第45章 予期せぬ邂逅
絶対に見つけ出す、そう言って出ていった彼女。そんな彼女を待つ運命とは。
「ね、ねぇ藤花……一体何があったのか、教えてくれない?」
「え?」
代々木駅前に到着し、足を止めた私にミカが声を掛ける。ぜぇ、ぜぇ、と息を乱し、夏でもないのに額には汗が光っている。一方のナオは、平然とした様子で私をじっくりと見つめているようだ。
私は、あの診察室を出た後すぐにカフェへと向かい、二人を連れ出した。急ぐ理由は単純だ、これ以上この病院にいても解決しないし、何かしらの言い訳を聞かされる羽目になる。そうなってしまえば、遊ぶ時間も無くなってしまう。それでは、この二人に申し訳ない。
幸いなことに、雨も今は止んでいる。またいつ降り始めるとも限らず、出ていくには丁度良いタイミングだった。
それに、嘘だと知っていることを、延々と聞かされるのは苦痛以外の何物でもない。どうして隠すのか、それを答えられるのなら良いが……先ほどの森谷の表情を見る限り、それは有り得ないだろう。どうせ、何か言い訳をつけて躱されるのだ。そうであれば、もう見限る以外に方法はない。
理由も告げず、引っ張るようにしてミカ、ナオを連れ出してしまったことは申し訳なく思う。家族のように仲良く接してくれる、この二人に迷惑をかけるのは心苦しい。でも、それでも私は我慢ならなかったのだ。嘘偽りで塗り固められた、私の記憶……これを取り戻したいと、強く思ったのだ。
とはいえ、こんなことをどう話したらよいものか……。そんなことを考えているうちに、強引に手を引いたまま、こうして駅まで辿り着いてしまった、という訳だ。
訳も分からず連れ出された二人は、きっと私の行動を不審に思っていることだろう。周囲の人間も、その異様な光景を窺うように、視線をチラチラと浴びせてくる。
「あ……ご、ごめん。えっと……」
連れ出したはいいが、まさか私の記憶を取り戻す手伝いをしてくれ、などと頼むには少し勇気がいる。個人的なことをお願いする、だなんて、そんな厚かましいことを出会ってからまだ数か月しか経過していない二人に、できるはずがない。鬱々とした思考が、私の言葉を淀ませたのだ。
しかし、身をかがませ、まだ肩で息をしているミカの背中に手を置き、ナオは真剣な表情で私に言った。
「私たちに、遠慮なんかいらないよ。いや、むしろ遠慮される方がイヤだな。……記憶のこと、でしょ?」
ビク、と私は体を硬直させる。ナオのその透き通る目は、まるで私を全て見透かしてしまったかのように思えた。
「図星、だね。……とりあえずなんだけどさ、何か食べてから考えない? そろそろ12時になるし、それに……」
ナオはミカへと視線を移す。彼女はまだ肩で息をしている。日頃、運動不足になりがちな社会人とはいえ、幾ら何でも体力がなさすぎる……という訳ではない。
「ミカ、少し休ませないと」
「……うん、そうだね……ごめんね、ミカ」
私もナオと同じく、背中へ優しく手を置く。
ミカは、重い呼吸器系の疾患を持病として持っているそうだ。こうして急に走ったり、長い距離を歩いたりすると、強い息切れを起こしてしまう。そのことを忘れていた訳ではないのだが、どうしてもあそこには居たくない……そんな思いから、彼女に無理させてしまったのだ。
「はぁ、はぁ……ふぅー、よし……」
一つ、力強く息を吐く。そしてミカは体を起こし、私に軽い正拳突きをかます。勢い自体はないが、当たった部分が、ちょうど鳩尾の近くであり、内臓へ不快な痛みが走る。
「あいたっ!?」
「……はっはっは、油断したね、藤花くん! これは、私の怒りだと思って受け取りたまえ! ……大事な友達の頼みなんて、断るわけがないじゃんか。話してよ、何があったか」
鳩尾に受けた痛みとは違う痛みが、私の中……特に心へと侵食していく。ちょっとでも、この二人に遠慮を……いや、不信感を抱いてしまったことへの、強い後悔と嫌悪だ。
「……うん……はぁ、ダメだな、私。……もう、二人のこと、だーいすき!」
暗い気持ちを払拭するように、ミカ、ナオへと抱き着く。
「うわ、何だいきなり、気持ち悪いな!」
