第36章 決して離れない 恋に酔う
決着編、最後です。
「お、おい……何の冗談だ? そんな……そんなはずは……」
俺がこんなにも動揺しているのは、宮尾が米村を蹴り上げ、銃を奪い取ったという事実に対してではない。彼女の、決着を付けようという言葉……それはつまり、宮尾 藤花がこの事件の犯人であった、ということを意味する言葉を聞いたからなのだ。
あり得ない。そんなこと……虫一匹も殺せそうもない宮尾が……あんなに凄惨な事件を起こすなんて……。
「……冗談だったら……どんなに良かったのかな。私は……」
言葉に詰まり、浮かべていた笑みを消す宮尾。俯き、その目は前髪により隠される。
「私は、こいつに……お父さんと弟を、殺されたの。私の目の前で……そこにある銃で……」
米村が、宮尾の父親と弟を殺害した……? どうしてそんなことを……そもそも、そうだとすれば宮尾と米村は、いつそんな関係になったというのか。
「始まりは、あの代々木駅の事件を見た後……警察署で聴取されている時のことだった。私を聴取したのは、こいつなの」
震える腕で、床に転がる遺体を指さす。また稲光が部屋を包み、その顔が映し出される。俺には不思議と、その表情は安らかであるように見えた。
「それで……私が警察署から帰った後だったかな。こいつから電話が来て……高島 春来と知り合いなのか、と聞かれたの。何も疑うことなく、私は、そうだと答えた……そうしたら、こいつは……」
ギリッと、奥歯を噛み締める音が響く。それは、強く窓に打ち付ける雨音にも負けないほどの怨嗟が込められていた。
「俺の計画に従え。さもなければ、お前の父親と弟は死ぬことになる……そう言ったの」
俺の計画……正確には、あの組織で米村の上司に当たる存在による計画だと思われるが、宮尾はそれに加担しろと脅されていた、そういうことになる。
「それを、お前は受けたのか? 何でそんなこと……」
「何で……?」
俺の言葉に、宮尾は顔を上げる。そして、強い怒りを込めて、俺を睨み付ける。
「私の個人情報から生い立ちまで、何もかも、こいつは知っていた……ううん、違う……私が全部、喋っちゃったことなの。お父さんのことも、弟のことも。それを利用されて脅されたの……だったら、従うしかないじゃない! 全部、私のせいなんだから!」
わなわなと体を震わせ、金切り声を上げる宮尾。その剣幕に、思わず俺は身を竦ませる。
「だから、ハルとちーちゃんを食堂に呼び寄せて、事件を追うように提案したの。それが、こいつの計画だったから……」
そうして、宮尾はこの一連の事件に加担するようになったということか。10年前のあの事件の関係者である俺を巻き込み続け、殺すために。
思えば、渡辺の事件の時……あの病院で起きた騒ぎを、俺たちに伝えたのは宮尾だ。それに、鈴石……いや、実際は井上という別人だったが、あれを見たと言っていたのも、宮尾だった。実際に監視カメラには井上が映っていたのだが……あんなもの、もうデータが存在していない以上、偽物だという確証は得られない。
俺のアパートの前で、宮尾が鈴石とぶつかったという話も、恐らく嘘だ。あのボールペンは、米村から預かったものだったのだろう。そもそも、ぶつかった衝撃でボールペンだけを落とすなど、理屈的ではない。しかし、あの時は気が動転して、冷静に考えられなかったのだ。
そして、村田の事件……村田に電子タバコの使い方を教えていたのは宮尾だ。そこで、仕掛けられた爆発物を起動させれば、彼に全く気付かれずに殺害が可能なのだ。それに、あれだけの爆発を至近距離で受けたにも関わらず、宮尾は瞼の上を切る程度の怪我で済んでいた。つまり、爆発することを知っていて、防御姿勢を取っていたのだ。
そうだ、そうすれば全て、辻褄が合う。米村の行動を宮尾がサポートし、最終的に俺を殺すために誘導した。見事にその策は当たり、こうして俺は死ぬところだったのだ。しかし、最後には宮尾が裏切り、米村の前へと立ちはだかった。そして、彼はどういう訳か、自分で自分の胸を突き刺した。最後の最後に、彼は自我を取り戻したのかもしれない。今となっては議論のしようのないことであるが、俺は生き残ったのだ。
