序章 お祭りは彼らの死体から始まる
小欅 サムエと申します。始まりは、こんな猟奇的な事件から。
2019年、東京 ――世界的にも眠らない街として知られる大都会―― その中心地に近い場所に、松山 幸一は住んでいた。
8月10日。猛暑により多くの老人、子どもたちが救急車により搬送されたというニュースを横目にしながら、松山は暗い部屋の中で、一人黙々と絵を描き続けていた。とても高学歴とはいえない大学を卒業し、いわゆる普通のサラリーマンとして10年以上も働き、家庭は持たなかったが本人としては何不自由ない生活を過ごしていた。
そんな彼が、今年の春、無情なる通告を受けることとなった。理由は明かされなかったが、噂話をこっそりと聞く限り、
「あの人、新卒の女の子にセクハラしたんだって」
「飲み会の席でいろいろやらかしたみたいよ」
と、まあ散々な評判であったようだ。
松山は当時、そんなことで……、と怒りと絶望感を覚え、会社に復讐を企てること考えもした。しかし、それこそ昨今のニュースでよく見るような、腹いせでの殺人をした極悪非道の人間となってしまう。
しかも元同僚とやらには、
「あの人はセクハラをしてクビになるような人だった」
とテレビの前で公言されるに違いない。そうなれば生きるすべもない、やめだ。と観念し、彼は現在、絵描きとして生計を立てている。
とはいえ、絵描きといっても過去に美術の授業を受けたことがある程度であり、売れるような絵はほとんどない。失業の穴を、結婚するために貯めていた資金を使いながら、絵を描くことで埋めている。それが彼の現状である。
そんな彼にも、渾身の作品が一枚だけある。これは売り出していないし出すつもりもない。『火刑』と題したその絵には、いつか壮絶に評価される絵になってほしいと夢見ているのだ。
「……ちょっと、散歩でもするか」
そうつぶやくと、真夜中であるというにも関わらず、松山は着の身着のまま、熱帯夜の街に繰り出した。幸いにも、この地域には無防備な中年男性を、金品目的で襲うような輩はそうそう出現しない、比較的平和な地区であった。
近くの公園のベンチに腰掛け、ふと夜空を見上げたとき、声をかけられた。
「後悔していることは、ありますか?」
松山は、その言葉よりも、誰かが自分に対して話しかけている、ということに驚き、言葉を発さずに声の主を見た。
「ああ、あんたか」
知った顔だった。と思う。元の仕事場、だったか、隣近所の人、だったか……よく覚えていないが、この人とは面識があったはずだ。
松山はそんな朧げな記憶を頼りに、素っ気ない返事をした。
「後悔、していますよね?」
「……」
なんでこんなことを聞いてくるのか……。
そういった疑問よりも、松山はふと、会社に復讐をしようとした自分のことを思い出した。復讐をしていたら今よりはマシな人生を送っていたのではないか、と考えた。
でも、それでは意味がないと悟ったはずだ。別の道で大成して、あいつらを。
「後悔なんかしてないよ。今は……アレだけど、絵が売れて、個展とか開いて、それで……」
年甲斐もなく夢物語を訥々と話し始めた松山だったが、不意に話を止められた。
「今のままで、それができますか?」
「……それは」
松山は言葉に詰まった。確かに、画力は当時のクラスで良い方であっただけで、美術大学を出ているわけでもなく、アートスクールに通ったわけでもない。しかも自分の目からしても、大した絵ではないのだ。ただ一つ、『火刑』を除いて。
「望みを叶えてみませんか?」
「……は?」
そいつの突拍子もない言葉に、松山は思わず声を裏返した。
「お前、そんなこと……」
「これ、差し上げます」
反論もさせぬまま、その人はニコりと微笑み、1本の栄養ドリンクのようなものを差し出した。最近、CMで新発売、と銘打っていた、あの製品だ。謳い文句は、その手の商品と対して変わりなかったはずだ。24時間頑張るあなたに、というような。
「あ……あぁ、どうも」
「それでは、絵描き、頑張ってくださいね」
その人はそのまま歩き去った。
妙な違和感を感じた松山だったが、ひっそりと応援してくれている、ということなのだろう、と前向きに捉えた。そしてドリンクを一息に飲み干すと、よしっ、と一息つき自宅へと戻った。
自宅へと戻った松山は、自身の体に起きた妙な変化に気付いた。
「……? あれ、何だろう……やけに……」
そう、やけに体が熱い。
もう夜だというのに、未だ外気温は30℃を超えるこの季節だ。暑さに中てられて体温調節機能がおかしくなっているのかもしれない。
