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Godless Chiral  作者: 小欅 サムエ
わたしと、あなたのためのレクイエム
14/48

第13章 二人が交差するとき、現実世界は崩落する

小欅サムエです。語りが長くなり、動きのない場面が続きますが、これも物語のためにかかせない重要な章です。さて、彼らは正常な世界を取り戻せるのでしょうか。

 鈴石 初穂、彼女は俺の両親を殺した、俺にとって因縁の相手。しかし、彼女は俺の両親を殺害後、遺体となって発見されていたと、そう聞いている。その鈴石が、なぜ今になって……そして、なぜ俺を襲おうとしたのか。米村の発言は、にわかに信じがたかった。


「あの、米村さん。彼女は……鈴石はもう死んでいる、そう言いましたよね。それなのに何で、あの女性が鈴石だって言い張るんですか?」


 そうだ、死人は生き返らない。神の子でもあるまいし、ましてや、俺たちが生きているのはゲームなどのファンタジーな世界ではない。2019年、現代の日本なのだ。米村はどこか頭でも打ったか、不眠不休の捜査で疲れすぎているのではないか。


「……そう、彼女は死んでいることになっている。10年前、奇跡堂の研究室内で遺体となって発見された。当時の捜査資料では、それが事実だ」


 事実だ、彼はそう言った。それはつまり、事実であるが真実ではない、そう言いたいのだろうか。即座に中原が反論した。


「待ってください、警察内で不正が行われたと、そう言いたいのですか? それはさすがに暴論だと思います。それに、先輩も見たんでしょう? 彼女の遺体の写真を」

「ああ」


 米村は中原の反論に対し、至極(しごく)冷静に返答をした。


「そうだ、遺体の写真は見た。だが、遺体そのものを見たわけではない。俺は、基本的に見たものしか信用しない。それは、研修時代の君にも何度か言ったはずだが」


 中原が研修を受けた際、米村が彼女の教育係だったということは、先ほど村田とのやり取りの中で知ったことだ。彼らはそれなりの信頼関係にある、しかしそんな彼らの意見が一致していない状況だ。

 ここは、俺が一つ意見をまとめないと。それに俺自身、鈴石が今回の事件に関わっているなんて想像もしたくない。米村の推測、これを論破しなければ俺の精神が持たなくなる可能性だってあるのだ。


「……米村さん、鈴石 初穂があの女性だというなら、俺の質問に答えてもらえますか?」

「……不明な点が多いことは認める。俺にもはっきりしたことは言えないと思うが、それでも良いというなら、続けろ」


 米村は、ふーっと息を吐き、天井を見上げた。どんな質問でも来い、そんな態度のように思えた。そっちがその気なら。


「分かりました。では、まず一つ目。あの女性が鈴石だという根拠は何ですか? 明確に顔が分かるほどの映像は、東京総合国際病院で観た、あの監視カメラの映像だけだったと思います。今回のパン屋の監視カメラでは、ぼやけていて顔がはっきりと見えなかったはずです」


 そう、まずどうして鈴石だと言い切ったのか。しかも、彼は鈴石の親類などの情報を、全て把握していた。まるで、鈴石が今回の事件に関わっているということを、米村は初めから知っていたかのように。俺は、どうしてもそこに違和感があった。


「理由は単純だ。顔が似過ぎていたんだよ。似ている、くらいであればまだ許容できただろう。しかし、あの女と鈴石の顔は、明らかに同一だった。それこそ、双子もしくは姉妹という線を考えるのが自然だ。しかし、例の監視カメラの映像を観た後、俺は彼女の身辺について確認した。その結果は、さっき俺が言った通りだ」

「か、顔が似ているって……今の時代、整形技術や化粧品の開発も進歩していますから、もし鈴石が生きていたとしても、当時の写真のままであるはずがないと思います。それに、10年の歳月は女性の顔を大きく変えます。シワやシミが増えてきますし、皮膚も(たる)んでくるでしょう。それでも、あの女性が鈴石であるという根拠は何ですか?」