しかし、そうであるならば、これで事件は終わったはずなのだ。ならば何故、俺は決着を付けなければならないのか。しかも、事件に利用されていた宮尾を相手に。
「そうだとしても、もう事件は終わった……もう、宮尾を脅す相手はいないんだ。だったら……」
「ううん、違うよ、ハル」
諭すように話しかけるも、宮尾は首を振り、俺の言葉を拒絶する。怒りの色は消え、代わりに悲しみの色が目に映っている。
「渋谷でお買い物した時のこと、覚えてる? あの前の日にね……私のお父さんと弟は、殺されたの。私の目の前で、その銃で……」
「え……」
渋谷での買い物……というと、胡桃たちと遊んだ日のことだろうか。だとすれば、8月28日……その時点で、宮尾の父親と弟は、殺されていた? 計画への協力を仰いでおきながら、即座に反故にしたというのか。
理屈が分からない。すでに役目を終えた、と判断され切り捨てられたとも思えなくはないが、そうだとすれば、宮尾自身も殺されて然るべきだ。なのに、なぜ宮尾は生きて、しかも事件に加担していたというのか。
「もちろん、私も殺されそうになった。でもね、私は生きるために……ううん、決着を付けるために、事件へ協力したいって、こいつに提案したの」
生き残るための足掻きとして、彼に付き従ったわけではない。ただ、決着を付けるためだけに、彼の計画へ加担したというのか。そうであれば……。
「……ま、まさか、その決着って……」
「そう……復讐するため。お父さんを……弟を殺した、こいつを自分の手で殺すこと。そして……」
スッと、俺へ投げ渡した拳銃を指さした。
「ハルに、私を殺させること。それが、苦し紛れに考え付いた、私なりのけじめ。……さぁ、ハル。私を、その銃で撃ち殺して。私を、この絶望から救って!」
両腕を広げ、全てを受け入れるかのように笑顔を向ける宮尾。その眦から、一筋の光が零れ落ちる。彼女の心にはもう、その罪科を受け入れるだけの余裕がないのだ。
不可抗力とはいえ、殺人に加担し、大切な家族を殺され、そして復讐のために米村を殺した……それは到底、普通の女の子が許容できる苦痛ではなかった。
「……何で……」
俺の全身は震え、まともに動くことすらできない。それでも、力の限りを振り絞って動き出す。床に飛び散った血液の、ヌルリとした感触が手に伝わる。しかし、今はそんなことはどうだっていい。
俺の想いを、ちゃんと口にしなければ。
「何でそんなに簡単に、殺して、なんて言うんだよ……そんなの……嫌に決まってるだろ……」
「え……」
俺は、何とか立ち上がった。まだ足は震えているし、手にもロクに力は入らない。だが、この口だけは自由に動く。それに、頭もきちんと働いている。
俺の心を癒してくれた、いつも傍に寄り添い助けてくれた、俺を絶望の淵から救い上げてくれた、宮尾 藤花。そんな彼女が、絶望に震え、死を願っているのだ。そんなこと、させてたまるものか。
俺は、ずっと抱いていたこの気持ちを、まっすぐ彼女に伝えた。飾ることも無く、シンプルに、そして精いっぱいの力を込めて。
「俺を救ってくれた大事な人を……俺の命の恩人を……俺の、大好きな人を……!! 殺すなんて出来るか!! 今度は、俺が守る番だ!!」
出せる限りの力で出し切った言葉に、宮尾は広げていた両腕を下ろし、目を丸くしてこちらを見つめている。
そして、俺はまっすぐに彼女を見つめ返し、手を差し伸べる。
「お前を、絶望から救ってやる。一生かけて……いや、死んでも、お前を守り続ける。お前のその罪を、俺も一緒に背負ってやる。だから……だから死ぬな」
「ハル……それって……」
こんな事態を想像していなかったのだろう。宮尾は気が動転したように狼狽え、頬を赤く染める。外はいつの間にか黒雲が過ぎ去ったようで、窓からは陽の光が降り注いでいる。まるで、俺たちの出立を祝福するかのように。
「好きだ、宮尾。こんな俺だけど……守られて、くれるか?」
「ハ……ハル……うん、もちろん……もちろんだよ!」
彼女の目からは大粒の涙が溢れだし、床の緋色を薄くしていく。小さく嗚咽を上げながら、宮尾は俺の差し出した手へ向け、そっと手を伸ばす。
しかし――――
