第39章 知性と強壮と純愛
アフターストーリー、安藤 胡桃編です。
2019年12月15日。あの事件の始まりから、すでに三か月は過ぎようとしていた。世間は、そんな悲惨な事件が秘密裏に起きていたこととは露知らず、記録的暖冬がどうの、政権運営がこうの、と他愛のない報道に振り回されている。
宮城県、仙台市。そんな暖冬である今シーズンではあったが、東北最大の都市であるこの街にも、冬を告げる小羽が舞い踊る。ワルツを奏でるかのように、美しく、気高いその白に呼応するかのように、葛岡駅を飛び出した女性は、くるくると回りながら燥いでいた。
「わぁ、雪だぁ……」
子どものように、無邪気な声を上げたのは、安藤 胡桃だ。未だ薄れない芸能人のオーラを醸しながら、相変わらず趣味の悪い取り合わせの衣服を着用し、道行く人々の視線を釘づけていく。
「ああ、危ないですから! ……走らないでくださいよぉ!」
彼女の背後から、諫めるように声を掛けたのは、いかにも体育会系、というような出で立ちの男。代々木警察署に、警察官として勤務していた、品川 豪也であった。
彼がこうして胡桃の元にいるのは、あの事件……東京で起きた、連続猟奇殺人事件がきっかけであった。敬愛する二人の先輩……村田と米村。それらの、あまりにも無惨で、救われない最期を直接ではないが目の当たりにしてしまった彼は、もはや警察官としての勤務に耐え得るだけの精神力を失ってしまっていたのだ。
会議室を覆い尽くさんばかりの血溜まり。窓に付着し、どうやっても落としきれなかった肉の欠片。あれを経験して、彼は初めて人間の血肉の臭いを経験したのだ。研修などでは決して触れることのなかった、リアルな人間の残滓。思念など何もない、ただそこに転がっているだけの肉塊に、彼の精神は疲弊してしまったのだ。
そして、その傷も癒えぬまま……同輩である中原により指示され、辿りついた先で見てしまった。自らの腕を凶器へと変えた、最も敬愛する先輩の狂気を。そして、その傍らで静かに息を引き取っていた小さな男の子を。
そんな彼に手を差し伸べたのは、意外にも胡桃であった。彼女と彼は、事件において細やかながら接点を持っていた。それ故に彼女は、ぼろ雑巾のように成り果てた彼を救い出す手立てを講じていた、というわけだ。
しかし、その救い出す手立てというのが……
「品川さん、私の助手になりませんか?」
というものだった。
もちろん、品川は初め、彼女の誘いを拒絶した。当然だ、彼は殺人事件の現場を見て離職するような警察官なのだ。探偵と言えば、ドラマや小説などとは異なり、浮気調査や猫探しなど、やり甲斐の少ない職業である。その上、警察官ほどではないにせよ、少なくとも血みどろの争いを垣間見る機会は多いのだ。精神力の弱い者が行なうような仕事ではない。
しかし、そんな品川に胡桃は、幾度も声を掛け続けたのだ。一目惚れなのではないか、と周囲が疑うほどに、そして実際に彼自身もそれを疑うほどに、熱心に。
「……分かりました、分かりましたよ!」
彼が折れたのは、つい先日のことであった。あまりにも熱心であり、そしてそれに対し悪い気がしていなかった彼にとっては、もうその要求を受けざるを得ないほどに疲弊していた。無論、良い意味でのことだ。
「それで、助手って何をしたら良いんです? ボディガード、という訳ではないんですよね?」
彼の質問は当然のことであった。頭脳明晰な胡桃に、肉体派である彼が必要となる場面は限られるからだ。それこそ、不倫の仲裁でも行なうほどに、強力な馬力が。
しかし、彼の予想は、良くも悪くも裏切られることとなった。
「よかったぁ……事務所のね、荷物が多くなりすぎて困っていたの。だから……」
「だから?」
「まずは、その手伝いかな!」
そんなこんなで、あれよあれよという間に彼は彼女の事務所へと通うこととなり、現在……彼女の地元である、ここ仙台に来ることになったのだ。
「なーんで、こうなっちまったかなぁ……」
降り頻る粉雪を、恨めしそうに見上げながら品川は呟く。一瞬でも、あの元アイドルと交際が出来るのでは、などと考えてしまった自分が情けない……そんな思いが、その目には込められていた。
「ん? 何か言った?」
振り向きざま、胡桃は嬉しそうな表情を崩さずに品川へと問いかける。
「いえ……雪ですから、滑るので転ばないようにしてくださいね」
「雪国育ちを舐めないでくれるかな? それに……」
つかつかと、わざと靴音を鳴らしながら胡桃は彼の元へと近づいていく。
「……せっかく、お姉ちゃんと会うんだもん。テンション上げていかなきゃね」
胡桃の姉、安藤 理佐の墓はここ、葛岡駅を目前とする霊園にある。安藤家の墓地はここに存在しているのだが、まさか胡桃の両親、果ては祖父母よりも早く、彼女の姉が逝ってしまうとは夢にも思っていないことであった。
