第37章 禍福は糾える縄の如し
ふわり、ふわりとした感覚が俺を包み込む。目の前は、真っ暗で何も見えない。いや、目は閉じたまま、開く気配がない。まあ、もう開ける気力などないのだが。
俺は……死んだのだ。宮尾の壮大な自殺計画を阻害するために……そして、俺の罪を清算するために。そして、ここは死の世界、というやつなのだろう。てっきり、地獄へ行くのかと思っていたが……どうやら、やはり天国や地獄といったものは存在しないらしい。
ただ、虚無だけが支配する空間。そこで延々、俺の魂は彷徨うことになる、という訳か。それでいい、それで済むならもう……大好きな、あの子の泣き顔を……あの子が手を汚す姿を……見たくない。あの世界に、未練など……。
とはいえ、この何もない世界にたった一人、幾年……いや、途方もない時間を過ごすことになるのか。そう考えると、地獄と同義だな。岬の受けた、あの感覚遮断実験……あれは、恐らくこんな感じなのだろう。
ただ一つ、彼女と違うことは……もう、俺は死んでいるということだけ。
しかし、そんな俺の諦観とも言える思考を遮るかのように、この虚無の空間に、音が響き渡った。それも、俺の耳元で。
「……に ……くんが目を……」
何だろう、これは……神が俺を呼んでいるのだろうか。そう叫ばずとも良いのに、どうせ俺しか、この世界にはいないのだから。
しかし、それにしては何というか……やかましい。もっと、そういう存在は、厳かなものなのかと思っていたが……。
「……呼びか……高島……」
いや……これは、神の声じゃない……人の声……そして、知っている人の声だ。
なぜ、そんなものが聞こえるのだ。俺は確かに、この頭を、拳銃で……。
「高島くん!!!」
一際、大きな声が聞こえる。仕方なしに、俺は薄っすらとその目を開けた。
おかしい、目が、開いた……? さっきまでは重くて開きそうもなかった、この目が……開いた?
「……こ、ここ……は……」
眩い光が俺の網膜を刺激し、一瞬にして世界は真っ白に包まれる。長いトンネルから出たときに感じるような、蒸発現象、というのだったか……それに近い感覚だ。
ゆっくり、ゆっくりと目が慣れてきたのか、辺りのものが見えるようになってきた。天井が、見える……そして、柵のようなものが俺を囲っている……ああ、寝かされているのか、俺は。
俺の頭や体には、様々なものが付けられている。管や……電極のようなもの……あれは、点滴か?
そして、少しずつであるが、自分の置かれた状況を理解し始めた時だった。
「ッ!!」
右耳……いや、右のこめかみの辺りが、激しく疼いた。痛い……痛い?
痛みを感じるということは……俺は、生きている、のか? どうして……至近距離、いやゼロ距離で銃弾を受けたはずだ。しかも、この痛む右のこめかみに銃口を当てて。それなのに、生きている……?
「う、うう……?」
ズキズキ、と激しい痛みを堪えながらも、俺は自分の体を動かそうと力を込める。腕は、動く。脚も、何とか動くようだ。
もしかしなくとも、これは……俺は、生きている。
「おお、高島くん! やっぱり、そろそろ目覚めるんじゃないかと思って呼びかけていたところだったんだよ。いやぁ、二日も眠り続けるものだから、ちょっと焦ったけどね。良かったよ、これで一安心だ」
全く現状を把握できていない俺の前に、一人の影が顔を覗かせる。あれは、森谷……? どうして森谷がここに……。
「こ、ここは……どうして、森谷さんが……」
「ああ、声も出せるようだね。俺の顔も認識できている……脳への大きな障害はなさそうだ。右の鼓膜の損傷と、やや深い火傷はあるが……うん、これなら少しすれば、回復していくだろう」
満足そうに、俺の顔、体を確認する森谷。
鼓膜と、火傷……? 銃弾を至近距離で受けて、そんな軽傷で済むはずなど……。
「痛……お、俺は一体、何で……」