バタン、と大きな物音が俺の背後から聞こえてきたのだ。想定外の物音に、俺はビクッと体を反応させ、伸ばしていた腕を引っ込め、振り返った。
「ま、待て! 待ってくれ、高島くん!!」
息を切らせて飛び込んできたのは、中原だった。余程、慌てていたのだろう。先ほどの大雨により泥濘んだ地面に足を滑らせたのか、彼女の衣服には泥が付着していた。また、右肩の辺りも負傷したようで、少し庇いながらこちらへと歩みを進めてくる。
「あ、ああ……中原さんですか。事件はもう―――――」
「少し下がってくれ」
不意に、中原により首根っこを掴まれ、宮尾から遠ざけられる。危うく転倒しそうになったが、何とか踏み止まることが出来た。
「な、なにをするん……」
中原の暴挙に抗議をしようとしたとき、チラリと彼女の横顔が目に映った。それは、警察官としての彼女の顔だった。一切の虚偽を認めさせないような、そんな迫力を感じ、俺は出しかけた言葉を喉の奥へと無理やり引っ込める。
仕事モードの彼女の様子に、宮尾もおどおどとしながら対峙している。とはいえ、宮尾にとって大事な思い出となり得た場面に、横やりを入れられたのだ。当然のことながら、彼女も負けじと睨み返す。
「な、なんでしょうか。私、ちゃんと罪は負うつもりです。そこから逃げようだなんて思って――――」
「今は、そのことじゃない」
ふぅ、と中原は小さく息を吐いた。
そのことじゃない、ということはどういうことなのだろう。中原にとっても、宮尾が事件に加担していたなどという事実は、まだ伝えていない。盗聴器が付けられていたとしても、こんな風に乗り込んでくる必要はないはずなのだ。
すると、中原は信じられないことを口にした。
「宮尾さん、あなた……鈴石 初穂の娘、なんですってね」
「っ!?」
その言葉を聞き、一瞬にして青ざめる宮尾。その様子から、もう答えなど聞く必要はなかった。それほどまでに彼女は動揺し、視線を動かしている。
「な、何のことですか……私は、鈴石なんて人……」
「岬 一雪さんから情報をいただきました。いえ、正確に言えば、その情報を聞いた胡桃ちゃんから、ですが」
一雪が、どうして宮尾のことを……いや待てよ、確か宮尾と岬は幼馴染だったはず。少なくとも、小学校は同じだったと聞いている。そうであれば、まだ岬に対して愛情を注いでいた一雪が、宮尾のこと、それにその家族のことを知らないはずがないのだ。
それに、岬の母親は鈴石と同じ大学で、しかも同じ研究室に所属していた。それに『エンドラーゼ』開発の際も、共同研究を行なっていたはずだ。そんな二人なのだ、私的な交流が一切ないとは言い切れない。
そうであれば、一雪から得られた情報は、かなりの確率で真実であると言える。それに加えて、冷静に情報を分析できる胡桃が、わざわざ電話で中原に伝達したのだ。その意味は、考えるまでもない。
「もちろん、戸籍上の血縁関係はないし、結婚していた訳ではないけど……育てられたという事実は確認済みなの。それでも否定する?」
「……」
無言のまま、爪を齧る宮尾。否定する様子がないことを確認すると、さらに中原は話を続ける。
「ついでに言えば、あなたの父親の遺体が、自宅から発見されたそうよ。もちろん、あなたの住む自宅のこと。しかもその遺体、すでにミイラ化していたようなんだけど……これはどういうことなのかしら?」
「なっ……!?」
宮尾の父親は、彼女の話では米村によって銃殺されたという。それが確か、8月28日……それも今年の、だ。炎天下で放置されて、全身が早く乾燥した……などということはないだろう。もし米村が殺害したのであれば、そもそも遺体など残さないだろう。
それに、ミイラ化する、ということはかなり長期間、内臓状態などが保持されたまま放置されていなけばいけない。薬品を使うにしても、一般の大学生が行えるようなことではない。
つまり、米村に銃殺された、という話は、宮尾による嘘。
「で、では……彼女の弟は、どこに? 宮尾の話では、銃殺されたって……」
「弟?」
質問を投げかける俺に対し、顔を向けることも無く、中原は怪訝な声色で返す。
「弟って……宮尾さんの? いないわよ、そんな子」
「……え?」
宮尾の弟……宮尾 藤也は、いない?