安藤 理佐の死を聞いた彼女の両親は、今もなお、その死を受け止められずにいる。当たり前と言えばその通りであるが、世間からのバッシングを一手に受けてもなお、辞めたり、自傷したりといった行為に走らなかった彼女を、両親は誇りに感じていた。
そんな彼女の、あまりにも早すぎて、理不尽極まりない死。そんなものを受け入れる人間が、この世に果たして存在し得るだろうか。
それにもまして、胡桃には忸怩たる思いがある。彼女の信じた友人の一人、宮尾 藤花が、彼女の姉を殺害した張本人であったのだ。そんなことにはまるで気付かず、胡桃は宮尾と親しく交流していたのだ。
加えて、その殺害に至るまでの動機が、非常に濃く、深い闇に包まれていた。その闇を一切感じることが出来なかったという観点で言えば、彼……高島 春来の罪というものも、胡桃は同様に背負わねばならない。
だからこそ、彼女も高島と同じ決断をした。大好きな友人の一人である宮尾と、永遠の別れをすること……決して望んで出した答えでは無かった。しかし、それ以外に救えないことも、また明白だった。
そんな思いを拭いきれない胡桃は、月命日の度に……否、そうであろうとなかろうと、足繁くこの墓地へと通い、そして姉へ相談を持ち掛けるのだった。無論、墓石に話しかけたところで、返ってくるものは自分の言葉である。それでもなお、彼女は墓石に語り続けるのだ。自分の判断は正しかったのか、と。
「……」
庭を駆け回る犬のようだった様子から一変、深淵を覗くかの如く、漆黒の闇に包まれた目を、胡桃は品川へと向ける。
「……間違っていたのかな、私……」
「胡桃さん……」
品川には、事件の経緯など説明はしていない。それ故に、彼には黙っているほかに選択肢はなかった。彼女を覆いつくす闇を、振り払うだけの光を持ち合わせていなかった。
しかし、状況は一転する。彼の双眸が、とある女性の姿を捉えたのだ。
「あれ? あの人……」
「え……」
彼の反応に、胡桃はつられて振り返る。霊園の入り口に、見たことのある女性の姿があったのだ。中原や岬などではない。一時期は恨みさえした、あの女性だ。
「い、伊藤さん……?」
そう、安藤 理佐の元マネージャーである伊藤 撫子が、彼女の眠る霊園へと姿を現したのだ。誰かの葬儀に参加しているかのように、喪服を着て、沈痛な面持ちを浮かべたまま……彼女は、霊園へと踏み入れていく。
「っ……!」
胡桃は、思わず駈け出した。雪で滑りやすくなっている地面のことなど、すでに頭の中から消え去っているかのように、縺れる脚を庇うことなく、ひたすら伊藤の足跡を追う。
「なんで……こんなところにまで……なんで!」
負の感情が津波の如く溢れだし、彼女の口から言葉として零れだす。
そう、この事件で唯一、胡桃が恨むべく相手……それは、マネージャーの伊藤。彼女が持ち込んだエンドルパワー、あれを飲んだせいで、安藤 理佐は帰らぬ人となった、そう解釈して間違いがない。
純粋に差し入れとして持ち込んだのであれば理解はできる。しかし伊藤の言い分は、ファンからの差し入れと言えば、やる気が出るのではないかと思ったから……なのだ。決して、容認できるようなことではない。
「待って……待って!!」
話しかけるというよりも、もはや叫ぶように伊藤へと声を掛ける。その声に気付いた伊藤は、何事かと振り返った。そして、胡桃の存在に気付いたのだった。
「あ……あなた、確か……」
「え、ええ……安藤 理佐の……妹です……」
足場の悪い中、必死で駈け出したせいで呼吸は乱れ、酸素を求める喉は言葉を紡ぐことを拒絶する。それでも、絞り出すかのように声を出し、話を続けた。
「どうして、ここに……あなたに、そんな資格が、あると思って……!」
「……」
途切れ途切れの言葉に、さほどの意味はない。しかし、伊藤は胡桃の目を見た。憎悪の渦巻く黒点を、彼女の網膜は認識した。それが、一体誰に向けられているのか……そんなことは、言うまでもない。
「黙ってないで……どうなの……あなたは……お前は!」
「……そう、そうよ」
胡桃の黒焔を断ち切るように、伊藤は空虚な眼差しを向ける。
その目に、胡桃は全身を包んでいた火焔を霧消させた。彼女の目を、空虚などと語るのは相応しくない。その目は、どこも見ていない。
光が、ない。
「私が、理佐を殺したの。私の無神経な振る舞いが、あの子を傷つけ、追い込み……殺した。そう……殺したのは、私……」
光を失った目から、伊藤は涙を零す。慟哭するでも、嗚咽するでもない……ただ、涙を流している。まるでその一滴一滴に、彼女の光が込められているかのように、地面へと落ちるその雫は輝いていた。
「どう、して……」