 俺は、米村の推測を全く理解できなかった。顔が似ている? そんなことであの女性が鈴石だと言われてしまったら、何も言い返せないじゃないか。主観的にも(はなはだ)だしい。


「勘違いしているようだが、俺の主観で言っているわけじゃない。当時の捜査資料から、鈴石の画像を抽出して昨日の映像と比較をしている。特徴は、90%以上の一致を認めている。画像解析専門のソフトウエアが信頼できないというのであれば、その根拠を逆に聞かせてほしい」


 画像を解析していたのか。しかし、あの監視カメラの映像を発見してから、ほんの数時間もなかったと思うが……その間にそんなことを行っていたのか。そうなればやはり、彼は最初から鈴石を疑っていたということになる。しかし、実際に画像がそう証言するのであるなら、あの女性が鈴石であるという根拠にもなり得るか。


「……いいえ、そこまでしていたのであれば反論しようがありません」

「先輩、よくそんな短い時間で解析できましたね……私には到底できませんよ」


 中原は化物を見るような目をしている。これも信頼関係が()せる技、なのだろうか……いや、彼女の独自性の賜物(たまもの)だろう。普段奔放(ほんぽう)な彼女だから、米村に対しても、村田に対してもあんな態度で許されているのかもしれないな……。


「いや、そもそも俺はあの病院の監視カメラの映像を観たときから、鈴石を疑っていた。何せ、俺が新人の頃に起きた大きな事件の関係者だからな、彼女の遺体の画像は、俺の脳にはっきりと残っている」


 さらに中原は引いている。引くよりも尊敬したほうがいいと思うのだが……いや、今はそれよりも大事なことがある。彼に質問を続けよう。


「それでは、二つ目。彼女が俺を襲った理由について、です。実際、俺にはその理由が何となく思い浮かぶのですが……それは俺の予想通りなのか、聞かせてもらいたいです」


 そう、あの女性が鈴石だと言うのであれば、俺を襲う理由……それはただ一つ。吉岡 拓馬の息子という事実。それ以外に思いつくものはない。


(おおむ)ね、君の思い描く通りだ。彼女があれほどまでに執拗(しつよう)に、君の両親を殺害したんだ。それを考えれば、今もまだ生きている彼らの子孫に対して負の感情を抱くことは間違いない」


 俺の予想通りの回答だった。そう、彼女の産み出した『エンドラーゼ』、あれを根本から否定したのが俺の父親、そして渡辺の二人だ。それを考えれば、鈴石は自分の子どもを、俺の父親と渡辺により殺されたも同然なのだ。そして、その怨敵(おんてき)である息子が、この俺という訳だ。

 自分の子どもを殺されたのだから、相手の子どもも殺す……目には目を、歯には歯を、という理論……いや、思想だ。


「そんな単純なものなんでしょうかね、私にはまだ子どもはいませんけど、そんな感情に至るような気がしませんね」


 冷酷に流す中原。意外だ、と俺は思った。直情的に動くことの多い彼女だ、自分の子どもが殺されたとなれば感情のままに暴れてやる、と言う気がしていたのに。


「そうなのか、お前は意外と無感情なんだな」


 米村が呟いた。俺と中原は思わず吹き出しそうになった。よりによって、米村が他人を無感情と評価するとは。


「あの、先輩。それ、ギャグですよね」


 たまらずツッコミを入れる中原。しかし、当の米村はその発言の意味を理解していないようだった。


「……何だか知らんが、すごくバカにされている気がするのは気のせいか?」

「ええ、気のせいです」


 にっこりと微笑む中原。怪訝(けげん)な表情の米村。彼らのやり取りを見ていると、何だか俺と岬、宮尾のやり取りに似ているような気がした。それは、聞いていてとても気持ちのいいもののように思えた。同級生との会話に似た、人間味を彼ら警察官から感じることになるとは、思ってもみなかった。


「それで、君の質問は以上で終わりかな?」


 米村が不意に尋ねてきた。そうだ、まだ質問は終わりじゃない。聞きたいことがあと一つあるのだ。俺は慌てて、最後の質問を()り出した。


「すみません、三つ目の質問です。あの女性が鈴石だと仮定するとします。では、なぜ彼女が生きているのですか? 中原さんが言うように、警察が不正をした可能性を考えているのですか?」