そんなはずはない、確かに連れ子だという話であったが、再婚しているという話だし、岬もそんなことを言っていたのだ。実際に会ったことはないが、それも嘘だというのか?
すると、中原は呟くような、小さな声で言った。微かにだが、声が震えているようだ。
「……胡桃ちゃんの話では、10年前、鈴石が死んだとき……彼女は妊娠をしていたらしいって……もし、その子が産まれていたとすれば……でも、それって……」
その話が事実だったとすれば、宮尾の行動はあまりにも常軌を逸している。架空の存在である弟を、あたかも実在しているかのように振舞っていたのだ。しかも、それはここ数日の話ではない。少なくとも、俺と出会う前から行われていたということになる。いくら何でも、それは異常だ。
「み、宮尾……どうなんだ。やっくんは……」
恐る恐る、俯いた宮尾へと声を掛ける。ガリ、と爪を噛む音が大きくなり、その指からは鮮血が零れ始めていた。
「ああ……もう……」
はぁー、と長いため息の後、宮尾は顔を上げた。そして、徐にポケットの中を漁ったかと思うと、宮尾は取り出した何かを、中原に向けた。
拳銃――――。しかも、先ほど宮尾が放り投げ、床に落ちたままになっているものと、同系統のものだ。
そして、銃口を中原に向け、苦々しい表情で、それに今まで聞いたことも無いくらいに低いトーンで彼女は言い放った。
「死ねよ」
瞬間、宮尾から放たれた弾丸は中原の右肩辺りを突き抜けていった。突き抜けた弾丸は、俺の横を通過し、玄関の壁まで到達したようだ。背後から小さな破裂音が聞こえる。
「ぐっ……!?」
不意を突かれ、全く反応のできなった中原は、その場に座り込む。幸い、致命傷となるような部位を貫いてはいないようだが、後ろからでも分かるくらいに、かなりの出血をしている。
そんな中原の様子を見て、宮尾は小さくほくそ笑んだ。
「あーあ、余計なことをベラベラと言うから。……さてと、右肩じゃ死なないもんね。次は……頭か、心臓かな?」
そう言って、宮尾はまた座り込んだ中原に銃口を向ける。その目は、俺の知っている彼女ではない。殺人鬼の目だった。このままでは、彼女は殺されてしまう。
「や、やめろ、宮尾!」
咄嗟に、中原の前へと踊り出る。普段の状況ならば、脚が竦んで動けもしなかっただろう。しかし、もう恐怖することに慣れてしまったかのように、俺の脚は自由に動けたのだ。
立ち塞がるように前に出てきた俺を見て、宮尾は静かに俯き、口を開いた。
「……どうして? どうしてその女を庇うの! 私とハルを引き離そうとする悪い人なんだよ! 殺さなきゃ! 殺さなきゃ!!」
ガタガタと震え、銃口が上下左右に激しく動いている。俺の行動に対する悲しみなのか、中原への憎しみなのかは分からない。しかし、そんな状態では弾など当たるはずがない。
「落ち着いてくれ宮尾……俺は、真実を知りたいんだ。なぁ、なんで黙っていたんだ? 鈴石の娘だって……それに、父親のこと、弟のことも、全部……」
さらに拳銃を握る腕が震える。もはや、中原へと狙いを定めている様子ではない。今なら彼女を取り押さえることも出来るかもしれないが、危険であるし、何よりまず、真実を知りたいのだ。
「何でよ……何で、そんなに真実が知りたいの? それを知ったら、ハル……私を愛してくれない……絶対、嫌われちゃう……そんなの、イヤ……絶対にイヤ!!」
「嫌うものか! 誓っていい、絶対に嫌わない! だから、真実を話してほしい。この事件は、一体誰が、何の目的で始めたことなのか……」
俺の強い言葉に押され、宮尾は声を震わせながら聞き返す。
「本当……? 本当に嫌わない?」
「ああ、約束する。だから、お願いだ。それとも、お前は好きな人に嘘を吐くのか?」
「……」
思い悩むかのように口をもごもごと動かし、やがて宮尾は、今にも消え入りそうな声で話し始めた。この事件の真実を……。
「私は……10年前のあの日までは、本当に幸せだった。大好きだったお父さんと、優しいお母さん……血は繋がっていなかったけど、それでも本当のお母さんのように接してくれた、鈴石さんと三人で、とても幸せだった。二人が結婚するって話を聞いて、ああ、ようやく家族になれるんだなぁって、その日は思わず泣いちゃったっけ」
