6節 その緋色に、あなたは何をご覧になるか
午後5時
託児所でのバイトもどきは3時で終わった。元々кривが監督できる範囲がそこまでであったらしい。その後、染野は。愛しのサンビームヘビ、もといレイモンドの為のラットと水苔を購入してから帰宅した。
「ただいま」
いつも通りに声をかけて部屋に入る。それでも、今日に限っては返答がなかった。帰ってくるのは無音、むしろ、きぃん、と高い耳鳴り。
「маршал?」
いつもならおかえりと返してくれる男の気配がない。訝りながらリビングの扉を開ける。
「ん?おかえり、桜染ちゃん。」
語尾にハートマークでもつきそうな、至極嬉しそうな声で黒髪の男は言った。思わず、冷凍ラットや水苔の入った袋を落とす。がさ、ごと、と言う音が耳障りだ。
男は、レイモンドの水槽の置かれた棚に体を預けて床に座っていた。前に見たような気味の悪い笑顔ではない、妙に優しい笑顔。彼の右腕には、当のレイモンドが這い上がって甘えていた。赤い夕焼けに、きらきら光るレイモンドの鱗、それから、逆光の妙に整った男の、柔い笑顔。
「じーま?」
「覚えとってくれたん?嬉しいなぁ。」
昨日のことが何か、不愉快な夢だったのではないかと思うほど、声も表情も優しく、穏やかだ。けれど間違いなくこの男は、昨日、染野に触れ、脅かしたあの男だ。
「防犯システムを真面目に見直すべきかもしれませんね。」
警察を呼ぶべきか悩む、意味があるのだろうか、この男は、金色の目は染野を見てから、つい、と視線をレイモンドに向けた、ふ、とまた笑う。
「この子、今日はご飯の気分やないって。」
「……そう。」
「そないに怯えんたって、今日はいじめに来たんやない。……おいで、桜染ちゃん。」
にまり、金色の目が三日月になって染野を見る。大きな右手が、レイモンドの喉に触れている。
その意思がこの男にあるかは分からなかったが、この男は、そのつもりになればレイモンドを殺せるのだ。染野は、震える脚を叱咤して男に近づく。
「いい子、右手、貸して?」
ゆっくり持ち上げた染野の右手を捉えて、男はその手の甲に口付ける、喉の奥がく、と締まり指先が痛むほどの緊張を訴えた。
「なぁ桜染ちゃん、明日デートしよ?桜染ちゃんの行きたいとこ連れてったるから」
その手に頬を寄せて、男は甘えるように言う。断りかけて、やはり、男の手に甘えるレイモンドに目がいく。自覚はあるのだろうか、これはほとんど人質、いや蛇質を取って脅しているのと同じだ。
「え、ええ、分かりました……」
視線を合わせずに了承した染野はちり、と指先が痛んだのを感じる。
「絶対やからな?朝九時、迎えに来るわ。」
男は染野の手を離すと、レイモンドを丁寧に水槽に戻してから、する、と、ゾッとするような美しい、鮮やかな青緑の蛇に変じて窓の隙間から外に出た。
染野の右の中指に、小さな蛇の模様を残して。
говорниはなんとも言えない心地で、台所に立つ紗舞と、その様子を観察するウリエルを見た。あの、ウリエルからのささやかな私刑の後、ウリエルはговорникに「紗舞の家で食事をとる約束をした」「そういえば、ウー、と紗舞には名乗ったからそのように呼ぶように」と釘を刺された。「何故」と問えば「魔法少女には親しんで欲しいから」と。
そう言えば、確かにウリエルは純正の天使に較べて、元人間の天使に対しての方が親しんでいたし優しかったようにも思う。その分、なんの期待もしていないらしかったが。
けれど、今自分が眺めている小さな背中は何者だろうと思わず内心で問いかける。говорникの知るウリエルとは厳格で潔癖、優しさ、というのはウリエルを構成する要素には入っていない、とそのように認識していたのに。包丁や火を扱う紗舞に心配そうな眼差しを向け、それを危うげなくこなすことを確認した後は、我が子の成長を喜ぶ親のような穏やかな眼差しで見ている。
何も知らない紗舞は単純に「天使というのは人懐っこいのだねそれともたまたま君たちがそうなのかい」と笑っていたが、それに、ただ小さな微笑を浮かべるウリエルはговорникからしたらひたすらに異様だった。
ウリエルと紗舞と3人でとった食事など初めてこんな砂のような味を感じたものだ。その後も、食事の片付けをする紗舞に暫く付きまとった後、ウリエルは去っていった。
「говорник」
「どうしました、紗舞」
「君、ウーのこと苦手なのかい?」
紗舞はговорникを見上げて首をかしげた。紫色の瞳がゾッとするほど透明で、しばし返答に詰まる。
「……いいえ、私よりはるか高位のお方なので、遠慮が先立つだけですよ。」
「……ふぅん。」
納得した様子ではなく、まだ暫く、奥をのぞき込むように見つめられたが、その視線を紗舞は唐突に、飽きたように切り離した。
「まぁいいさ、君にもウーにも色々、あるということで納得するよ。」