第8章 真実と事実は混ざり合うようで混ざらない
小欅サムエです。さて、徐々に物語が進みつつあります。推理の先に待つものは一体なんでしょうか。
8月29日、20時。米村の報告を聞き、村田は静かにため息を吐いた。一連の米村の行動は、少々独断が過ぎるところもあったが、それは彼が成長した証だ。綺麗に仕事をしようとする人間は、総じてマニュアル的でつまらない。そういった意味では、面白みのある人間になったとも言えるだろう。
「……ま、相変わらず表情はねぇんだけどな……」
あえて米村に聞こえるよう独り言を呟いた村田だったが、米村は無反応だった。聞こえていないようだった。気を取り直し、村田は再確認する。
「で、渡辺の死因は毒殺……でいいんだよな? 大量の点滴を受けていたと聞いたが」
「はい、ただ一連の事件の被害者に共通する変化が、彼の脳にも認められました。幸い、というのもおかしな話ですが、渡辺の遺族からは司法解剖の許可が生前から降りていて、画像的な変化と、解剖学的な変化に差はなかったということです」
生前から解剖を許可、というのも不思議な話だが、聞けば本人と妻のサインの入った同意書が見つかっていたそうだ。何故、渡辺がそんなものを用意していたのか、そこははっきりしない。毒殺を予期でもしていたのだろうか。
「つまり、脳がおかしくなっているところに犯人が止めをさした、ということだな」
「過去の事件から考察するに、そういうことになろうかと」
「それなんだよなぁ……」
村田を先刻から悩ませているもの、それはこの一連の事件、全てにおける謎。それは、殺害方法が妙に回りくどい、ということだ。それでいて、犯人に繋がる情報が一切出てこないし、徐々に芸術性が増してきているような印象ですらある。
この前、村田は芸術性に着目し、都内在住の前衛的芸術家を片っ端から当たってみた。しかし結果は、いずれもシロ……つまり、アリバイがあった。
「今回の事件の遺体に繋がれていた、計15本の点滴についても調べはついています。投与されていたのは、色とりどりではありましたが、いずれも生体に大きな影響を与えるような製剤ではないとのことです」
村田も、事件現場および遺体の写真は確認済みだった。もともとは村田も、現場に出向き足で稼ぐタイプであったが、過去の事件で膝を壊しており、以前のように現場に行くことが少なくなっていた。それでも、写真からの考察や聴取により多大な功績をあげてきたのだ。定年も近くなり昇進の芽はほとんど無いが、そういったことから警察内での彼の評価は高かった。
「……これだけある点滴の、いずれもが無害、か。しかしだ、お前さっき毒殺を否定しなかったな。検死報告書にも死因についての確定的な記載はないが、何か根拠があるってのか?」
ジロリと米村を睨む村田。村田は多数の点滴があったことから、毒殺かどうかを確認した。もちろん、検死報告書を見た上での質問だった。米村は毒殺のまま話を続けた、つまり、毒殺である根拠を何か考えている。もしくは、穿った見方ではあるが、犯人にしか知り得ない殺害方法の情報を、米村は知っていたという可能性もある。もし後者だった場合、村田は覚悟を決めざるを得ない。膝を悪くした引退間近のオッサンなんて、若い警察官なら一捻りだろうから。
一瞬の静けさと、ピリッとした空気が辺りを包み込む。しかし、米村は確信があるかのように、村田の質問に答え始めた。
「……一連の事件現場で、新たな関連性を発見いたしました。それが、これです」
コトリ、とテーブルに小さな瓶を置く米村。それを凝視する村田。エンドルパワー、最近発売されたとかいう栄養ドリンク。27日、森谷から受け取ったままだった、あの商品だった。
「これは?」
「エンドルパワーという栄養ドリンクです。科捜研に依頼して分析をかけましたが、これ自体は特に何の変哲もない栄養ドリンクでした。しかし、渡辺のデスク周りにこれの空き瓶が落ちていました」