遠い日の記憶。幸せだった日々の追憶……宮尾は、どこか遠くを見るように、虚空を見つめている。
「……弟の話も、その時に聞いて、私はとっても嬉しかった。自分で勝手に、藤也、だなんて名前を付けて……でも……」
でも……その幸せは突如として消え去った。10年前の『エンドラーゼ』の事件により、鈴石は変わり果て、そして、死んだ。
「あの事件以来、お父さんはおかしくなって入院。残された私は、親戚の家に引き取られることになったの。遠くて、誰も知っている人がいない場所へ、ただ一人……」
その話は、俺の過去とほぼ一緒だ。突然、両親を奪われ、住む場所も追われ……彼女も、俺と同じような人生を辿ってきたのだ。
「そこでの生活は、それなりに上手くやれていた。引き取ってくれた親戚の夫婦は優しかったし、私も、現実を受け入れていたから。でも……中学生の頃……あの優しかったおじさんが、急に私の体を触ってくるようになった……イヤだったけど、拒否なんてできなくて……そのうち、お風呂を覗かれるようになって……そして……」
ああ、そうか……そこで歪んだ愛情を受け取ってしまったのか。分かりたくなかった。好きな女の子の、そんな過去……でも、真実を知りたいと言ったのは、紛れもない、この俺だ。耳を塞いではいけない。目を背けてはいけない。ちゃんと、彼女に向き合わないといけないのだ。
「必死に抵抗したわ。怖かったし、痛かったし……無我夢中で、近くにあったもので、おじさんの頭を殴った。何度も、何度も……何度も何度も何度も何度も何度も何度も!!」
語気が荒くなり、最後には叫ぶように声を上げる。その様子を、ただ俺は、ギュッと胸を締め付けられるような思いで、見ているしかなかった。
「……私の初めては……そのおじさんだった。その後のことはよく覚えていないけど……警察の人の話では、おばさんが、おじさんを止めようとして殴り殺した、って。私を庇ってくれたみたいなんだけど……遅いよね。もう、私は穢された後だったんだもん」
虚ろな目つきで、悲し気に俺を見つめる。
「ごめんね、ハル。こんな話を聞かせたくなかった。絶対に言いたくなかった。……でも、しょうがないよね。聞きたかったんだもんね、ハル」
「……」
返す言葉が見つからない。俺とほとんど同じような境遇だったはずの彼女が、こうまで歪んでしまった原因がそれなのだとすれば……男である俺がどんな言葉をかけたところで、彼女を救うことはできないのだから。
「高校生になる頃には、自分で働くこともできたし、お父さんの病状も安定していたから二人で暮らすようになった。その頃になって、私はお父さんから初めて事件の話を聞いたの。『エンドラーゼ』のこと、吉岡や渡辺、そして、あの組織のこと……それで、ちーちゃんやハルと仲良くなろうと思ったの。事件について知るために……」
そして、彼女は復讐をするために準備を進めていた、ということだったのか。幼馴染で鈴石と共同研究していた母を持つ岬と、吉岡の息子である俺に接触し、情報を集めようとしていたのだ。
俺と宮尾との出会いは、偶然ではなかった。意図的に、彼女の印象を強く植え付けようと、覗きをしたのだろう。まんまとそれに引っかかった俺は、彼女の友人となった。全部、彼女の思惑通りだったのだ。
「それでも、あの事件に関する情報は全然得られなかった。増えていくのは、ちーちゃんや、ハルとの思い出ばかり。でも、それが心地よくて……少しずつ、少しずつだけど、復讐しようという気持ちが薄れていった」
俺が宮尾や岬に救われたように、宮尾も、同時に救われつつあったのだ。しかし、現実は異なる。彼女の復讐心は暴走し、この事件を引き起こしてしまったのだ。何か、そのきっかけとなるようなことがあったに違いない。
この時点では、俺はそんな風にしか思っていなかった。しかし、真実は全く異なっていた。
「その代わり……ハルが好きなんだっていう気持ち……それが抑えきれなくなっていた。ハルが好きな料理の勉強をしたり、好みの服を着たり……そこで、藤也も産まれたの」
「え……俺の……?」
俺の好みに合わせた結果、弟が産まれた? どういう意味なのか、全く分からない。他人の子どもを拉致したとでもいうのか?