 この質問に、少しだけ考える時間を取った米村。推測の域を出ていない、そういう雰囲気もあるが、どちらかというと同席している後輩、中原に対し何か遠慮のようなものが感じられた。


「……そうだな、それが一番の疑問点だろう。彼女が生きている、そう仮定をすると、どうしても警察組織に対する信用が消え去るのは明白だ。そもそも、それが警察組織だけの問題であれば、俺は自らマスコミにタレコミを入れていただろうな。しかし、俺は今もそうしていない。その意味を考えてほしい」


 米村は、言葉を選びに選んで、玉虫色とも言えるような解答をした。これには全く納得ができない。それは、中原も同様だった。


「……何に遠慮しているのか知りませんが、先輩の嫌な推測を聞かされている身にもなってくださいよ。せめて、先輩自身の考えを聞かせてください。そうしたら、私たちも考えられますから」


 少し怒り気味の中原。それはそうだ、他人の空似にしては異常な顔の一致、そこまで分かっていて、なぜ生きている理由を言い(よど)むのか。その言葉に、米村は観念したように言った。


「……あくまでも推測だぞ? いいな?」


 心なしか、彼の表情が先ほどよりも暗いものになっていた。しかしそれは、彼自身の感情が表出していたわけではなかった。


「覚えているか、中原。帝都(ていと)大学での事件……いや、覚えていないわけがないよな、あの事件があったから、お前は警察官になったんだからな」

「っ……!?」


 米村の言葉に、中原の顔色が一気に白くなっていく。帝都大学での事件……俺は特に聞き覚えのない事件だったが、彼らには強いインパクトがあったのだろう。


「そうか、高島くんは知らないかもしれないな。いや、知らないのも当然だ。何せ、あれは警察……いや、国から隠蔽(いんぺい)するように指示された事件だからな」


 今、彼は何て言った? 国が、一つの事件を隠すように警察に指示を出した、それが帝都大学での事件だというのか?


「せ、先輩……それ以上は、彼に伝える意味はないと思うんですが!」


 慌てて制止をする中原だったが、米村は呆れたように言い返した。


「だから、俺が言わなかった理由を考えてほしい、そう言ったんだが。それでもお前たちは聞きたがっていただろう? 俺も、覚悟を決めているよ」


 そう言うと、米村は俺に向かって話を続けた。


「一つ言っておく、これは、ゲームや漫画の世界の話なんかじゃない。地球上に実際に存在する組織の話だ」


 地球上に存在する組織、つまりは世界規模の団体ということだろう。世界保健機構(WHO)とか、そういった(たぐい)の連中の話ということか。


「その組織には、はっきりとした名称などはない。ただ、その組織に所属する人間には共通するものがある。それは、科学者……その中でも、特に人類の進化に対する意識の強い連中だということだ」

「は、はぁ……。で、その組織が一体何だというんですか?」


 いきなり世界規模の話をされ、理解が追い付かない。しかも、人類の進化に強い関心のある科学者の団体、それが何だというのか。


「彼らは、人知れず何らかの研究を行っている。医療もそうだが、政治、経済などの分野においても様々な実験を行い、その結果から人類をさらに先のステップへ進化させる方法を探っているんだ。そんな彼らは、先進各国の支持を受けて研究を行っている。しかし、時としてそれが暴走することがあった。それが……」

「……それが、帝都大学での連続殺人事件。被害者は当時、帝都大学に通う大学生だった。その被害者の中に、私の兄がいたんだ」


 不意に話し始めた中原に、米村は驚いたような視線を送った。


「中原、良いのか?」

「ええ、自分で話す方がいいです。その方が、気が楽ですから」


 言葉では気丈(きじょう)に振舞っている中原だったが、顔色は真っ白いままであった。唇も少し、震えているような気がした。


「私の兄は、帝都大学で募集していた、あるアルバイトに参加していたんだ。やることは単純で、ただ密室でヘッドホンとアイマスクを装着して、何かを触らされる、そんなものだったらしい。バラエティ番組でよく見る、箱の中身を当てるゲームみたいだ、なんて兄は言っていたけど」


