2節 貴方でなくてはならないのです。
ルビふれる機能をやっと理解しました。
「まず、名乗らせてもらおう、おれはмаршалという。」
「まるしゃーる?」
猫のように金髪の毛束で机を撫で付けながらその、お手玉のような生き物は、日本育ちの染野には難解な名を名乗る。そして、ふわりとマリンブルーの目を細めて染野が自分の名前を復唱したのに満足した様子を見せる。およそ、それが名乗った発音からは程遠い、稚拙なものではあったが。
「お前達が言うところの、天使だ。」
「さすがに冒涜では?」
天使、と聞いてまず浮かぶのは麗しい中性的な姿の、大きな翼の生えたヒトの姿をした、それは荘厳な存在である。もちろん、炎そのものであるとか、人から程遠い姿をしているとされるものもあるが、およそ、こんな意味不明で中途半端な姿はしていないだろう。少なくとも、染野の認識においての天使と、目の前の生き物はあまりにかけ離れている。
「この姿は省エネモードだ。これでも俺は神に似た者様を鋳型に創られた純正中の純正の天使だ。冒涜だとのたまう方が冒涜に当たるぞ。」
「じゃあせめて人と話す時くらい、省エネモードを解除してはいかがですか。」
「そう出来ん事情がある。理解しろとは言わないが、とにかく今は理解したことにしてやり過ごせ。まだ本題に入っていない。」
お手玉、もといмаршалはいらだちを顕に、てし、てし、と毛束で机を叩き始める。染野の側から意見するのであれば、その行為こそが苛立ちのもとだ。無論、それを、秀麗な面に表すほど彼女は表情豊かでも、無垢でも、幼くもないだけで。
そもそも本心をいえば、このお手玉などとっと投げ捨てて、愛しのサンビームに与えるラットを解凍したいのだ。それなのになぜ、こんな前置きから気が触れているような話に付き合わねばならないのか。
「ではその本題とやらを、手短にお願いします。」
話だけさせれば満足するかもしれない、なんて淡い期待をかけて、染野はそう言ったのだ。まさか。
「では、端的に。俺の代理となり、魔法少女として戦って欲しい。」
「………………は?」
まさか、ここまで気が触れたことを言われるとは、思ってもみなかったのだ。
染野の困惑、もとい辟易をよそにそのお手玉は、ない無い空間からずるり、と一枚の紙と、それとは別にクリッピングされた紙束を取り出してきた。
「契約書と契約条項だ、軽くでいいから読め。」
「私が受け入れる前提で話を進めるのやめませんか?」
「説明する時間も惜しい、さっさと契約書にサインして条項に目を通せ。」
「どう考えても順番逆ですよね?」
「時間が惜しいと言っただろう。お前、この街に愛着がないのか?」
「話が飛躍し過ぎでは?」
「ではまず、その解説をしよう。」
およそ、お手玉、もといмаршалが言うにはこうだ。
自分たちは古い神々と争っている。古い神々というのは、所謂アメニズム的な、自然概念が神格を得たようなものらしい。人の発展においては、時に自然への敬意が邪魔になる局面がある。そのため、彼らは今の時代に適応しない、正しく古い神々であり、はるか昔に一度、駆逐したらしい。
しかし、やはり元々信仰に頼らない自然神はまだ生まれ直してきて、50年周期ほどで所在を変えながら人に紛れながら、天の主に反抗しているという。そして今、この町に住んでいるという。
「桜井染野。お前のことは事前にある程度調べさせてもらった。」
ぴょん、ぴょん、とмаршалは染野に近づき、その胸元に毛束を差し入れた。困惑して抵抗の意思すらない染野を無視して、毛束は目当てのものを探る。
そして、それを引きずり出す。
アクセサリーと呼ぶには厳かで、豪奢で、そして丁寧に隠されていた、十字架にかけられた男の像を。
「イマドキ、この日本にはことさらに珍しい敬虔なクリスチャンであるお前が、今更、地霊信仰ごときに、いと高きところにあられる我らが主への信仰を脅かされることを許しはしないだろう。」
低い声は、確信を持って染野を脅かす。
彼女が信仰のために、己の命すら擲つ聖女だという確信を持って、その瞳を射抜く。
「……証を。」
「何?」
「あなたに代わり働くことが、主の御心に叶うという証をください。」
「……信頼と疑念は同居できないとも言うし、仕方あるまい。」
染野の小さな手でも握り込めるその存在は、小さな光の粒を呼び寄せるようにまとわりつかせ、その姿を輝きに隠し、光の塊のような極彩色のそれは、とぷり、とでも言おうか、そんな擬音のふさわしい、流動的な変形を見せて膨張する。
染野の手に収まるほどのそれは、気づいた頃には染野より大きくなっていた。そして、液体的な動きを見せていた形が整っていく。ヒトに、よく似た形に。
覆い隠す光の粒の消えた、ソレ、は染野を静かに見すえた。
染野が女子として小柄であることを差し引いても、目の前の男は、そう、目の前のそれは男性だった。女性と見紛うことなどありえない立派な体躯を、厚手のコートでおおった男は、日本人ではあまり見かけない、彫りの深い、彫刻的に整った目鼻立ちをしていた。その肌は白いが、白磁というより大理石めいているし、夕方のオレンジの光に透ける金髪は、きっと編むことなど出来ないほどにつややかな手触りを容易に想像させる。
そして、金のまつ毛に縁取られたマリンブルーの瞳が、真っ直ぐに染野を見ていた。
なるほど、確かに作り物めいた美貌である。しかし。それ以上に染野の目を引いたのは、その背から生える、窮屈そうに畳まれた、彼の身長の2倍はあろうかという長さの、猛禽の翼。
人の想像する天使の姿が、そこにはあった。
「満足したか?」
「ええ、私が、悪魔に誑かされているのでなければ、十分な証です。」
「アレらはそこまで恥知らずではない。そこは安心しろ。……さて、転換措置の媒介は、これでいいか。」
天使は、маршалは、人の子の像に口付けを落とした。
「さて、先程の契約書にサインを。」
これからキリル文字の名前が乱舞するので、頑張って字面とキャラを覚えていただけると嬉しいです。
今回増えた天使はмаршал、でマルシャールです。
ちなみに意味は陸軍元帥、とかそんなニュアンスだったと思います。