「……はいはい、それはいいから、どこで食事にする? 希望はあるの?」
軽い叫びを上げるミカと、何事も無かったように淡々と話を進めるナオ。しかし二人とも、その言葉とは裏腹に、表情が緩んでいたことを、私は見逃さなかった。何も言わず、いつも通りを展開してくれる二人の態度に、また私は嬉しくなる。
「よし……ここは景気付けに、お肉でも食べよっか! 力付けたい気分だし!」
「お、いいねぇ……ここからだと、えっと?」
ミカはポケットからスマホを取り出し、店舗検索を始める。ナオはナオで、周囲を見渡して良さそうな店を探しているようだった。
余談ではあるが、ナオは重度の機械音痴でスマホすらまともに弄ることができない。以前、会社のコピー機を使う際にエラー音を自爆音だと勘違いし、上を下への大騒ぎしたことがあった。その事件以来、彼女には機械類を弄らせない、という社内規則が設けられたほどだ。
「……あ、ここ良いんじゃない? 牛肉100%のハンバーグ、だって! 美味しそうじゃん!」
ミカの声を聞きつけ、ナオと私は彼女のスマホを覗き込む。
「チェーン店、でもなさそうね。これならいいかも。藤花は?」
「うん、絶対に精が付くよね! ここに……」
すると、私の頭の中で、不思議な声が木霊する。声、というよりもほとんど雑音に近いものだが、わんわんと響き渡って行くその音に、私は思わず耳を塞ぐ。
耳を塞いでも、その音は徐々に大きくなり、やがて頭の中いっぱいに音が溢れかえる。
「……どしたの、藤花?」
私の異変に気付き、ナオが心配そうに顔を覗き込んでくる。しかし、そんな彼女の顔もまともに見えないくらい、強い頭痛が襲い掛かる。強烈な痛みに、自然と涙で滲み、視界がぼやけていく。
耳鳴り、頭痛。そして今、吐き気も出現し始めた。急な体調の変化に戸惑い、私は思わずその場にしゃがみこんでしまう。
「う……うぅ……」
「え、本当に大丈夫? 顔色……すごく悪いよ!?」
異常な様子に、ミカ、ナオ以外にも数人が集まっているようだ。これくらいで大袈裟な、と空元気を振りまこうと意気込み、スーッと息を吐く。心なしか、耳鳴りが少し止んだような気がした。
それと同時に、周囲の音が拾えるようになる。雑踏……ではない、誰かと誰かが、話しているようだ。一人は、ナオ。そしてもう一人は……嗄れた、老婆のような声だ。
「……ほんと? ならそこまで連れて行ってくれない?」
「ああ、それは良いけど……宮尾ちゃん、歩けるかしら……」
徐々にはっきりと聞こえだした会話……しかし、宮尾ちゃん、とは何だろうか。この友人二人は、そんな風に私を呼ばない。通りすがりの人物が、私の名前を知っているとも思えない。何より、聞いたことのない老婆の声なのだ。
「……?」
頭痛を誘発しないよう、ゆっくりと顔を上げる。どんよりとした空の元、ナオと、老婆と呼ぶには若い……60代くらいだろうか、二人が話し合っている。ミカの姿は見えないが、私の背中をさすってくれている人物がいるので、恐らくミカは私の背後にいるのだろう。
すると、私の視線に気付いたのか、ナオが私に優しく微笑みかける。
「ああ、藤花……少し楽になった? ちょっと休めるところに移動しようと思うんだけど……歩ける?」
突然現れたその人に、少し驚いてしまったが……親切なこの人が、休める店を探してくれたのだろう。しかし、どうして私の名を――――
「痛っ……!」
また一つ、雷に打たれたような強い刺激が頭の中を走る。その痛みで、また目の前が滲んで見えない。これでは、自力で歩くのは難しい。
「……ご、ごめん……ちょっとムリ、かも」
「……そう、だったら……ミカ、左肩をよろしく。私は右肩を」
「りょーかい!」
背後に回っていたミカが、私の左側へ。そしてナオは右側へと移動し、掛け声と共に私を引き上げる。急な頭位変化により軽い吐き気が生じたものの、両肩から感じる温かいものが、私の症状を緩和させる。
「しっかし、やっぱデケーなぁ……ちょっと分けてよ、その身長」
「……今はそういう時じゃないでしょ。ほら、行くよ。母さん、道案内お願いね」
「はいよ」
母さん? 道案内?