そう思った彼は、火照り続ける体温を下げるため、団扇のような扇げるものを物色する。当たり前のことだが、その日その日を何とか食いつなぐことが出来るような彼だ、クーラーなど使用できるはずがない。それ故に、体温を下げる方法は風を送ることしかないのだ。
「ええ、と……確かこの辺に……」
ブツブツと呟きながら、押入れを捜索する松山。
すると彼の双眸に、ふと、ある絵が映り込んだ。それは、彼自身の渾身の作品である、『火刑』だった。両腕を木に縛り付けられ、火あぶりにされている女性の絵。天へと慟哭する彼女の姿からは、不条理な神への、怒りと嘆きが伝わってくる。彼は、この絵の女性に自分を投影して描いたのだ。
おかしい。
彼は、その異変に気づいた。それというのも、『火刑』だけは何があっても守り抜こうと考えていた彼なのだ。こんな押入れの奥に放り込むようなことなどあり得ない。安物の酒を飲んで酔った際に、間違って押し込んでしまったのだろうか。
「しまった、こんなところに……」
慌てて松山はその絵を引っ張り出し、机の上へと置く。そして、その絵をいつもの定位置……部屋の隅に戻そうとした、その時だった。
「……あ、あれ?」
そこには、『火刑』がすでに存在していた。思わず、目をパチクリとさせる松山。そして、机の上に視線を戻すと、そこには全く異なる絵……売るためだけの、何の魂も入れ込んでいない、ただの駄作が存在していた。
「うーん……疲れてるのかな……」
さすがに自分自身の目を疑い、何度か目を擦ってみる。しかし、現実は変わらなかった。あの駄作が、ただ机の上に置かれている。そして、『火刑』は部屋の隅に鎮座していた。
奇妙過ぎる出来事に、松山はしばらく呆然とする。渾身の作品と、商業用に描いただけの駄作を見間違えるはずがない、そう思った彼は、ある仮説を打ち立てた。
(もしかして、あの『火刑』には幻覚を見せつけるだけの魅力があるのか? ……そうだとすれば、相当な値が付くかもしれない!)
松山は歓喜し、また更に思案を続けた。
(そうだとすれば、もっともっと、あの絵に付加価値を付けたい……もっと、幻覚を見せるだけじゃない、何か強いインパクトを……!)
体の熱さと相まって、もはや正常な思考の出来なくなった彼は、どうしたら『火刑』に付加価値を付けられるか……そのことだけを必死に考えていた。
考えることに夢中になっていた彼は、彼の背後に影が佇んでいることに気づかなかった。彼がその陰の存在に気付いたのは、それが話しかけてきた時のことだった。
「何を、考えているんですか?」
「え? う、うわっ!」
いつの間にか背後に立つその影に驚き、松山は思わず防御姿勢を取りつつも、その声の主を見返す。
先ほど公園で会った、あの人だ。穏やかな微笑みを浮かべるそいつは、戸惑う俺に、さらに話を続ける。
「あなたのその望み、叶えて差し上げます」
「……え、望み……?」
心臓が、異常な鼓動を呈する。望みを叶える……それは、今しがた思い至った、『火刑』への付加価値……それが、出来るというのか。
「で、できるのか……!? あの絵を、もっと有名にできるのか!?」
「ええ、もちろん」
『火刑』に付加価値を与えられる……そうであるなら、願ってもないチャンスだ。この絵に相当な価値が付けば、バカにしてきた連中を見返すことができる。今の惨めな生活から抜け出すことができる。
「頼む……やってくれ! あの絵に、もっと価値を!!」
「……ええ、了解しました」
そう言って、その人物はゆっくりと、松山へと手を差し伸べる。歓喜の表情のまま目を閉じた松山に、その人物は、そっと囁いた。
「さようなら」
一週間後、彼の自宅アパート周辺は騒然となった。変死体が見つかったのだとかで、パトカーのサイレンや、マスコミ、野次馬などにより物々しい雰囲気が立ち込めていた。その変死体の第一発見者はアパートの大家で、隣住人より異臭がするとの連絡を受けて、合鍵を使い部屋に入ったのだそうだ。
変死体は、死後およそ一週間程度経過していると思われるが、損傷が激しく、死因とおおよその死亡時刻程度しかはっきりしない、という鑑識の結果であった。
被害者は、松山 幸一、38歳、この部屋の住人であった。
死因は、全身の熱傷であった。室内で焼かれたような物証はなく、室外で火を点けられたうえで、自宅に運ばれた可能性が高い、と判断された。
また、その焼死体は木に括り付けられ、まるで旧世代の火刑を模しているかの様だった。警察は事件性ありとし、捜査を進めているが、室内に物色された痕跡はなく、被害者は普段人との交流がないことから怨恨の可能性も薄く、古いアパートであったため監視カメラも存在しないことから、捜査は難航している。