村田は思わず笑ってしまった。栄養ドリンク、しかも新発売だったら飲む人くらいいるだろうに。しかも渡辺は医師、しかも内科医長だ。その類のものを飲む機会も多いことだろう。
「それだけか?」
呆れ顔の村田に対し、未だに自信ありげな米村は、話を続ける。
「聞いた話ですと、渡辺はこういったものをほとんど口にしないそうです。栄養学的に必要性が乏しいのだと、いろんな人に力説していたくらいですから。それと、このエンドルパワーは市販していないようです」
「なんだって?」
村田の表情が変わる。米村の発言を理解するのに時間がかかっているのか、動きも固まったままだ。
「これは、極めて一部の者しか購入できない代物でした。それというのも、製造販売しているのが『自然と共に生きる会』……あの『霊身教』の健康食品部門でした」
「『霊身教』だって!?」
膝が悪いにも関わらず、村田は勢いよく立ち上がった。その反動で、椅子が後ろにガタン、と倒れた。
霊身教……霊を身に宿すため、自然と一体となり生きていくという新興宗教団体。自然に身を委ねるため、化学調味料を使用しない、とか、これといって異常性のある教義では無く、むしろ健康を意識したような印象もあった。
しかしその教義の中に、『医療行為による治療は受け付けない』、という項目があったことを覚えている。
この団体が世間の注目を集めたのは、2015年4月24日。解熱鎮痛剤や抗生剤といった類の薬を一切与えず、結果自分の子どもを死なせた両親が逮捕されたのだった。ただの児童虐待かと思われていた事件だったが、その両親が入信していたのが霊身教だった。
それからしばらく、ワイドショーなどで霊身教を扱われるようになっていたのだが、コメンテーターの多くは、異常だ、などと批判していた。
そんな中、2015年6月10日、特に霊身教に批判的だったコメンテーターの一人が、四人の信徒に拉致監禁を受けるという事態が発生した。その現場で、村田は指揮を執る立場だった。
しかし、結果は最悪なものとなった。コメンテーターは刺殺され、信徒たちは警察官と揉み合いになり、その時に受けた傷が原因で全員死亡した。警察官側も多数の怪我人を出してしまった上、村田本人も流れ弾に当たり膝に大きな傷を負った。
村田は、現場を指揮した責任を負い辞職する予定だったが、部下たちの説得と上層部からの指示により降格、謹慎処分となった。
それ以降、霊身教のニュースはメディアを通じてほとんど目にすることがなくなった。霊身教を批判したコメンテーターが刺殺されたものだから、彼らを堂々と批判できる者はいなくなったし、制作側もストップをかけていたようだった。そして、霊身教はその事件に対し無関係であるという立場を主張し続けている。
そう、霊身教は言わば村田の怨敵でもある存在であった。そんな名前を、今その耳で聞いたのだ。彼の心中は穏やかでなかった。
「これに毒物を混入させ、無差別殺人をしているということか?」
冷静さを失った村田は、思考力の欠如した発言をした。そんな彼に、米村は静かに諭すように言った。
「すみません、それは有り得ないんです。何故なら、この栄養ドリンクは信徒限定で販売しているものなんです。信徒を無差別に殺害する理由はありませんし、信徒が殺人をするために配布している、というのも無理があります。何より、隠す気がなさすぎますから」
スッと、米村はあるホームページの画像を村田に見せた。自然と共に生きる会、その下に堂々と、霊身教健康食品部、と記載があった。
「これだけはっきりと書いてあれば、一般市民にも分かってしまいますし……これを現場に残すなんてことは無いでしょう」
「……しかし、信徒限定での販売なら、なんであんなに宣伝しているんだ? 意味ないだろうに」
もっともな疑問だった。しかも街宣車だけじゃなく、テレビCMでも見たことがある。栄養ドリンクを通じて信徒を増やそう、と考えるのは、さすがにサブリミナル効果を狙っているにしても効率があまりにも悪すぎる。
