの方へ向かった。
自分たちの中に警察がいる、その警察が動いている、そのことは多くの人に安心感を与えた。影山の言葉に従っていた人の殆どは本当に脱出できると思っていた。脳裏をよぎった大切な人の顔は何かの偶然か、催眠か、そう思い込んで事実をごまかしていた。
(ドッキリにしては手が込んでいるよな……)
水鳥究は年末番組なら尺はどれくらいあるだろうかと考えていた。
(これ、Y○utubeで配信したら相当盛り上がる……!)
若林光男は儲けになる絶好のネタだと内心喜んでいた。
すでにこのゲームが逃れようのないものと確信している者も同じことをしていたのは、何かすることがあれば「透明な殺人鬼ゲーム」などという物騒な遊戯から気を逸らすことができるからであった。意識していない限り、手を動かしていれば頭は十分に働かないものだ。
(なんで? なんで私が?)
北舛優香は嘆きながらもどこか人任せに壁を叩いていた。
(退屈な日常が……、変わった……!)
野口颯真は必死で平静を装っていたが、自分にも分からない心のどこかで高揚を感じていた。
無論、すでに影山を煙たく思う者もいた。権力への反抗心か、自分よりも地位の低い者の指示に従うことが気に食わないか、あるいは単に自分よりも年下だからという理由だけで言うことを聞きたくないのか、しかし、彼らも手を動かして形だけは従事していた。輪を乱せば、もしこのゲームが本物ならば、狙われるのは明白だからだ。それでも粘りついた横柄な自尊心は彼らの動きを抑制していた。他人の命は当然のこと、自分の命がかかっているかもしれないということよりも重要なのだろう。
そうして、その空間に集められた者たちが、ありもしない脱出の手がかりを見つけるのに無駄に時間を費やすこと20分、部屋が途端に薄暗くなり、再びモニターが現れた。
「はい、じゃあみんな揃ったところで、『透明な殺人鬼ゲーム』、1日目の始まりでーす。ルール通り、10分後に投票が始まりまーす。よーい、スタート!」
ニニィがそう言い残すとモニターは消えた。部屋は薄暗いままだった。
*
何をどうするのか、一切の説明はなかった。幾人かが「ににぅらぐ」を起動するも、先ほどと同じ画面が出るだけだった。何人かはブロックに座りルールブックを読み始めている。要するにルールの範囲内で自由に――。
「やるしかないのか……」
君島浩樹は自分にだけ聞こえるように呟いた。
問題は、誰に票を入れるのかということだ。見知らぬ者同士、信頼関係などない。ここまでで関わった者同士の間に弱いつながりがあるくらいだ。およそ100名は黙り込んでいた。先に発言をして、それが総意にそぐわなかったら、票が集まる。つまり、死ぬ。信用を勝ち得てマイナスの票を得る自信があるなら、先手を切るのは得策だ。しかしそれはこのゲームに積極的であること、つまり誰かを殺す意思があることを示すことと同義だ。そうすれば狙われる。しかし結局やることには変わりはない。
「どうやって……」
日高悠真はどうすることもできなかった。大人が考えても正解が分からないのに、正解がある問題に答え通りに答えるのが仕事の小学生にはどうすることもできなかった。
沈黙を打ち破ったのは影山の一声だった。
「やるしか、ない。誰に入れるのかは……」
しかしその続きを言うことはできなかった。
痛いほどの沈黙が流れていた。
「えっと、くじで決めるのはどうでしょうか?」
仁多見香織はおずおずと手を挙げながら口に出した。しかしその内には自信を持っていた。彼女は職場で「無能な働き者」と揶揄されているように、考えなしに行動しては他人の足を引っ張るのが仕事だった。本人は辛うじて薄々だけ自覚していたが、それでも省みることはなかった。今回も例に漏れず口に出した。
「……」
殆どが仁多見に無言の殺気を飛ばした。誰もが生き残りたい。そのために自分のアドバンテージを活かして、少しでも生き残る確率を上げたい。弁論、財産、容姿、あるいは弱者恫喝……。それらを全て無視し、さらに生死をくじで決めるというあまりにも軽々しい言葉には怒りを覚えて当然であった。仁多見は流石に気がついたようでそれ以上何も言わなかった。
「こういうのはどうでしょう。まず全員、自分に点の入る票を入れるんです。それから、守りたい人に入れていけば、仮に死んでしまうことになっても、それは自分の票になりますよね」
藤田純が職場で培った責任の所在をうやむやにしてなあなあにするごまかしを放つと、加藤育夫は藤田の身なりに嫌悪の眼差しを向けながら、
「お前さあ、みんなが自分に入れんと思ってんの?」
と切り捨てた。藤田は自分よりも明らかに地位の低い加藤の反対に隠しきれない不快感を抱いたが、何分的を射ていたから、黙った。黙らざるを得ないことが余計に不快感に拍車を掛けた。
この2つをきっかけに、それぞれが持論を口にし始めた。いかに自分が生き残るのに有利なルールが通るように、あるいは善人の振りをして狙われないように。
「ジジイババアが死ねよ。年金めっちゃもらってんだし」
「子供と女子は助かるべきでしょ」
「専門職は残した方が良いかもしれない。この先何があるかわからない」
「やっぱりこんなの良くないよ」
黙っている者もいた。どうすればいいのか分からない者もいれば、目立つのを避けて話さない者もいた。
(どうすればいいんだ?)
(助けて……)
(誰に付くのがいい?)