その上、焼死体の目前に、おそらく生前に彼が描いたとされる絵『火刑』が飾られていた。その絵と被害者の様子が酷似していることから、自らの作品の付加価値を高めるための自殺ではないか、などと捜査本部内でも意見が出ているとのことだ。
8月15日、今夜の東京の気温は久しぶりに30℃を下回る、と報道された。そのニュースを聞き、安藤 理佐は小さくガッツポーズをした。
安藤はモデル業を行っており、移動の関係もあり東京都心部でマンション暮らしをしている。東京の夏場は蒸し暑く、夜間も空調をつけると肌が乾燥してしまうため同時に加湿器も使用しなければならず、電気代が嵩んでしまう。それに一流モデルではないため、常にアルバイトを掛け持ちしている彼女にとっては、このような些細なニュースも喜びとなるのだ。
彼女は、20歳まで歌手業を行っていた。しかし、歌手としては良いスタイルとルックスだけが売りであり、肝心の歌唱力については平凡であった。
彼女は、所属事務所の社長、マネージャーに相談を持ち掛けたが、CDの売り上げも良好であり、このままの売り方でいく、と断言されてしまった。
彼女にとって、そのことに多少の不満はあったものの、売れていくために、という思いから自身の歌唱力に対する劣等感を封印していた。
しかし、彼女が20歳を迎えたころ、彼女と同じようにスタイル、ルックスの良い歌手が出現した。それに加え、彼女には素晴らしい歌唱力も備わっており、世間では『女神』と称賛されるほどであった。
当然、安藤の仕事は減る一方となり、また以前まではスタイルとルックスでごまかしてきた歌唱力についても、インターネットの掲示板等で叩かれるようになった。所属事務所の社長は、これ以上安藤に金はかけられないと判断し、歌手業を引退させた。
その後の安藤は、雑誌等のモデルへと転身したが、歌手としては良いスタイル、ルックスであったものの、モデルとしては平凡であり、当然仕事は増えなかった。その上、モデル活動をする上での基本的な知識、技能等も身についておらず、撮影では常に怒鳴られ、マネージャーは頭を下げ、という日々の繰り返しであった。
そんな日が続き、昨日にはマネージャーの伊藤に、話を切り出されていた。
「あなたも、今のうちにギリギリの写真集とか出してみても良いんじゃない?」
「私は……」
安藤は、絞り出したように声を出した。
「……まあ、手遅れになる前に、こちらとしても売り方を考えていくから。それに、今のあなたに何ができる? バラエティでも活躍できないでしょ?」
「……」
安藤はかつて、再起をかけてクイズ番組やどっきり番組にも出演した。しかし、クイズ番組では一般人レベルの知識で特に目立つこともなく、どっきりに関しては、どっきりに対し気づかない、という番組潰しとも言えるような対応をしてしまったのだ。
「わかったら、こっちから振る仕事を全力でやりなさい」
「……はい」
このままではいけない、そうは思うが、一度体験したあの輝かしい日々を、どうしても忘れずにいたのだ。
昨日、ちょうどそんな暗い話をしたなかでの、ちょっとした明るいニュース。彼女の気分は少々晴れたようであった。
今日の仕事は……15時から水着撮影、しかも雑誌の表紙になるかもしれないという話も、スタッフの会話越しであるが確認している。
そんなワクワクからか、彼女はいつもより早く目が覚めてしまったのだ。今は、午前6時。飼い犬と散歩に出かけている人たちの姿が、窓越しから確認できた。
「さて、せっかくだしランニングでも……」
ピンポーン
「……?」
呼び鈴が鳴った。妙だ。こんな時間に宅配便が届くことはない。マンションの管理人は、普段よほどでない限り電話を先に入れるはずだ。
マネージャーの伊藤だろうか? そう思い、インターホンの画面を覗いてみた。
「あ、伊藤さんだ」
ドアの向こうに、普段とは異なり機嫌のよい表情を浮かべた女性が立っていた。手には片手でギリギリ持てるサイズの段ボール箱があった。
ほっ、と胸を撫でおろし、安藤は伊藤を招き入れた。
「あら、起きていたのね」
「今日は大事な仕事ですから、気合を入れています!」
同意するかのように、伊藤は笑みを浮かべ、小さな段ボール箱を差し出した。事務所の住所ではあるが、安藤宛の荷物だった。
「これは?」
「ごめんね、一応確認のために開けちゃったけど、ファンからのプレゼントみたいよ。手作りっぽい食べ物は捨てちゃったけど、あとは手紙と既製品の飲み物だし、渡そうと思って」
見ると、理佐ちゃんへ、とやや丸みがかった字の手紙と、瓶の飲み物が入っていた。最近新発売した栄養ドリンクらしいものだった。