「テレビCMについては、局内に信徒がいるらしく、割安でCMの時間を割いているようです。法的な裏付けが取れ次第、追及してみようかと思っています。街宣車については、意外な事実が判明しました」
「というと?」
街宣車の登録書類を提示する米村。
車両の所有者は、奥村 保昌。8月22日、代々木駅周辺の商業ビル屋上で、変死体として発見された男だった。
「奥村、だと?」
村田は頭を抱えた。まさか、奥村は霊身教の信徒だというのか。街宣車を、実際に購入したのかどうかはともかく、名義としては奥村自身のものだ。つまり、無関係ではないことになる。
「ええ、そこで奥村の過去を洗ってみましたが、それらしい活動をしていた、という事実は発見できませんでした。しかし、霊身教のホームページにアップされた画像に、彼が映り込んでいるのを発見しました」
その画像も提出する米村。確かにあの奥村のようだ。しかし、右端に見切れている男性の方にも村田は視線を移した。こいつ、どこかで……見切れているが、特徴的な顔立ちだったため、しばらくもせず、彼の脳裏にある男の名前が浮かんだ。
「こいつ……松山 幸一じゃないか、あの焼死体で発見された」
「え?」
驚き、村田と同じように目を凝らす米村。そこには、確かに見覚えのある男がいた。しかし見切れているためか、確信は持てなかった。
松山 幸一……8月17日に焼死体となって発見された画家。画家と言っても売れていないし、ほとんど無職だと言える。そんな彼と思わしき人物が、この画像に映り込んでいたのだ。
「すぐに照合しろ、で他の写真も注意深く確認してくれ。……しかし、奥村と松山にも共通点が存在した、かもしれないか。これは随分と面白くなってきたんじゃねぇか?」
ニヤリとする村田。事件が事件なだけに、面白いという表現が適さないことは分かっていた。しかし、犯人の意図が見えてきそうな気がした。パズルにピースが嵌っていく感覚……もしかしたら、事件解決の大きな手掛かりかもしれない。
「一応、今のところ安藤と渡辺についても調べているところです。彼らにも霊身教と関わりがあったとしたら、犯人は霊身教に恨みを持つ人物、そういう可能性も否定できないですね」
「……」
村田は逸る心を落ち着かせ、今一度考えてみた。妙な違和感……。あれほど手の込んだ殺人を犯した犯人、しかも周囲に全く気付かれないまま犯行に及んだ奴が、こんなにも分かりやすい物的証拠を残している。あえて、だとすれば本当に犯人は、霊身教に恨みを持つ人間ということになるのだろうか。
「なぁ米村、ここからの捜査は慎重に頼む」
「……? ええ、元よりそのつもりでしたが……」
村田の不可思議な発言に困惑する米村だったが、彼の表情を見て、冗談を言っている様子ではないことを理解した。
「はい、より慎重に捜査します。それでは、画像を解析に回します」
「ご苦労」
会議室を去る米村。嫌な予感が当たらなければいいが、村田はそう考えていた。すると、米村と入れ違いに入ってきた女性警察官がコーヒーを差し出した。
「お疲れ様です、どうぞ」
「ああ、ありがとう。ええと、中原だったか、君もあの現場に行ったんだろう? 大変だったな」
中原、と村田に呼ばれた警察官は、敬礼しながら答えた。
「い、いいえ! 米村先輩のあとに付いていくだけで精一杯でした! でも、遺体は変だったし、監視カメラもおかしかったし、ちょっと怖かったです……」
中原は顔を歪ませながら思い出している。彼女は二年目で、明るくムードメーカーとして働いている姿を署内でよく目撃する。そうか、と村田はコーヒーを口に持ってきたが、ふと彼女の発言が頭にひっかかった。
「……監視カメラと言ったな。何が映っていたんだ?」
「へ? あ、ええと、私もじっくり観たわけではないのですが……現場近くに髪の長いお化けのような女の人が映っていて、こっちに向かって何か話していたようでした」
(女が監視カメラに向かって……?)