 ヘッドホンとアイマスクをして、触覚だけの情報で脳波を測定する……そんなことをして、一体何がどうなるというのか……質問をしようとした矢先に、米村が少し口を開いた。


「すまん、口を挟むが……ヘロンの感覚遮断(しゃだん)実験、というものを知っているか?」

「え? ええと、すみません、分かりません」


 ヘロンの感覚遮断(しゃだん)実験……俺はその言葉について、全く聞き覚えは無かった。しかし、その語感だけでも、嫌な予感がした。そして、その予感と言うのは得てして的中するものなのだ。


「そうだろうな、俺も村田先輩から聞いて初めて知ったんだ。その実験は、被験者の視覚、聴覚を奪い、手を拘束したまま、一定の温度でただずっとベッドに寝かせる。その状態でどのくらいの期間、被験者は耐えられるか、というものだ。その結果、被験者は二~三日程度しか耐えられず、その上彼らの精神面に大きな障害をもたらしたという」


 そんな実験を行っていた科学者がいたということに、俺は衝撃を受けた。まるで拷問か何かのようだ。しかし、その話から考えると帝都大学でのアルバイトは、まさにその実験の類だ。短時間とはいえ、少なからず精神面に異常を来す者がいてもおかしくない。


「その性質から、感覚遮断(しゃだん)実験は世界的に禁止されている。あまりにも危険を伴う実験だったことが証明されたんだからな」


 米村は淡々と事実を口にする。そんな彼をよそに、中原は震える唇を噛み締め、追憶を語っていく。


「そう……兄は何も聞かされないまま、世界的に禁止されている感覚遮断(しゃだん)実験に協力していたんだ。そして、事件は起きた。実験中、一部の被験者が錯乱(さくらん)を起こして、その場に置いてあった刃物で次々と被験者を襲っていった。被験者は全員で30人……その内、私の兄を含む23人が死亡、残る6名は重傷を負った。そして、殺人をした被験者は行方不明になったんだ」


 その話だけでも残酷さが窺える。実際には、その大学構内はパニックだっただろうし、23人の死亡者というのも明らかに異常だった。そんな事件の話を、今このタイミングでする、その意味を俺は理解できないほど愚かではなかった。


「まさか、それを主導していたのがその組織だというんですか……?」


 俺は、彼女がすべて話し終える前に聞いた。そこまで聞いていれば、もう結末は見えていたのだ。黙って中原が頷く。俯いたままの彼女の代わりに、米村が話し始めた。


「俺は当時、その事件の事後処理を任された身でな。不思議なことにマスコミの連中は、一切この事件を報道しなかった。当時の俺は疑問でいっぱいだった。なぜこんな大きな事件を報道せず、どうでもいい芸能人の不倫なんかをネタにしているか、そう思ったものだ」

「それが、国の指示だったから、そういうことでしょうか」


 俺は米村に確認した。国の方針で、その事件については闇の中へ。そして残された中原たち関係者遺族は、その名の通り泣き寝入りをせざるを無かった……そういう結末が見えていた。


「そういうことだ。実際に村田先輩から事件の裏を聞かなければ、そんなことを考えもしなかっただろう。しかし、帝都大学で起きた事件は真実だ。それは俺が保証する」


 そうか、その話を聞いてようやく納得できた。過去の帝都大学の事件を起こすような連中が、たった一人の研究者を死亡したことにするなんて造作もないことだ、そう思ったのだ。


「念のため言っておくが、帝都大学の事件は六年前に起きている。君の両親が殺された事件よりも四年ほど遅い。だから、今になってようやく、その組織と鈴石との関係について考えることができたのかもしれない。しかし、こうなるのであれば、もっと早くに言っておけばよかったのかも知れないな……そうすれば、今回の事件に君は巻き込まれずに済んだ可能性もあっただろう。本当に申し訳ない」