色々と聞きたいことがあったが、一先ず、私は二人に身を任せることにした。道筋的に、少なくとも病院へ戻ることはなさそうで、そこは安心したが……どうしてか、とても見覚えのある道を歩んでいるような、不思議な感覚が私を襲う。
少し歩いたところで、私の体にも力が戻って来た。あれだけ痛みを発していた頭も、霞みがかった視界も、心音の停止を告げるような高音域の耳鳴りも、まるで何も無かったかのように消えてしまっていた。
突然の出来事だったが、私はしばらくの間、そのことを黙っていた。両肩から感じる温もり……これが心地よかったのだ。目的地に着いた辺りで、治ったように振舞おう。そうでないと、後で二人から何を言われるか分かったものではない。
「……ええと、ここ……あれ? どうしたのかしら……嘘?」
人通りの少ない細い道を歩く老婆が、その足を止める。その様子から、恐らく目的地に到着したようだった。しかし、その声からは良いニュースを伝える雰囲気が感じられない。明らかに、悪い知らせが私たちを待っているとしか思えなかった。
「どうしたの、母さん。……道、間違えた?」
「ううん、合っているはずなんだけどねぇ……大野さん、どこか出かけてるのかしら……」
その老婆の話しぶりが気になり、私は二人から離れてその老婆の元へと歩み寄る。ミカとナオは制止しようとするが、彼女の見ているもの……それを確かめるために、私は歩みを止めなかった。
そして、彼女の隣へと辿り着いた私は、古びた小さなビルを目に映す。そこの一階……恐らく飲食店であったであろう場所の、大きな窓ガラスに貼られた一枚の紙を見つけた。綺麗な字で書かれた、恐らくこの店主の直筆と思われる張り紙。
そこには、こう書かれていた。
「……都合により、閉店……カフェ・レストリア 店主 大野 幸貞」
駆け寄ってきたミカ、ナオも同じく張り紙を見る。そして、はぁ、と三人のため息がシンクロする。そして思わず、お互いに顔を見合わせて、プッと噴き出した。
「揃っちゃったね……」
「あはは……ってか藤花、歩けんじゃん。治ったの?」
「あ……ヤバ……」
しまった、バレてしまった。……しかし、そんなことよりも今は気になることがあった。私の横にいる老婆は、その張り紙が見えていないかのように、ポカンとしたままなのだ。どうしてもこの事実を受け止められないでいるような、現実を直視出来ていない目をしていた。
「えっと……閉店、だそうですよ?」
「……」
そっと声を掛けるも、私の声は彼女に届いていないようだ。耳が遠くなっているのかもしれないが、先ほどまでナオとは普通に会話していた。そうであれば、この程度の音量でも聞き取れるはずだ。
「ねぇ、母さん。別の店はない? ……聞いてる?」
ナオも同様に声を掛けるが、やはり同じように届いていない。まさに、呆然自失、といったところだ。
私とナオは、目を見合わせる。すると、ミカが何かを思い出したように、急いでスマホを取り出し、何かを検索し始める。
「どうしたの、急に……」
「ちょ、ちょっと待って……大野って……やっぱそうだ、昨日遺体で見つかった人だよ! あのホテルでさ! ほら!」
ミカは、興奮冷めやらぬように、スマホの画面を私たちへと見せつける。『都内の大型ホテルで刺殺体』……これは、私にも見覚えがあった。
そうだ、あの高島とかいう男性が、この大野という男性を殺害した容疑で逮捕……いや、確かまだ確保としか聞いていないが、少なくとも警察の元にいるのだ。大事なことをすっかり忘れていた。
「じゃ、じゃあ……この店主は、もう……」
「そういうことになるけど……変、だよね。これじゃ、殺されるのを分かっていた、みたいじゃん……」
ミカの言う通り、確かに変だ。殺される直前に店を閉めた……それは偶然なのだろうか。いや、実際に閉店したのがそもそもいつなのかが分からない。張り紙を見る限り、閉店はいつから、という記載はないのだ。
「……母さん、この店はいつまでやっていたの?」
ナオは何とか情報を得ようと、母さんと呼ぶ老婆に声を掛ける。ここで、ようやく正気に戻った彼女は、少し淀ませながらも、静かに口を開いた。
「ああ、ええと……少なくとも、年末までは開いていたと思うんだけど……ごめんなさいね。それより……大野さん、亡くなられたの……?」
かなり多くの人に知られているはずのニュースだと思うのだが、彼女は知らなかったようだ。見た目は60代くらいであるから、認知機能という面ではそこまで低下していないはず。そして往々にして、この年代の方々はよくテレビを観ている。ホテルで発見された刺殺体、など忘れようがない。
