閑話休題
「ただいま」
「おかえり」
「…………」
「どうした?」
「いいえ。」
いつも通り、防犯と『帰ってきた』という自身への確認のために呟いた言葉に、いつもはない返答があって、染野は目を瞬いた。舌の先が痛い。何とか短い言葉を絞り出したけれど、手は震えるし、心臓が、痛い。けれどそれらに不思議なほど不快感がなくて、染野は自身の感情が見えず戸惑った。
あえて言うなら、冬に、寒い屋外から暖かい屋内に入って、体が温まった時の、あの、じんわりとした痛みと震えがとても近いものに思えたけれど、それそのものでは無いのも分かっていた。きぃん、と耳鳴りがした。
入っていくとリビングで、椅子に座り足を組む青年の姿のмаршалがいた。昨日と比べて、そして今朝と比べて、明らかに不機嫌な様子だ。
耳鳴りがうるさい。
「そこに座れ。」
маршалは自分の向かいの椅子を染野に示す。その、怒りの様子が怖かった。それでも言われるがままに、向かい側に座ると、まず、とмаршалが息を吸った。
「お前が希望すれば昨日の件は、記憶処理でなかったことに出来るが、どうする?」
「何故?」
「あまり、良い記憶ではないだろう。」
言われて思わず脇腹をさする。この体には傷一つない、めちゃくちゃにされたのは使い捨ての、作り物の体であり、染野の体ではない。分かってはいても、あの苦痛と感触を思い出す度に吐き気がこみあげる。込み上げる、がそれは消しさりたいほど強烈な不快感ではない。
「別に。それに失態を忘れては、後に活かせません。」
「失態?」
「ええ、読みが甘かったです。爆弾に気づかれない前提での特攻でした。まさかあんなに早く対応されるなんて。」
「……貴様……」
ばん、と机を強く叩かれる。染野が驚いて肩を揺らすと、脅しておいて酷くバツの悪そうな顔をする。
「すまない。」
「いえ、別に」
「代理で戦えと言っておいて、強く言える立場ではないが、俺は別にお前に不必要に傷ついて欲しい訳では無い。」
「あれは、天界で作って頂いた別の肉体ですから、私が傷つく訳ではありません。」
「あの肉体にも痛覚はある。」
「その痛覚を慮るなら、それは随分非合理な感傷です。わざわざ代理の人間の、さらに代理の肉体を提供してまで戦争している自覚はあるんですか?」
むしろ染野が脅しつけるように、低い声で告げる。あの二人を殺せなかったことは失態だと思っている。それを、責められるのはわかる。失望されても仕方ないし、大口を叩いておいて、と怒られるとも思っていた。少なくとも、こんなふうに、意味不明に怒られる言葉想定していないし、何より、理不尽だと感じる。
「すまない。お前は、巫女……魔法少女として適格だ、それは認めよう、だが。」
「なんでしょうか。」
「高々17の娘は、『どうせ自分の体ではない』という理論で命を擲つものではない。」
「擲てると思って、私に声をかけたのでは?」
「これ程とは思わなかった、悪い方に、想定を裏切られた!」
染野にはまるで分からない、маршалがなぜ、何に、怒っているのか、理不尽への困惑に、頭が痛くて仕方がない。
「あなたは、何に怒っているの?」
言ってから、しまった、と思う。人間は自分の発言の意図を理解されないことを好む、余計に、きっと、怒鳴られてしまう。
恐る恐る見上げた先、маршалは、不思議な顔をしていた。怒っている、と言うよりは泣き出す寸前のような。
「それがわからないお前を、魔法少女に選んでしまった自分に怒っているんだ。それから、自分の精神を大切にしないお前に。」
「話は、終わりでしょうか」
耳鳴りがうるさい。それでも染野は話を切り上げようとする。つい、と逸らした視線で時計を見た、午後6時。
「夕食を作ります。」
あぁ、朝食のお礼を言い損ねたな。
そんな、夕方の部屋を窓の向こうで鮮やかな青緑の鱗の蛇が、金の目を爛々と輝かせて見つめていることになど、2人は気づかなかったのだろう。
染野は今朝、お手玉状態のмаршалの毛束に頬を叩かれて目を覚ました、その一つ前の記憶は、内臓をまさぐられたあの時の、あの、いっそ幼い金色の瞳である。目を覚ました染野にмаршалが「おはよう」と言った瞬間、染野は「おかえり」を言われた時と同じ、なんとも言えない不快ではない痛みに襲われた。酷く気遣わしげな様子のお手玉は、「食事は取れるか?」「学校には行けるか?」などと細かく聞いてきた。
その時点で、正直空腹のあまり吐き気がしていて、咄嗟に、まるで子供のように「ご飯食べたい。」などと呟いてしまったのも記憶にあるし、その回答にмаршалが随分嬉しそうに「作っておいた。」と答えて出来たてのベーコンエッグが出てきた時には(このお手玉、食事も作れたのか)と感心したし、普通に美味しかったとも思う。
そのお礼を言う暇もなく登校時間が訪れて、急いで家を出た。ので、帰ってきたら、ちゃんと朝食のお礼を言うつもりだったのだ。
キッチンにたった時、流し台に食器が放置されていないことに気づいた。わざわざ片付けまでしたらしい。
総合的に、現状わかる事としては、彼は「良い人」なのだろう。
頭を軽く振って、料理の支度に取り掛かる。急いだ方がいい。今日は、人に料理を分けに行く日だ。
その人のことを考えると自然、頬が緩む。