以前とは比べものにならないほど落ちぶれてしまった、そんな自分に、ファンレターが届くなんて。
「本当は事務所で渡しても良かったんだけど、今日は大事な日だし、これでモチベーションも上がるかなって」
伊藤は少し照れ臭そうに笑った。安藤は、少し目に涙を浮かべつつ、
「いいえ……本当にありがとう、ぜぇったいに! うまくやります!」
そう答えた。
張り切った安藤は、マネージャーの帰った後、自分自身の今できること、そのすべてをやり切った。ランニング、スキンケアに、もちろんヘアケアも忘れず。
そして、ふと気が付くとすでに時刻は12時に差し掛かろうとしていた。
「あ、そうか……お昼は、と……」
朝食には自家製スムージーを一杯飲んだが、それ以降は何も口にしていなかった安藤は、そろそろ何か栄養を摂らないと、と辺りを見渡す。
するとその目に、伊藤の持ってきた小さな段ボール箱が映った。伊藤は確か、栄養ドリンクが入っていると言っていた。あの箱のサイズからして、恐らく数本分しか入っていないだろうが……今このタイミングで思い出せたのは幸運だ。何しろ、その手の栄養ドリンクは、即時的な栄養補給に長けているのだから。
安藤は段ボール箱を開け、栄養ドリンクと思わしき瓶を取り出す。聞いたことのないメーカーの製品だったが、彼女は特に疑問も持たず、すぐにその栄養ドリンクを飲み干した。これといって特徴のない味だったが、久しぶりの差し入れということもあり、味以上のものを、彼女は感じ取っていた。
「さて、と……ん? 着信……」
安藤のスマホに、着信を知らせる画面が表示される。発信元は、妹のようだ。妹にも、今日は大事な仕事があると伝えていたはずだ。とすれば、恐らくは元気づけようという電話に違いない。
そんな心遣いに、また少しだけ嬉しくなった安藤は、即座にスマホを手に取った。
「もしもし? どうしたのさ、急に」
「急に、じゃないでしょ! 今日大事な仕事だっていってたじゃない。緊張してないかなー、って思って……」
電話口から、妹の優しい声が聞こえてくる。少し心配性な妹だが、真面目で優しく、こんな風に落ちぶれてしまった安藤を、陰ながら支えてきた人物でもあった。
「うん、大丈夫……さっきね、久しぶりに差し入れとファンレターなんか貰っちゃって。緊張とかよりも、むしろ早く仕事に行きたいって、そう思うんだ」
これは、彼女の本心であった。今までは、グラビア撮影なんて、と卑下してきた仕事だったが、こうして応援してくれている人がいる。それは大きなことであった。
「そう……じゃあ、大丈夫だね。何かあったら連絡してね!」
「うん、ありがとう……じゃあね」
本当に、ただ安藤の様子を気遣うだけの電話だった。しかし、それだけ彼女の妹は、今回の仕事の重要性というものを理解してくれているのだろう。
歌で失敗してしまった彼女が、本気で挑むグラビア撮影。それは、今後の芸能界を生き抜くうえで、本当の意味での生死を分ける。これでダメなら、もう引退以外にないのだ。
「この体で、生きていくんだ。もう、これしかないんだ……」
自分に言い聞かせるように、安藤は呟く。心なしか体は熱く火照り、アドレナリンの放出を感じさせる。
そんな気合十分の彼女の耳に、またインターフォンの音が伝わってくる。嬉しい連絡のラッシュにより、すっかり感覚の麻痺してしまった安藤は、来訪者の顔も確認せずにドアを開けてしまった。
「はいはい、どなた……」
そこには、見知らぬ人影があった。硬直する安藤を見て、その人物は微笑み、こう言った。
「お望み、叶えて差し上げましょう」
警察に通報があったのは、都内の某撮影スタジオ。ブライダルからグラビアまで、さまざまなシチュエーションでの撮影が可能なマルチスタジオであった。そのスタジオに、15時ごろ妙な宅配物が届いたのだそうだ。
当日は撮影予定だったモデルが一向に到着せず、スタッフたちはバタバタしており、中身を確認していなかった。ようやく中身を確認したのは、そのモデルが事務所、マネージャーとも連絡を絶っていると確認できた、17時ごろであったとされる。
荷物の中身は、首のない人形、否、人間だった。衣服は身に着けておらず、代わりに水着を着用していた。また、その右手には、理佐ちゃんへ、と書かれた手紙が握りしめられていた。
被害者は、安藤 理佐、25歳。このスタジオでちょうど15時から水着撮影を行う予定だった、モデルである。
遺体には争ったような痕跡もなく、切断部に破損などがないため、非常に鋭い斧か何かで切断された可能性がある、と判断された。
なお、現在も被害者の頭部は見つかっていないため、警察は捜索を行なっている。
次回以降、主人公が登場いたします。