しかも、彼女は『大野さん』と言った。つまり、この店の店主である大野と、少なからず親交があったということになる。そうであるならば、どうして彼の死を知らないのか、余計に疑問が深まるのだ。
「え、ええ……ここにほら、遺体の名前が書いてあります。大野 幸貞……恐らく、この人でしょうね」
ミカのスマホを受け取り、老婆へと見せる。また少し受け止めるのに時間を要しているようだったが、一つ悲し気な表情を浮かべ、こちらに向き直った。
「知らなくてごめんなさいね。私、テレビとか観ないものでね……そうだったの……大野さんがねぇ……」
物思いに耽るように、先ほどより少しまた雲が厚くなってきた空を見上げる。
「……お知り合い、だったんですか? その……」
「……ええ。昔からの知り合いでね、とても偉い人だったの。一時は、お付き合いもさせていただいたこともあったかしらね」
お付き合い、という言葉にナオが反応する。先ほどからの会話や今回の反応と言い、やはり彼女の実の母親なのだろうか。親の恋愛話とは、何ともむず痒いものだろう。私には経験できないことだけれど。
「……ねぇ、ナオのお母さんってホント?」
念のため、ミカへと耳打ちをする。
「え……あっそうか、藤花が倒れそうになってた時だもんね。……そうらしいよ、確か……高木さん、っていうみたい。ナオは連れ子だから」
なるほど、それなら彼女たちの年齢差にも頷ける。ナオは確か私と同い年くらいだったはずだ。有り得ない年齢差ではないが、連れ子……恐らく、父方の連れ子なのだろう、それならば納得だ。
「良い研究が出来たから発表するんだ、って、子どものように嬉しそうに言っていたんですけどね……まぁ、人生とはそう上手くいくものではないのでしょうね」
高木は、少し涙ぐみながらも、私たちへ微笑んで見せた。気軽に、彼の死亡したニュース記事を見せてしまった自分の軽率さを、少し反省する。予想できなかったとはいえ、良くないことだ。
そこで、ふと私は思い出した。ナオの母親、ということは理解したのだが、私を『宮尾ちゃん』と呼んだこと……それは、理由が分からない。
ナオが伝えたかどうかは定かでないが、そんな自己紹介するような時間はなかったはずだ。それに、ナオは高木の家に戻っているという話も聞いていない。私と共に、あの寮で生活しているのだから。
だとすれば、一体、高木はどうして私の名前を知っていたのだろう。
「高木さん、でいいですか? ちょっと聞きたいんですけど……どうして、私の名前、知っていたんですか?」
「……名前?」
唐突な質問であることは私も承知している。しかし、どうしても不思議だったのだ。
「そう、私の名前……ナオ、教えたの?」
「ううん、そんな場合じゃなかったし……そういえばそうだね、何で知ってたの?」
「……」
高木の表情が一変する。先ほどまでの穏やかな微笑みは消え失せ、目は泳ぎ、動揺を隠しきれていない。
これは、森谷と同じだ……何かを隠している。
「ど、どうなんですか? あの、私……知りたいんです。どうしても、私の過去を……記憶を失くす前の私と、会ったことがあるんですよね?」
「……」
高齢の女性に詰め寄るのは、良いこととは思えない。しかし、これは私にとって重要な話だ。もう形振りなど、そんなことに感けていられない。
「……はぁ、うっかりしたね……でも、それは私の口から言えるものじゃないわ」
そう言うと、高木は小さく俯き、自分の鞄を漁り始める。そして、一枚の名刺のような小さな紙を差し出してきた。
「……これは?」
「この人に、話を聞いてください。私が言えることは、それだけ……約束を、破ることは出来ないの……お願いだから、それで我慢して……」
小さな紙を持つ手が、大きく振動する。パーキンソン病のような、震えてしまう病気ではない……激しい感情を抑えるように、体を震わせているのだ。
並大抵の覚悟ではないことは、良く理解できた。これを渡すことも、恐らくギリギリの行為なのだろう。
「分かり、ました。ありがとうございます……」
「言っておくけれど、充分に考えてから行動するんだよ。……失ってからでは、もう遅いんだ」
そう言い残し、高木はいそいそと私たちから離れていってしまった。
『失ってからでは、もう遅い』……記憶喪失の私に投げかけるには、あまりにも矛盾した言葉だ。失ったから、探しているというのに。それほどのものなのだろうか、私の過去は……。
少し身震いをした後、受け取った紙を裏返す。名刺ではなく、メモ用紙のようなもの……そこに、一人の人間の名前と電話番号が記されていた。
少女のような丸っこい字で、しかし丁寧に書かれた名前と番号。それは――――
「岬 千弦……」
唐突に渡されたメモ、そして岬の名。果たして、平穏無事に物語は帰結するのか。