胡桃には、どうしても納得がいかなかった。こんなにも、安藤 理佐のことを想っている伊藤であったのならば、彼女の想いを踏みにじるような行為はしてはいけない……そんなことくらいは分かるはずだ。
ならば、あのファンレター、そして差し入れ。あれには、本当に彼女の想いが込められているというのか。活躍を切に願うのは、仕事の都合ではなく、一人のファンとしての感情だったのか。
「あなたは……」
「……こんなこと、本当は言ってはいけないことなんだけど……」
止めどなく、静かに湧き出る光を、伊藤はグイッと強引に拭い取る。その力により、ファンデーションが少し剥げ、より肌の状態が露わとなる。……ひどい土気色、そして荒れた皮膚。まともな生活を送っていないことは、それだけで伝わってくる。
「私はね、あの子に……あの、きらめく宝石のようなあの子に、恋をしていたの」
「恋……」
それから伊藤は訥々と、降り頻る粉雪の中、静かに話し始めた。
「最初にあの子を見たときから、思ったの。この子は、絶対に大成するって。何より、オーラが全然違う。人を惹き付ける才能っていうモノを持っていた……ま、本人は気づいていなかったのでしょうけど……」
徐に、伊藤は目の前の墓碑に付いた雪を拭う。『安藤 理佐』……最も端に刻まれたその名を、愛おしむかのように、そっと優しく。
「歌手としてデビューさせたのは、社長の売り込みのせい。あの子の一番の弱点を曝け出させて……おかげであの子は、自分に自信を失ってしまった。……宝石もね、同じ。磨き方ひとつで、ただの石ころも装飾品になる。逆に言えば、ダイヤモンドでも汚く磨けば石ころと同じになるの」
栄光と、挫折。安藤 理佐の傍にずっといた彼女は、それを誰よりも悔しい思いで見ていたのかもしれない。だからこそ、冷たい態度を取るようになったのだと、そう言えるのかもしれない。
「私は、あの子が石ころ同然の価値になるなんてイヤだった。何としてでも、芸能界の中でも、燦然と輝くトップスターの一人に育てあげたかった。その想いが、いつしか恋心となってしまっていたのだけど」
「……グラビアアイドルとして売り出すように進言したのは、あなたなんですか……?」
「そうよ……ちょっと不純な動機もあったけど、あの子の美しさなら誰にも負けない、そう私は信じていたから。でも、それが結果として、あの子をまた苦しめたのだけど」
力なく微笑む伊藤。
彼女も、必死だったのだ。好きな相手の笑顔を見るために……また輝きを取り戻せるように、慎重に磨いて、磨いてきたのだ。そして、磨きすぎてしまった宝石は、その手から滑り落ち……やがて地面に落ちて割れてしまった。粉々に砕け散ってしまった。
「……あーあ、何で私、あんなもの渡したのかな。分かっていたはずなのに。あの子の笑顔を見て、苦しくなっていたのに。いけないことだって、分かっていたのに……」
「伊藤さん……」
小さく、囁くような声で泣きながら、墓碑に縋るように倒れる伊藤。一人のファンとして、一線を踏み越えた結果……全てを壊してしまった。もちろん、原因の全てが彼女にあったということではない。ただ、ひとつのきっかけを彼女は与えてしまった。それだけなのだ。
「大丈夫ですよ、伊藤さん……」
崩れ落ちる伊藤を、胡桃は背後から支えるようにして起き上がらせる。
「伊藤さんの想い、絶対に、ぜぇったいに伝わっています。私には、分かるんです。なんて言ったって、実の妹なんですから」
「……そう、かしらね……」
「そうですよ。不器用だったけど、頑張り屋さんで、意地っ張りで……誰にでも優しかった、自慢の姉ですから」
また崩れ落ちそうになる伊藤を抱きかかえ、胡桃は幼子をあやすかのように、背中をさすり続ける。あれだけ憎んでいた相手であったというのにも拘わらず、こうして抱き合うことになるとは、彼女には夢にも思わなかったことだろう。
「あ、そうか……同じなんだ……」
高島が、宮尾に対して取った行動と同じ、相手のことを知らなければ行えない行動。知らないまま行動してしまった結果、伊藤は取り返しのつかないことをしてしまった。
胡桃も、同じだった。伊藤のことを、こうして知りもしなければ今頃は、彼女に対する憎悪に抱かれたまま生きていたことだろう。相手のことを知りもしないで、自分の感情を優先してしまえば、見えなくなることが多いのだ。
そうであるならば、高島の、いや、全員が出した、あの結論は……。
「正しかった、のかな。お姉ちゃん……」
ふと空を見上げると、厚い雲の隙間から僅かに青空が覗いていた。舞い散る粉雪がキラキラと照らされ、どこか安藤 理佐が微笑んでいるようにも見えた。
品川と胡桃は、この後も探偵として活躍していきます。ただ、それはまた別のお話。