頭の中で整理しようと思っても、痛みが強くまともな思考が難しい。思った言葉が、口から出てこない。
「ああ、落ち着いてくれ。軽い脳震盪も起こしていたのだから、急に起き上がったりすると危ないよ。あんまり無茶なことをするようなら、抑制って言って、体を固定しなければならなくなる。言っている意味は、分かるかい?」
森谷の言い分はよく分かる。聞き分けのない患者だということも自覚している。しかし、俺はこの状況を知りたいのだ。どうして俺は、生きているのか。そして、あの後どうなったのかを。
「お、れは……何で、生きて……」
「それは、私が話した方が良いだろうな。森谷さん、良いですか、話してしまっても」
俺の目からは見えない範囲から、女の人の声が聞こえる。あの声……鼓膜が破れてしまった影響で、やや聞き取り辛いが……中原の声だ。
「良いは良いけど、中原さんこそ、彼よりは重傷なんだけどね? 銃弾を二発。しかも両肩に受けて、何でそんな平然としているのか……私にはさっぱり……」
「ふふ、鍛え方が違うんだよ……まあ、痛いことは確かだけど、寝てばかりいられないし。それに、脚はこうして動くんだ。リハビリも兼ねて、だよ」
そして、俺の視界へと現れた中原。両肩には、痛々しく包帯が巻かれている。ただ、その表情を見る限りは、元気そうだった。
森谷の話では、俺は二日も眠り続けていたという。彼女が受けた二発の銃弾は、確か貫通していた。そのおかげか除去手術を経ずに済んで、入院してまだ二日だというのに、こうして比較的自由に行動で来ているのだろう。とはいえ、重傷者には変わりないのだが。
「ああ、高島くん。私もてっきり死んでしまったかと思っていたけど……驚いたよ、君があんな仕掛けをしていたなんてね」
「仕掛け……? 一体、何の話ですか……?」
全く身に覚えのない話に、俺はキョトンとした顔で返す。柔らかな微笑みから一転、中原は怪訝そうな表情で俺を見つめる。
「何? あの銃は、君の私物ではなかったのか?」
「あの銃って……俺が使った銃、ですか? あれは……米村さんが携帯していた、警察のものです……中原さんなら、見たらすぐに分かるんじゃ……」
何で、今さら拳銃の話を……それにあれは、警察官が一般的に所持しているタイプだったと思う。そんなものを、俺が私物として持ち歩くはずがないじゃないか。
「……いや、あれは精巧に作られていたけど……ただのモデルガンだよ。それに、詰められていたのは空砲……つまり、弾頭のない、ただの火薬だ」
モデルガンに、空砲……? そんなものを、どうして米村はわざわざ……まさか。
「まさか……米村さんは……これを予測して……?」
「そ、そんな訳ないでしょ。だって、先輩は元々、あの組織の人間で……宮尾さんの協力者だったはず……なのに、そんなこと……」
いや、待てよ。宮尾は確か、米村は薬が切れたら役に立たない、そんなことを言っていた。ということは、米村は薬による支配を受けていなければ……。
「ちょっと、話、良いかな?」
唐突に、森谷が俺たちの議論へと割って入る。邪魔をするな、と言いたいところであったが、その神妙な面持ちに、俺たちは閉口し、彼の言葉に耳を傾ける。
「米村さんは少なくとも、俺があの帝都大学での事件で組織を抜けるまでの間には所属していなかった。もちろん、俺は全員の顔を覚えている訳じゃないですけどね、ただ……あの人の小間遣いだというのなら、絶対に面識はあったはずなんですよ。でも、俺は会ったことがなかった。この事件で、警察と医者、という関係性で会うまでは」
帝都大学の事件までに、米村と森谷は面識がなかった……ということは、米村は少なくともそれ以降に、あの組織に所属するようになったということか。しかし、それでは矛盾することがある。