「どんな奴だったか、覚えているか?」
「いえ、顔はそうですね……青白い、やつれた感じでしたね。それに、夏なのにロングコートを着ていて。……でも、すぐにデータが消えたとかで、みんな慌てていました。もうその映像は観られないです。私はもう観たくないですけどね……」
「……」
ロングコートを着た髪の長い女性が、事件現場付近にいた。そして、そいつは監視カメラを逆に利用し、こちらに何かしらのメッセージを残した、ということか。
「何を話していたかは分かるか?」
立て続けに質問をする村田に、たじろぐ中原。
「確か、会いに行く、とかなんとか。誰に、とか詳しいことは何も」
「そうか……」
コーヒーを啜る村田。その苦みが、まるで毒のように口腔内に行き渡る。嫌な予感、というものは意外と当たるものだ、しかし確証がない。
「君、明日から米村とペアになってくれ。それで、彼の行動を報告するように」
「え、はい分かりましたけれど……米村先輩の行動を監視せよ、ということですか?」
「深くは考えなくていい、報告するだけにしてくれ。よろしく頼む」
村田は話を切ると、また思考を始めた。中原は、困惑の表情を浮かべていたものの、命令を承諾し部屋を去った。彼女は嘘を吐いているとは言い難い、しかし、米村が意図的にそれを隠す理由が分からない。報告を忘れたか、もしくは……。
「これは面白くねぇ。面白くねぇな……」
同日、渋谷駅から一人暮らしのアパートへ戻る途中の俺。その足取りは重く、指にはまだしびれが残っていた。
「ああ、もう疲れたな……」
気づけばもう22時を回っていた。結局あの後、渋谷駅前でしばらくみんなと談笑していた。すぐ帰るものと思っていた俺は、その間ずっと荷物を持っていた。今考えれば地面に降ろせばよかったのだが、妙な正義感というか、そんな気持ちで降ろせなかった。
そういえば、岬は観たいテレビ番組があったはずだが、19時前に一度確認をした。すると、『あー、基本録画なんだよね。19時って家にいないこと多いし』と返された。
慌てて席を立った俺たちのあのエネルギーを返してくれ、そう思った。
「ま、今日は岬のお陰で胡桃とも仲良くなったし、宮尾も明るくなったし、良しとするか」
俺もお人好しだな、そう思ったとき、腹が鳴る音を感じた。そういえば、夕食を食べ損なっていた。せっかく話し込むのならどこかに入ればよかったのだが、アドレナリンが出ていると忘れてしまうものなのかもしれない。それくらい、会話に夢中になっていたように思える。
「どこかのコンビニで何か買うか……」
そんなことを考えていると、いつの間にか帰り道を間違えてしまったようだ。いつもは人通りも交通量も多い道を歩くのだが、街灯も疎らな路地に出てしまった。久しぶりに渋谷駅から歩いてきたし、疲れていたからな……そう思い、そのまま進もうとした。東京の中心部だし、どこかしらにコンビニくらいあるだろう。
しかし目の前の光景に、俺は立ち止まった。
「……?」
一つ先の街灯の下に、何かが照らされていた。それは人のようだったが、強い違和感を覚えた。
長袖を着ている。
もちろん、真夏でも長袖を着る人は少なからず存在する。疾患の都合とか、そういう理由もあるが……前に立っている人は、ロングコートを着ていた。いくら何でも、それはおかしい。
そこで俺の脳内に、嫌な記憶が蘇ってきた。ロングコートを着た、長い髪の女性。
あれは、あの現場の監視カメラに映っていた女性だった。
「ひっ……!?」
なぜこんなところにあの女性がいるんだ、見間違いかと思い両目を擦る俺。しかし、何度見ても同じ光景が広がっていた。そのうちに、女性はこちらの存在に気づいたようだった。
蛇に睨まれた蛙のように、思わず立ち竦む俺。そして、その女性は近寄ってきた。カツ……カツ……と、乾いた靴音を響かせ、それが徐々に大きくなっていくのが感じられた。
心臓が早鐘を打つ。息を殺し、硬直する俺。汗が滝のように流れ出す。首筋や背中に嫌な感触が走る。一歩、また一歩。女性の顔がはっきり分かる距離にまで来た。そして、ピタリと立ち止まった。
「……え……?」
女性の動きに合わせ、俺の呼吸も停止する。空気も凍り付いたように感じた。女性は、こちらを見た。長い髪の奥から、こちらを見ているのがはっきりと分かった。すると、女性は口の両端を上げ、下卑た笑いを浮かべた。そして。
「ああ、やっと、会えた……」
誰にこの女性が会えたのか、そんなことは今、どうでもよかった。早く逃げなければいけない、逃げなければ、殺される。しかし、硬直した体は言うことを聞いてくれなかった。
「ひっ……あっ……!」
また一歩、女性が前に進んでくる。やつれた白い肌、狂気を滲ませた目、そして右手には細い管の様なもの。あれはこの前見た遺体に刺さっていた、点滴の管だ。先には針のようなものが付いていた。
ヤバい、本当に殺される……!