「ハル、言ったよね。子どもの世話ができる女の人ってカッコいいよな、って。その話を聞いて、私は年の離れた弟を作り上げた。実際に産まれてくるはずだった、哀れな弟を。そういう意味では、藤也は、ハルと私の子、とも言えるのかな……ふふ」
彼女の笑みに、思わず背筋がゾクッとする。狂った愛情を受けた結果、人を愛する方法が歪んでいる。そうとしか思えないのだ。何より彼女には、それが異常だと感じる様子がないのだ。
「その頃からかな、私はちーちゃんの存在を邪魔に感じるようになった。なれなれしく、ハルと話して……抱き着いたりしてた時もあったよね。ずっと笑ってみてたけど、心の中では、やめて、取らないで、ってずっと思ってた。そして、それが少しずつ殺意に変わっていったの」
岬に対する殺意、だって? そんなものを微塵も感じなかったし、宮尾と岬はずっと仲が良くて、羨ましく思うくらいだったというのに……心の底では、憎んでいたというのか。
「そんなとき、部屋を掃除していたら、古いUSBが見つかったの。何だろうって思って開けてみたら、お母さんの研究のデータだった。そして、そのデータを見ていた時だった。急に私のスマホにメールが届いて……知らないアドレスだったんだけど、タイトルが、鈴石さんの研究について、って書いてあったの」
それは恐らく、あの組織からのメールだ。どうやってそんな情報を、しかも、盗聴や盗撮をしていたとしか考えられないような速度で得ているのか。それは全く分からないが、国家、いや世界規模で秘密裏の研究を行なう組織なのだ、その程度のことは朝飯前なのかもしれない。
念のため、分かり切ったことであったが……宮尾へ確認をする。
「それは……あの組織からのメール、だったのか……?」
「そう。お父さんからはその存在を聞いていたから、そこまで驚きはしなかったし……盗聴されていたことは知っていたから。あの組織に関わった人間の行動範囲には、必ず盗聴器が設置されるようになっているそうなの。まぁ、お父さんの妄想だと思っていたけど……事実だった」
だから森谷や米村は、どんな場所であろうとあの組織の情報を語ろうとはしなかったのだろう。それがあのアパートの管理人室であろうと、警察の公用車の中であろうと、だ。
「話を戻すね。……メールには、そのUSBを差し出していただきたい。その代わり、貴女の望むものを差し上げましょう、とだけ。……私の、望むもの……こんなUSBなんて要らなかったし、私の、私の家族を崩壊させた、こんな研究なんて関わりたくもなかったから、すぐにメールに返信したの。その代わり、私は願った。ハルと、一緒にいたい、って……」
そんな組織が叶える願いなんて、きっとロクでもない方法だろうと、そんなことはすぐにでも思いつくはずだった。でも、そうさせなかったのは、彼女の人生を滅茶苦茶にした、あの研究……それと、俺の存在が、そうさせてしまったのだ。
「それで、私はその人と会って、USBと引き換えに、ハルを私のものにする計画を立てた。それが、今回の事件の始まり」
10年前の事件を引き合いにし、俺たちを必然的に事件へと巻き込み、その中で彼女の復讐を果たし、かつ岬を葬り、俺を手にする……。あの組織は、10年前の関係者を一掃できるいい機会であったし、お互いに都合が良かった。
計画は完璧なだった。実際、俺はついさっきまで宮尾を信じ、生涯守り抜くと宣言したのだ。運命に翻弄され、絶望の淵に佇んでいた彼女を救いたいと、俺は心の底から願ったのだ。そこまでは、計画は順調だった。
しかし、最後の最後、イレギュラーな存在であった岬の父親、胡桃、そして中原により、その計画は破綻した。平静を保てなくなった宮尾は、中原を撃ってしまった。それはもう、俺の信頼を失うには充分すぎることだったのだ。