「それ、矛盾してますよ……だって、米村さんは10年前の……俺の両親の事件の時……主犯は奥村だったそうですけど、物的証拠を現場に残して、捜査を攪乱させる役割を担っていたと言っていました。だったら、その時点で彼はあの組織と繋がっていないと、おかしいんです」
そう、少なくとも10年前……いや、それ以前から、あの組織に所属していないと辻褄が合わない。洗脳するにしても、そんな前の段階であれば、『エンドラーゼ』の研究はまだ臨床段階までも到達していないのだ。だとすれば、マインドコントロールに使用されていたあの副産物も、世に出回ることはない。矛盾しているのだ。
「あの組織が『エンドラーゼ』の副産物に目を付けたのは、岬の母親から得たデータを元にしているはず……であれば、あれを使えるようになったのは、ここ数年でしかない。だったら……」
「……俺が以前、あの毒物に関する詳しい話をしたことを覚えているかな? 前帯状皮質の肥大、そして頭頂葉付近の萎縮……あ、その顔は覚えていないようだね?」
苦笑いを浮かべる森谷。そんなことを言われても、専門的な分野の話など覚えられるはずがない。天才たちと比肩しないでほしいものだ。
「脳の萎縮を引き起こす薬剤は結構な種類があってね。しかし、ピンポイントに萎縮を引き起こすものは無かったんだ……でも、あの毒物はそれが可能だと判明した訳だ。あの組織が研究していたのは、前帯状皮質の肥大化ではなくて、頭頂葉の萎縮の方だったんだよ」
「えっと……つまり、どういうことなんですか?」
そう言われても全くピンとこない俺たちを見て、また苦々しく笑いだす森谷。
「ああ、簡単に言うとね……あの組織は、ある特定の脳の分野……大脳皮質を萎縮させることを目的とした訳だ。つまり、疑似的にアルツハイマー病のような記憶障害を引き起こすことができる、そういうこと」
アルツハイマー病……認知症状を低下させる疾患の一つだったはずだ。それを、疑似的に起こすことができる……ということは、米村に起きた、あの奇妙な言動は……。
「で、でも、米村さんはそんな忘れっぽく無かったはずです。事件の推理も的確でしたし……認知機能が低下しているとは、到底……」
「それは、大脳皮質だからだろうね。短期記憶は、大脳じゃなくて海馬っていう別の器官が司っているから。だからこそ、彼の異常に気付きにくかったのかもしれないね」
なるほど、短期記憶には影響を与えず、昔の記憶を弄る、ということか。一般的な認知症状のある人とは、逆のことが起きたということなのか。
過去の記憶は、その人の人格形成に大きく寄与するものだ。であれば、そんな大事な部分に手を加えられてしまえば……。
「その薬を投与されて、記憶が混乱してしまった米村さんに、さらにマインドコントロールをすることで、完全な奴隷へと変貌させた……」
「奴隷って言い方はどうかと思うけど、概ねその通りだと思うよ。あの組織の最終目標は、人類の画一的な進化だ……意思、果てはクオリアまでを統一できれば、戦争もない、平和な世界を創造できる……倫理的には論外だけどね」
しかし、それも不完全な結果となった。米村は完全に記憶を失ったわけでは無かったし、マインドコントロールも不充分だった。
……そうか、そういうことだったのか。だからこうして、俺は生きているのだ。
「米村さんは……決着を付ける前に自我を取り戻し、拳銃を殺傷能力の低いモデルガンへ、そして実弾を空砲へと変えた……」
苦肉の策だったのだろう。本来であれば、自死をも決意したはずなのだが……そんなことをすれば、あの組織がどういう対応に出るか予測ができない。計画通りに進行させ、かつ俺たちへ被害が出ないようにするための……彼の、必死の抵抗だった。
「先輩も、この事件の被害者だった、ということですか……」
沈痛な面持ちで俯く中原。冷静沈着、かつ的確な判断のできる優秀な警察官だった彼を狂わせたのは……あの組織の人間と、この事件を画策した宮尾だった……。
宮尾……?