「くそっ……動け! 動けよ!」
このままでは、あの遺体のようにされてしまう。俺は腕に力を込めて脚を叩いた。しかし痛みを感じない。完全に麻痺してしまっている。
「……ああ、ようやく、ようやく……」
もうおしまいだ、女性は手に持った管を俺の前に突き出した。管に付いている針が、俺の喉元を捉えようとしていた。
「あああああああああああああああ!!!!」
一か八か、俺は全身全霊を込めて、右腕を突き出した。針が右腕を掠る。そして、その拳は女性の右肩に当たった。
「っ……!」
数歩よろける女性。その顔からは、先ほどまでの笑いは消えていた。驚き、そして憎しみに溢れた表情に変わった。
一方の俺は、突き出した右手に痛みを感じた。硬いものを殴ったときのジンジンとした痛み、そして掠った針によって少し抉られた腕の、焼けるような痛み。しかし、幸運にもその痛みのお陰で、両脚に感覚が戻ってきた。
そして、持ちうる限りの力を使って、全力で走り逃げた。
「はぁっ、はぁっ、くっ……!」
右腕の痛みは徐々に増してくる。しかしそんなことはお構いなしに、走り続ける俺。普段から運動不足の両脚が悲鳴を上げ始めた。息も苦しい。しかし一度も振り返ることなく、大通りまでたどり着いた。数人がこちらの様子を怪訝そうに見たが、すぐに興味をなくした様に視線を反らした。
ここに居ても安全ではない、急いで家に帰ろう。そう思い、ガクガクと震える脚にまた鞭を打ち、速足で一人暮らしのアパートまで戻っていった。
「はぁっ、はぁっ、はぁ……。」
アパートの二階へと駆け上がり、自分の部屋に急いで入る。そしてガチャリと部屋の鍵を閉め、チェーンロックをした。その勢いのまま、玄関にへたり込んだ。どっと疲れが湧いてくるのと同時に、右腕の痛みが激しくなっているのが分かった。
「ああ、痛っ……」
逃げることで必死になっていた俺は、腕の様子を確認した。思った以上に出血がひどく、服や脚、そして今さっき駆け込んできた玄関にも血が滴っていた。急いで洗面室に行き、流水で洗い流した。緋色の渦が暗い底へ流れていく。それが何だか、あの女性の目……憎悪に満ちたあの目に見えて、また脚が震えだす。
「くそっ、なんなんだよ一体……」
洗い終わってもまだ血液は湧き続けている。思ったよりも深かったようだが、止血するには絆創膏では心許ない。一旦ハンカチで縛り、何かないかと部屋の中を探し始めたときだった。
コン、コン
「っ……!?」
部屋がノックされた。不意をつかれ、ようやく落ち着いてきた心臓が飛び出そうになった。息を殺し、様子を窺う俺。時刻は既に23時、一般的な来客はあり得ない。宮尾たちは自宅に帰ったはずだし、方向が違うからわざわざここまで来る前に、まず連絡を入れてくるから、それも考えにくい。
だとすれば……?