 米村は俺に頭を下げた。今回の事件で、彼が鈴石の存在に気づいたのは病院の監視カメラを観た時点だ。その時にはもう既に、宮尾たちと調査をしていたし、自分から巻き込まれに行っていたのだ。彼に頭を下げられる資格が、俺には無いと思った。


「やめてください。それより今は、あの女性が本当に鈴石かどうか、そして、俺を狙っているかどうかの確証を得たいところです。結局のところ、彼女が生きていたというのは米村さんの推測でしかありませんし」


 俺は、精いっぱいの強がりを言った。彼女が生きていて、そして俺を殺そうとしている。それは、俺の心を(むしば)む毒のように、じわじわと実感せざるを得ないものだった。今俺がこうして強がりを言えているのは、彼らなら俺を守ってくれるかもしれない、そんな期待からだった。


「……それはその通りだ、すまない。しかし、確認しておきたいことがある。いいか?」


 米村は一層、真面目な表情で俺を見る。その時だった。


 コンコン


 車の窓がノックされた。振り返る俺と米村。大きな黒い影が、車の横に存在していた。咄嗟(とっさ)に身構える米村だったが、中原が意外な名前を口にした。


「あれ、村田先輩……?」


 大きな黒い影、逆光により遮られていた彼の顔が、ぼんやりと窓に浮かぶ。そう、あの警察署で見た中年警察官……村田がそこに立っていた。窓を開ける中原、そして村田は、窓が開き切る前に話し始めた。


「……おい、なんでまだこんなところにいる。今何時だと思ってやがるんだ」


 その言葉を聞き、米村と中原は同時に時計を見た。午前10時……そう、俺たちがアパートに向けて出発したのが9時。そこから、1時間も路上駐車しながら議論をしていたのだ。


「こいつの住むアパートの大家から連絡があった。まだ来ないが大丈夫なのか、ってな。そんで、不審車の情報がうちに転がってきやがった。まさかと思って焦ってここまで来てみりゃ……」


 ギロリと睨む村田。米村と中原は少し小さくなっていた。彼らにも苦手なものはあるようだ。


「……すみません、議論が白熱してしまいまして」


 米村は包み隠さず、ありのままを答えた。馬鹿正直に答える米村に、絶句する中原。そんな二人の様子を見て、村田は笑い声をあげた。


「はっ、そうかそうか。しかしまあ、路上で意見交換は止めた方がいい。誰が聞いてるのか分かんねぇんだしよ。それに、少しは周りの目を気にしろ」


 米村と中原は、彼の言葉を理解していなかった。俺は、後部座席から見ていたので、その意味が何となく分かった。彼らは、路上駐車をして話し合うほどに仲がいいように見えるのだ。


「……すみません、すぐに出しますので」


 米村は中原に合図をする。中原は、気を取り直して車のエンジンをかけた。


「遅れた理由、何か考えとけよ」


 車が発進する前、村田は俺たちに向かってそう言った。にやりとした笑顔が、なんとも印象的だった。


「これは、君のところの大家は、大層お怒りのようだな……」


 ため息を()く米村。ああ、村田が言わんとしていたことは、そういうことか。大家は、人当たりは良いがすごく真面目な人だ。ゴミの日を少しでも間違えると、怒涛(どとう)の追及が待っているのだ。それは、あのアパートに暮らす住人全員が把握してることだった。そんな人だから、指定した時間に来ないことに、警察相手でも容赦しないのだ。