「本当に、順調だったのにな……たくさんの人を殺して、ようやく幸せになれるんだって思ったのに……この女は……」
怒りを思い出したかのように、また中原へと銃口を向け直す。今度は、その手は震えてなどいない。彼女が指一本動かせば、弾は放たれ、中原を貫くだろう。
「待ってくれ、たくさんの人を、って……米村さんが実行犯なんじゃないのか!?」
「違うよ、この人は……監視カメラを加工したり、そういうことしかやってない。ううん、やらせられないの。だって、見てたでしょ? いつ薬の効果が切れるかも分からないような人に、計画通りの行動なんてさせられないよ」
確かに、俺を殺そうとした時のあの反応……あんな不安定な精神状態で、警察官という正義を掲げる人間が殺人を行なえるという保証はない。ということは、この一連の事件は、全て……。
「宮尾が、全員を、その手で……」
「そうだよ? だって、それくらいしないとさ……本当に愛してるんだって気づかないでしょ? いくらアピールしても気づかない、鈍感なハルなんだもん。でも、最後には気づいてくれてよかったな。これからも一緒にいようね」
純真無垢な笑顔を、俺に向ける。
ああ、そうか。俺が、全ての始まりだったのか。世界中で一番、不幸な人間だと信じ込んで、誰からも愛されることはないと卑下していた……これは、そんな俺への、神からの罰なのだ。
「……ごめん、宮尾」
「え……」
唐突な謝罪に、宮尾は表情を強張らせる。
「どうしたの、急に……」
「お前の気持ちに気付いてあげられなくて……ごめん。もっと前から気づいていれば、こんなことにはならなかったんだよな……」
俺の視界が滲む。彼女のまっすぐな想いに、気づいていなかった訳ではない。ただ、こんな俺が愛される訳がない、そんな自意識が産んだ悲劇だった。ちゃんと、けじめはつけないといけない。
「何で謝るの……? そんなの、これからずっと一緒に、私と一緒に乗り越えていけば……」
「ダメだ、宮尾。お前は、ちゃんと罰を受けるべきだ。今まで殺した全員の命を、ちゃんと……」
そんなもの、俺には負いきれない。そんな重すぎる愛は、俺には受け止められない。俺は、宮尾の想いに応えられない。
「だから、ごめん。全部俺のせいだ。だから、俺を撃ってくれ。この事件の原因となった俺を、その手で……」
「イヤ……イヤだよ! 言ったじゃない、守るって! 死んだら守ってくれない! 一緒に背負ってくれるって、約束したじゃない!」
裏切られたかのように、宮尾は強い目つきで俺を睨み付ける。でも、俺はそんな彼女を救えない。救うことはできない。
そんな俺の目を見て、宮尾は全てを悟ったかのように、涙を零し始めた。
「そう……約束、守れないの……だったら、最後は殺し合おう? その銃を拾って、私に向けて?」
「な、ダメだ、高島――――」
「お前は黙れぇ!!」
鋭い破裂音と共に、もう一発の弾丸が中原の左肩に命中する。
「ぐうう!!」
「……邪魔をしないでって言ったでしょ。息ができるだけでもありがたいと思ってよ。それとも死にたいの? だったら先に……」
「待ってくれ宮尾。分かった、すぐ拾うから」
飛び散る中原の血液を微かに浴びつつ、俺はずっと床に転がっていた、米村の拳銃を拾い上げる。一般的な警察官の所持する回転式拳銃……使い方など知らないが、確か、このタイプの拳銃には安全装置はない。だから、何も考えず、ただ引き金を引けばいい。命中率は低いが、殺傷能力の高いものだと聞いたことがある。
「そう、両手でしっかり握ってね。片手で撃てるほど、簡単じゃないから……」