コン、コン、コン
またノックの音が聞こえた。それに、回数もさっきより多い。まさか、あの女性がここまで追ってきているのか……? いや、途中で撒いたはずだ、それにこんなアパートまで来て殺すなんて、そこまでの恨みを買っている記憶も全くない。
恐る恐るドアに近づく俺。そして、そーっとドアスコープを覗く。するとそこに立っていたのは……。
「……あれ、大家さん?」
そこには、心配そうな表情で立つ、このアパートの大家の姿があった。大家は60代くらいの女性で、何かと世話を焼いてくれる良い人だ。大家はこのアパートの一階に住んでいて、掃除などの管理を行なっている。
「高島くん、どうかしたの?」
そんな大家が心配しているようだった。さっき駆け込んだ時の様子を見られていたのかもしれない、そう考え、チェーンロックを外し鍵を開けた。
「はい、こんな時間にどうかしましたか?」
あくまで平静を装う俺。しかし、やはり大家は先ほどの様子を見ていたようだった。
「どうもなにも、あんなに慌てた様子で帰ってきたからびっくりして……って、どうしたのその腕!」
「え……」
見ると、さっき巻いたばかりのハンカチが血で染まっていた。巻き方が緩かったのかもしれないが……それより、何とか言い訳をしなければ。あの女性に襲われたことは、彼女には言わない方がいい。事件に首を突っ込んでいることがバレたら、少々厄介だから。
「ああ、さっきちょっと転んじゃって。処置が甘かったみたいですね、すみません」
「まあ大変、ちょっといらっしゃい、包帯巻いてあげるから」
そう言うと、俺の左手を引っ張る大家。強引な大家だったが、こういうことは比較的日常茶飯事だった。誰かが困っていたら絶対に手助けをする、彼女はそんな人だった。
少し躊躇したが、俺は大人しく大家の指示に従うことにした。一階まで降りると、管理人室の中に案内された。
「ちょっと待ってね、薬箱を取ってくるから」
パタパタと足音を立てて奥へ消えていく大家。仕方なく、その場で待機することにした。ハンカチはそろそろ限界を迎えているようで、ほとんど元の色が見えなくなっている。気が付かずに寝ていたら大変だったかもしれない、そう思うと少しゾッとするものがあった。
奥の部屋からは、タンスを開けるような音が聞こえる。本当に何か処置をしようとしてくれているようだった。その様子に、俺はため息を吐き、少し冷静さを取り戻しつつあった。しかし――――
「あれ……?」
ふと管理人室に飾ってある写真が気になった。そこには二人の男性と一緒に映る大家の姿。そしてそのうちの一人は、どこかで見たことのある顔だった。あれは、どこで見たんだったっけ。
「ごめんね、待たせてしまったわね。大変、もうこのハンカチは駄目ね。後で捨てたほうがいいわよ」
血塗れのハンカチを外し、大きめの止血パッドを当て、手慣れた様子で包帯を巻いていく。少し呆けていた俺は、大家が目の前に来ていたことに、その感触でようやく気が付いた。
「あ、ありがとうございます……」
「いいのよ、何かあったら大変じゃない。よし、できた。……どうかしたの?」
写真の人物が気になり、大家の処置が終わったことに気づかなかった俺を不審に思ったようだった。一瞬、聞くことを躊躇った俺だが、疲労と痛みで正常な判断ができなくなっていた。
「えっと、あの写真の人なんですけど……あの男性は、どなたですか?」
壁に飾ってある写真を指さす俺。大家は振り返り、ああこれね、と笑顔で答えた。
「あの方ね、右は佐藤さんで、左は奥村さんっていうの。私と同じ会に入っていて、とっても良い人たちよ。でも、私があの会に入ってるのは内緒にしてね、あまり世間的に良くない噂をされているから」
少し寂しそうにする大家だが、そんな言葉は俺の耳に入ってこなかった。奥村さん、彼女は確かにそう言った。そうだ、奥村、保昌……俺たちが見た、あの死体。そして、その写真にははっきりと、『霊身教の集い』、とそう書かれた立て看板があった。つまり、彼女と奥村は霊身教の信徒だったのだ。
「……どうしたの、顔色悪いわよ? やっぱり病院に連れて行ったほうがよかったかしら?」
心配そうに見つめる大家。
「え、ああすみません、ちょっと疲れてるみたいなので、もう寝ますね。ありがとうございました」
「そう? 無理はしないでね」
またお礼を言い、管理人室を後にする俺。そして自室に戻ると、得体の知れない恐怖が襲ってきた。あの女性が襲ってきたこと、そして、奥村が大家と知り合いだったこと、それがあの写真に書いてあった、霊身教……かつて殺人事件を起こした宗教団体で知り合った相手だった。詳しくは知らないが、過去にそんな事件があったことを覚えている。
何かがおかしい、俺の周りの人がみんな事件に関わっている気がする。そう考えると恐怖でしかなかった。いや、少し冷静になろう、やはり俺は疲れているんだ、そうに違いない……。
結局、そのまま俺は一睡もできず、朝を迎えていた。爽やかな朝の陽ざしとは対照的に、淀んだ空気が部屋に充満していた。そして、俺はいつの間にかスマホを手に持っていた。被害を受けたことを連絡する、その相手に選んだのは――――
高島『朝早くごめん、相談させてほしいことがある。』
真実なんてものはクソほどにも役に立たない。彼らの中にある事実と真実は、一致するのでしょうか。