まとまらなかった。どのみち時間になれば投票は始まるが、しかし、そのざわめきはある位置から静まった。それが隣に伝播して、全員が黙ったところで、その中心にいた老人は再び同じ台詞を口に出した。
「俺に入れてくれ」
その老人、草野一は諦観した顔であった。
誰も止めなかった。先ほどまで聖人ぶった言葉を繰り返していた者でさえも止めなかった。理由は簡単で、このままならば、残りはひとまず生き残ることができるからだ。仮に止めたとして、それなら誰が、の問いに答えることはできるはずがない。そうなれば、それならお前を、になるのは明白だ。
「はーい、じゃあ、投票の時間になりました」
そうして、ニニィの声が聞こえると同時に参加者の周りが暗転した。自分の持っているスマホ以外、誰にも何も見えも聞こえもしない闇の中、誰が誰に票を入れたのか、ともかく、全員の投票が終わった。途端に参加者の視界は明転し、それぞれが元いた場所に元の通りに戻っていた。
「はい、今日の犠牲者は草野一さんに決まりました」
*
柘植の隣には先ほど消えたはずの瑞葉が元のように現れていた。柘植の視界には生き残ったことに安堵する者、選んでしまった罪悪感に打ちひしがれている者、その場で息を切らせて深呼吸している者、そして、いつの間にか透明なケースに入っていた草野の姿が見えた。
「はーい、じゃあ、始めまーす」
ニニィが両掌をパーにしてこちらに見せると、どこか緊張しながらも安心して見えた草野の様子が変わった。何か言っているが、柘植にも、他の者の耳にも届いていない。すぐに頭を押さえだして、必死にその場に押しとどめているように見えたのは数秒、首が千切れて、血飛沫がケースの側面に飛び散って、細く赤い斑が現れて、力の入らなくなった腕が弛緩して、頭がケース天井にぶつかって、少し揺れて、体が崩れて、首から噴き出す血の勢いが段々と弱くなって、血だまりの中に虚ろな目をした草野の頭が転がっていた。
柘植は何か不可思議な力によって最後まで草野から目を背けることができなかった。周りの人もそうだった。辛うじて幸いなことに、音も臭いもケースからは漏れていなかったが、それでも生々しい衝撃を和らげるには不十分過ぎた。耐えきれなくなった女の子が吐いて、それをきっかけにして、数人が連鎖的に吐きだした。
「こらっ! 汚いですよー」
ニニィは怒った振りをした顔をして手でバツを作った。
「そうだ! 毎日違うやり方にしようっと。明日は何にしようかな? みんなも部屋に戻ってね。ばいばい」
モニターが消えると、草野が入ったケースは徐々に地面に埋まっていって、消えた。後にはすすり泣く声と不快な臭いが残った。隣にいる瑞葉の方を見ると、呆然としているような、何か違うことを考えているような顔をしていた。
「なあ、『カードキー』、使えるぞ!」
野口がスマホを掲げ「カードキー」をタップすると、その姿は一瞬で消えた。小さくどよめきが起こったが、今さら何が起ころうと不思議ではなかった。何人かが「カードキー」を立ち上げて各自の部屋へ消えていったが、大半はすぐに未知に飛び込んでいこうとしなかった。それを分かっていたのだろうか、野口は広間に戻ってきた。
「部屋はなんて言うか、豪華なホテルみたいな感じだ」
野口は周りの反応を見て、さらに続けた。
「みんな、ニニィが言ってたように、部屋に戻った方がいいと思うんだ」
「お前に言われんでも行くけん」
学生に指図されるのが気に入らなかった青い作業着姿の中年男性は捨て台詞を吐くと、さっさと部屋へ帰っていった。親切心を仇で返された野口はすぐにスマホの「投票箱」を確認した。
「あいつ、田川竜次って言うのか……」
そう呟いた後にもう一言、より小さな声で呟いたのが近くにいた柘植には聞こえた。
「日本語使えよ、クソ」
野口は再び「カードキー」を使って部屋に帰った。
他の者も次々と姿を消し始めた。この場に残っていたらニニィの気まぐれでどんなペナルティが課されるか分からない。おまけに吐物の残った床は悪臭を放っている。
(生存確率は、単純に考えて50%か……)
柘植は、草野の死をなんとか頭の奥に一旦移動させて、自分も遅れないようにとスマホを取り出したところで、瑞葉がまたもや服の裾を摘まんでいることに気付いた。
「瑞葉ちゃん、私も部屋に帰るから、また明日ね」
瑞葉はメモ帳をポケットから出して、柘植に白紙のページを見せた。柘植がその仕草から瑞葉の求めるものを理解して、ボールペンを手渡すと、嬉しそうに受け取った瑞葉はそこにスラスラと書いて、柘植に見せた。
『私の一番大事な人は』
柘植が読んだのを確認してから瑞葉は前のページに戻って何かを書き始めた。柘植は嫌な予感がした。いまや心臓は重く打っている。いや、まさか――。
『柘植廉 さんです』
瑞葉の目は妖しく爛々と、病的な桃色のように光っていた。そして、それが決して嘘ではないと柘植には分かってしまった。
(『――その点数が一番多かった人は死ぬよ。三、死んだ人の一番大事な人も一緒に死ぬよ――』)
ニニィの言葉が鮮明に頭の中を流れた。つまり――。
(生存確率……25%……!)
**
今日の犠牲者 草野一
一番大事な人 妻
中小企業(総務部)を定年退職し、年金と配送のアルバイトで何とか生活していたところをニニィにアブられる。妻は難病で殆ど動けず、人工呼吸器が手放せない。貯金は底をつき、身寄りもなく、どうすることもできず、戻っても何も変わらないのならと自ら死を(安楽死だと思って)選んだ。ちなみに妻の病気は優秀な医師の早期診断と手術、薬代を賄える人間なら完治する。金=命。じゃあそれを税金で賄って平等に、ってなったら、健康な人の負担はエグいよね。だって今の薬って1回1億円超えているよ。何で赤の他人のために、自分や身内の自由や将来をすり減らすの、って。
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