西日が部屋の中へと入っていき、徐々に宮尾の体が照らされていく。きらりと光る銃口をこちらへ向ける彼女は……笑顔だった。止めどなく流れる涙を拭うことなく、かといって震える様子もなく、静かに笑っていた。
「うん……ありがとう。ハルに愛されることが叶わないなら……もう、この世界から消えてしまいたかった。こんなに血に塗れて、穢されて……。だったら、最後くらい……好きな人を目に映しながら、その人に殺されたかったの。ありがとう、ハル……」
「本当に……それが、お前の望み、なのか……?」
微笑む彼女の姿を、もうまともに見ることなんて出来なかった。溢れる想い……彼女に対する贖罪……それを、この弾丸に込めるしかないのか。そんなことでしか、この事件を……彼女を止めることはできないのか。
「お願い、ハル。もう私も、何人も殺しているの。……もう、これ以上、私は生きていけない。だから、壊れる前に……」
「あなたのことが大好きな私のまま、私を終わらせて」
そうか。宮尾は……そういうつもりなのか。いや……最初から、こうなると予測していたのかもしれない。そんな彼女に対して、俺が行なうべきは……銃口を向けることじゃない。
「宮尾……ごめん、本当にごめん」
俺は、手にした拳銃を右手に持ち換え、その銃口を、宮尾へと向けるのではなく、ゆっくりと、自らのこめかみへと当てる。
「そんなに苦しんでいたなんて、知らなかった。本当のお前の望みは、それだったんだな。終わりにしてほしい……それが、お前のたった一つの願いだったんだ」
俺を愛していたのは事実だと思う。それに、一緒に生きたい、ということも本音なのだろう。でも……彼女はそれを望んでいたのではない。
「え……?」
俺の行動に、髪の毛の一本すら固まらせる宮尾。その衝撃で、握られた拳銃を床に落とした。
ゴトン、という鈍い音……思った通り、その拳銃には、もう弾丸は入っていなかった。
「やっぱり……お前は、俺に殺されるために、そんな芝居をしていたんだな。……高校時代からの付き合いなんだぞ? そんなの、バレバレだよ」
彼女が計画していたのは、神に愛されなかった彼女の、壮大なる自殺。愛する者に抱かれて眠るという最期を迎えるため……幸せな人生だったと、胸を張って死ぬための、彼女のエゴが生んだ事件だったのだ。
「嘘、嘘でしょ、ハル……やめて……ねぇ、そんなことやめて。そんな冗談、やめて……!」
そんな俺の行動を、宮尾は止めようと懇願する。しかし、そんな彼女の願いは聞き入れられない。
「動かないでくれ」
思わず駆け寄ろうとする宮尾を、強い口調で制する。
「お前は、殺してしまった人たちやその家族に、ちゃんと償うんだ。その罪を、一生背負って生きていくんだ。それが、お前のするべきことで……俺の願いだ」
「やめて……私から、もう何も奪わないで……生きる意味を与えてくれたあなたを……奪わないで……!!」
彼女の生きる意味……それが、俺を愛することだった。そして、それが狂気へと変貌したのだ。そうであれば、この事件の発端は俺なのだ。俺が、この事件を引き起こしてしまったのだ。だったら、俺もけじめをつけなければならない。彼女の想いに気づかなかった罪……彼女の狂気を止められなかった罪……それを今、この弾丸に込める。
「さようなら、宮尾。俺は、愛されて嬉しかった。……もし次に会うことがあれば、その時は……」
グッと指先に力を込め、引き金を引いた。
「いやあああああ!!!!!!!!」
閑静な住宅街に、小さく響く発砲音。それに続き、幼子のような叫び声がこだまする。そんな音にも、周囲の住人たちは気にかける様子もなく、ただ平和な土曜日の夕方を謳歌している。
こうして、誰にも知られることのない悲惨な事件は、終息したのだ。
そして、何事もなかったかのように世界は動き出す。