「……そうだ、宮尾! 彼女はどうしているんですか!? まさか……」
自分が生きていたことに気を取られ、失念していた。そうだ、宮尾……俺を好きだと言った……狂気に囚われてしまった、あの女の子は……。
「ああ、宮尾さんなら……一応、生きている」
「一応……? それは、どういうことですか。彼女は別に、銃で撃たれたりした訳じゃ……」
森谷の表現は、明らかにおかしかった。宮尾は、あの家で何かしらの負傷をした訳ではない。だとすれば、俺が意識を失った後、自殺を図ったのだろうか。
いや、それは有り得ない。そんなことを今さらするのであれば、とっくの昔に、自殺という選択をしていたはずなのだ。叔父からの暴行を受け、彼を殺した時に、すでに。
「……高島くんが倒れた後、宮尾さんも同時に倒れてしまったんだ。鼓膜が破れそうなくらいの大声で叫んで、立った状態のまま後ろへ。……それ以来、彼女の意識は戻っていないんだ」
「そういうこと。それで、君と一緒にここへ運ばれてきたんだけど……重傷度で言えば、君よりも遥かに軽かった。でも、それにも関わらず彼女は、少しずつ心音は落ち、脳波も微弱になっている」
外傷性のものは無いにせよ、そういった状況に陥っているということは、命の危機が迫っているということだ。
原因を上げるとすれば、一つしかない。……俺の、せいだ。
「俺が、死んだと思い込んだから……宮尾は、そのショックで……」
「それが今、最も考えられる原因だとは思うよ。だから、君が呼びかけることで目を覚ます可能性はある。だから、君が早く目覚めてくれてよかったんだ」
そうであるならば、今は一刻を争う。身体機能が低下し、聴覚が遮断されてしまえば、もう俺の声は宮尾に届かない。そうなれば、もう彼女は目を覚ますことはない。
急がねば……!
「森谷さん、宮尾の元へ、連れて行ってください……お願いです」
「元より、そのつもりだ。幸いにも、君には大きな損傷はないからね、車椅子での移動を許可しよう。それじゃ、行こう。……ああ、中原さんは部屋に戻ってくれ。あそこは大人数では入れないんだ。すまないね」
「……了解です。無事を、祈ります」
待っていてくれ、宮尾。今度こそ、俺はお前を助ける。絶対に。
宮尾が眠る場所は、岬と同じ六階にあった。しかし、岬とは大きく異なることがあった。岬がいる場所は、一般病棟。宮尾がいるのは、精神科病棟だった。
「な、何で精神科病棟へ……宮尾は、精神疾患では……」
「いや、ミイラ化していた遺体との同居。それに架空の弟を作り上げる妄想……それに、今回の事件の猟奇性。全てを鑑みたら、誰がどう考えても精神疾患がある患者だよ」
言われてみれば、確かにそうかもしれないが……あんなに、普通に会話が出来ていたのに、あんなに、屈託のない可愛い笑顔を向けていたのに……そんな宮尾が、精神疾患だと断定されるなんて、到底受け入れられなかった。
「君も、そういう差別をしないでくれ。患者というのは、患っているのが、精神なのか、消化器なのか、それとも泌尿器なのか……ただそれだけの違いしかない。どんな患者でも平等に、対等に接するべきだ」
森谷は厳しい表情で俺へ言葉を投げかける。以前、中原が指摘されていたことと同じものだ……患者に区別などない。そうだ、精神疾患があるからといって、宮尾が宮尾でなくなるということではない。彼女は、彼女だ。
「……すみません、取り乱しました。それで、宮尾は……」
「ここだ、この部屋に彼女はいる」
他の病棟とは明らかに異なる、重そうな扉。ドアの小窓には鉄格子が取り付けられ、いかに精神の病が難しいものかということを物語っている。
そんな重厚なドアに手を掛け、森谷は躊躇することなく開けた。
「さぁ、入るよ。宮尾さーん、入りますからねー」
最低限の礼儀である入室の挨拶だったが、森谷の声は少しばかり大きかったようだ。その声に中てられ、周囲の病室から叫び声が次々に発せられていく。さながら、全員がエキストラで譜面を渡されたばかりのオーケストラのように。
「あ、ああしまった……すまないね、高島くん。ちょっと落ち着かせてくるから、中に入っていてくれ!」
バタバタと、俺を残して部屋を去っていく森谷。仕方なしに、俺は繋がれた点滴台を引きずりながら、慣れない車椅子を操作し、ベッドの横へと辿り着いた。
俺よりも多くの管が、彼女の寝ているであろうベッドへと集約されている。彼女は、ここにいる。そして、少し体を浮かせて、ベッドに横たわる彼女を覗き込んだ。
「っ……!?」