「そうですね、あの大家さんなら……30分くらいは、多分怒られると思います」

「30分!?」


 中原の顔色が悪くなる。先ほどよりは血色は良いが、それでも血の気が引けていることに変わりはなかった。


「……なるべく早く着くように」


 米村が指示を出す。冷静さを装っているのが、俺にも分かった。


「分かってますよ!」


 もうほとんど喧嘩腰の中原と、無表情の米村と密室に閉じ込められた俺は、しばらく胃の痛い思いをさせられたのだった。









「さて、そろそろ君のアパートかな、確かこの辺だったと……」


 大通りを()れ、小径(こみち)を行く車。俺にとって見慣れた風景が広がるのを感じた。


「あ、そこの角を右です」

「……ここで彼を降ろして、そのまま帰れませんかね」


 中原は、そっと米村を見た。しかし、米村は笑っている。


「お前、本当のバカか? この状況で、彼を一人で帰したと知られたら、その大家と村田先輩、それどころかもっと上層の方たちからお叱りを受けるぞ」


 中原は、その言葉を聞き余計に顔色が悪くなっていた。


「しょうがないですよ、俺も大家さんに説明するので……あれ?」


 苦笑いしながら、彼らのフォローをしようとした矢先だった。見慣れた影が、俺の住むアパートの前に佇んでいた。それを凝視する俺。その様子に気づいた中原は、車を停止させた。


「どうしたのかな、急に」

「いえ、あの、あそこに人影が……」


 俺はアパートの方向を指さした。すると、こちらの様子に気づいたその影が、こちらの方へ走ってくる。女性、それが俺のアパートの前にいた。それは、俺の中の嫌な記憶を呼び起こす。車内に緊張が走った。しかし、その影が近づくにつれ、それが何なのか、はっきりと見えた。


「な、なんだ、宮尾じゃないか……」


 そう、宮尾だった。小走りで、何か慌てたように走ってくる。


「あれ、宮尾ちゃんじゃない。どうしたのかしら、あんなに慌てて」


 中原は、ホッとして胸をなでおろしたようだ。心なしか米村も、少し安堵の表情を浮かべている。俺は、車のドアを開け、走り寄る宮尾に声を掛けた。


「どうしたんだ、こんな早くに」

「あ、ハル! 大変なんだよ、私あの、ロングコートの女の人に会った!」


 ……なんだって? あの女の人、つまり鈴石に会ったというのか!? 同時に降りた米村の表情にも、緊張の色が窺える。


「な、ど、どこで!?」


 その緊張が移り、少し上ずった声で聞き返す。そんなことに意を介さず、宮尾は話を続けた。


「はぁ、はぁ、え、えっとね。ハル、昨日大変だったから、元気づけようと思ってここまで来たの。それで、アパートの前まで来たら、急に女の人が出てきて、ぶつかっちゃったの。それで私、謝ろうと思って前を見たら、ロングコートの女の人が走って逃げていったの」


 ロングコートの女性、その証言だけで、ほぼ無条件に例の女性だというのは分かった。しかし、宮尾は彼女に会っただけで襲われなかった、その事実が頭に残った。そして、彼女は俺の住むアパートの方から出てきた……つまり、また何か仕掛けている可能性が高い。


「高島くん、君はここで待機していろ。君の部屋の様子を見てくる」


 米村は、そう言って駆けだした。また昨日のようなことがあったら、それこそ、俺が確実に命を狙われているという証拠だ。真夏の、もう10時になろうという時間にも関わらず、俺の体は震えていた。あの時の恐怖が蘇る。


「ああ、宮尾ちゃん。ちょうどここに居てくれてよかったよ。危うく、また彼はあの女に会うところだったんだからね」


 車を停めて戻った中原は、宮尾に声を掛けた。


「あ、中原さん。あなたもいたんですね、良かった。……そうだ、さっきぶつかったあの女の人、これを落としていったの」


 中原に何かを手渡す宮尾。中原は、思わず素手(すで)でそれを受け取った。そして、彼女はそれが間違いだったことに気が付いた。


「あ、こ、これ!?」


 中原は目を見開き、そのまま固まってしまった。俺は、彼女の異変に気付き、彼女が受け取ったものを見た。……()()()()()だ、しかも、金色の(めい)まで入っている。


「っ……!?」


 そこで俺は気づいた。そのボールペンに入れられた(めい)、その名前に。


 創業50周年記念品 奇跡堂薬品 研究開発部門

                 鈴石 初穂


弱者に向ける憐憫は、彼らに気づかれてはならない。君が、生き続けたいと思う限り。

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― 新着の感想 ―
[一言] あの女性研究者とロングコートの女性は同一人? そして、アパートはもうヤバイ状態なんでしょうね。 でもボールペンを残すなんて、あからさまに研究者が生きているのを見せつけている感じで、何か裏が…
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