俺の双眸へと入り込んだのは、これがあの、俺の好きだったあの子なのか、と疑うくらいに、ひどい状態であった。
瞼は落ち込み、頬は痩け、唇は荒れている。いつもきれいに整えられていた髪も乱れ、もはや、これで生きているのかと疑うほどに、彼女は変わり果てていた。
通常ならば、絶食していたとしても二、三日でここまでは変化しないだろう。しかし、彼女にはそれに加えて精神的なストレスがあった。強烈な、意識を失うほどの。それが、彼女の変貌へと寄与していたことは、疑いようのないことだった。
「み……みや……」
震える腕を伸ばし、彼女の肌に触れる。まだ温もりは感じるが、あの優しい温もりではない。ただ、体温を感じるだけだった。
「宮尾……ごめん……本当に、ごめん……」
これが、俺の選んだ道の果てだった。彼女を、罪を償うようにと突き放した結果……生きる希望を失い、ただ生きているだけの屍と成り果てさせてしまった。
俺の選択は、道義的にも倫理的にも正しいものだった。ただ一つ、俺が死を選んでしまったこと……それだけが唯一の失策で、取り返しのつかない現実を生み出してしまったのだ。
「ああ……あああ……」
罪に耐えられなかったのは、宮尾ではない。俺だ。
罪から逃れようとした卑怯者は、俺だ。
あの場で、ああしなければ、中原は死んでいたかもしれない。でも、方法はあったかもしれないのだ。それを考えることを放棄し、短絡的な、そして自分が一番楽な方法を選んでしまった。
しかし今、彼女に、俺は何て声を掛けたらいい。罪を償え、と偉そうに言っておきながら、自分はその罪から逃げ出した、そんな俺が、彼女に何を語り掛ければよいのだ。
突き放してしまった事実を、彼女は覚えているだろう。守ると言った矢先に、俺は彼女の手を振り払ったのだ。そんな俺が、どうして彼女を目覚めさせられるというのか。
目を覚ましたところで、彼女はまた狂気を繰り返すだろう。しかも、好きな人に裏切られた、という事実も重なるのだ。そうなってしまえば、もはや彼女は誰にも止められない。ここで死を待つ以外に、彼女を救う手立てがない。
「俺は……なんて浅はかで……無力なんだ……」
どうしたら、彼女を救えるのだろう。俺の大好きな彼女を……一番に守りたかったこの女の子を……どうしたら……。
「いやぁ、すまない……うっかりして……」
やれやれ、と頭を掻きながら何食わぬ顔で病室へと足を踏み入れる森谷。しかし、俺が一向に宮尾へと声を掛ける様子がないことに驚き、固まった。
「なに、してるんだ……早く声をかけてあげなさい! そんな悲しんでいる場合では……」
「声を掛けて、どうするんですか……また、宮尾は……この手を……温かくて、優しい手を……血で染めてしまう……それなのに、どうして……」
もう、俺にはどうすることもできない。彼女を、これ以上苦しませる訳にもいかない。好きだから……大好きだからこそ、苦しむ顔なんか見たくない。このまま、永遠の眠りにつかせてあげる方が、彼女には……。
肩を震わせ、小さく泣く俺に無言で近づく森谷。そして、勢いよく俺の顔面を殴り飛ばした。
「痛っ!?」
体勢を崩し、車椅子ごと倒れそうになる。すんでのところでバランスを保ち直し、突然の暴力をふるった森谷を見上げる。
彼は、泣いていた。悲しみと、怒りのこもった様子で、唇を震わせている。
「俺たち医者にはなぁ……老人だろうが、少年だろうが、聖人だろうが、罪人だろうが関係ないんだよ! みんな、一つの命なんだ! それを全力で救うんだよ! 救った先に、何があるかは分からない。それこそ、助けた瞬間に、その患者に殺される人だっているかもしれない。でも、それでも俺たちは救い続けるんだ。……生きているからだ。生きているから、それを全力で応援するんだよ、それが医者……いや、同じ人間として当たり前のことだろうが!!」
そして、森谷は俺の両肩を力強く握った。痛いくらいに、強く。
「今、俺たちには何もできない。この子を救えるのは、お前しかいないんだ。だったら、救って見せろよ。またこの子が暴れそうになったら、その時に考えればいいんだ。その時に、守ってやれよ。それが男だろ。違うか?」
そうだ……何を弱気になっていたんだ。俺が宮尾を助ける権利はない? いや違う。またこの手を血で染めてしまうことを恐れたんだ。言い訳をして、ただ逃げようとしたんだ。俺のせいじゃない、俺は悪くない、そういって誤魔化そうと……。
でも、もう迷わない。森谷が言うように、彼らには出来ないことが俺には出来るんだ。だったら、全力でやるしかない。覚悟を決めろ、俺!
「……はい、すみませんでした。もう、迷いません」
「よし、声を掛け続けろ。脳波に動きが出るまで、何度もだ!」
そして車椅子を降り、宮尾の耳元にまで近づく。足元が覚束ないが、そんなことは関係ない。俺は、ただ全力で呼びかけた。
「宮尾! 宮尾―!! 起きろ、起きるんだ!!」
すぐそばのモニターに目を移す。しかし、大きな反応はない。もちろん、一回で諦めるつもりなど毛頭ない。
「宮尾―!! 俺だ、聞こえるか!! 宮尾―!!!」
まだ数語だというのに、もう酸欠状態となり、朦朧としてくる。無理もない、二日ほど寝ていたのだから。しかし、それでも俺は力の限り声を掛け続けた。
「起きてくれ、宮尾―!!!! 俺は、生きてるぞ!!!! お前も生きてる、だから、起きろ!!!!!」
すると――――
「ん?」
森谷が、モニターを見ながら声を上げた。その声に反応し、俺は彼の方を見る。その瞬間、脚から力が抜け、崩れるように俺はその場に倒れ込んだ。腕に繋がれた点滴の管が、その勢いによって抜け、鋭い痛みが襲う。
「痛っ……!」
「お、おい大丈夫か!?」
慌てて森谷が俺の元へと駆け寄り、体を支えながら車椅子へと誘導する。さすがにそこは医師だ、素早い動きに思わず感動してしまった。しかし、そんなことより……
「だ、大丈夫です……それより、何かあったんですか?」
そうだ、モニターを見ていた森谷の反応……あれのせいで、俺はバランスを崩して転倒したのだ。きっと、何か変化があったに違いない。
「あ、ああ。喜んでくれ、モニターに反応が――――」
森谷が嬉しそうに話し始めた、その時だった。
「う……うぅ……」
呻くような声……少し嗄れているが、これは間違いなく……
「宮尾……宮尾!!」
宮尾の声だ。聞き間違えようのない、可愛らしいあの声。意識が、戻ったのだ。覚醒に至っているかどうかは分からないが、少なくともこれで、危機は脱したはずだ。
安堵したのと同時に、体中に痛みが走る。しかし、その痛みすら今は心地よく感じていた。生きていることの喜び……それを噛み締めながら、自然と零れ落ちる涙を拭う。
「うん、この様子なら……大丈夫だ、脳波は正常に戻った。彼女は助かったんだ。君のお陰で、生き返ったんだよ!」
改めてモニターを確認した森谷は、俺を励ますかのように声を掛ける。俺は、その言葉に小さく頷き返した。
すると、その騒々しさに反応したのか、宮尾がまた声を上げる。
「う、ううん……あ、あれ……ここ……」
「お、目を覚ましたのかな? 聞こえるかい、宮尾さん?」
車椅子に腰かけた俺には見えないが、恐らく宮尾は目を開けたようだ。それに対し、森谷が優しく声を掛けている。
危機を脱したばかりか、覚醒まで果たせた……あの時、俺が諦めていたら、もしかすると叶わなかったことかもしれない。ゾッとするのと同時に、正しい選択だったのだ、と再び胸を撫でおろす。
しかし、大変なのはこれからだ。もし、目覚めた宮尾がまだ狂気を孕んでいた場合……どうにかしてでも止めなければならない。今は体力も気力もない状態であるから、暴れることはないだろうが……近いうちに、その問題が生じてくるはずだ。その時は……俺も、覚悟を決めよう。
そう、俺が考えている時だった。
「……なん、だって? 宮尾さん、もう一度、いいかい?」
宮尾に話しかけている森谷の様子が、どうにもおかしい。優しく声を掛けていたはずが、やや強めの口調になっていたのだ。
その様子を、首を傾げつつ耳を澄ませる。どうして森谷はそんな反応を示しているのだろう……その答えが知りたかったのだ。
その答えは、すぐに返って来た。弱々しい声であったが……その衝撃は、俺の頭を真っ白にするほど、強烈なものであった。
「宮尾……って、誰? あなたは……誰?」
記憶を失ってしまった宮尾。それに対し高島は……




