惹き夢
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人の肉の味は、羊の肉の味に似ている。
正気に戻って、最初の感想がコレだった。
お世辞にも都会とは言えない佐野。いや、はっきり言おう。ど田舎だ。
夜の九時を過ぎると人影は全く見当たらなく、国道沿いに点々と設置された外灯のおかげで多少の灯りはあるが、建物による灯りが無いため、黒い紙に外灯を貼り付けたような、どこか非現実を思わせる。
田舎には当然の光景だ。
そんな異様な道なのだから、当然、人は滅多に歩かない。歩きたがらない。このようなほぼ真っ暗闇の道を歩いて、もし何か良くない事が起きても誰も助けてはくれないから。
そう、この元女性のように。
運悪くも、この暗い人通りの皆無な道路で俺に遭遇してしまった肉。
今は二の腕、ふくらはぎ、乳房などおいしい部分が食いちぎられた残飯。
顔は食べられる部分が少なそうなので手付かずのままだ。ただし、右目の泣きボクロがチャーミングだったので、そこだけは食いちぎった。
――あぁ、おいしかったなぁ。
だいぶ叫ばれたが、辺りは無人、誰も助けにこない。
だいぶ叫ばれたが、喉を食い破ってあげて、静かになった。
女性を犯す。人を殺す。この二つの背徳感のスパイスがかけられた食事は、俺に腹が膨れる以上の満足を与えた。最中なんかは背中がぞくぞくしっぱなしで、思考は焼き尽くされ、ただただ興奮していた。
「これは病み付きになるな……」
口周りにべっとりと付いたソースを、舌で舐めとり、次の食事を探しに移動する。
お腹はもう張っている。正直もう満腹だ。だが、そんなのは関係ない。
俺は食べたいんだ。
息は荒く、目は血走っているのが分かる。
次の食事はどこだ?
電話越しなのにも関わらず、こちらの鼓膜を心配させる怒声。
クレームの電話に謝り続けて三十分が経とうとしていた。この客の買ったフライトが袋から出す前から歪んでいて、決勝戦の大事な場面でダーツが思ったように飛ばず、優勝を逃したそうだ。
そんなこと俺に言われても、俺はただのバイトだし、この店は卸売りしているだけなのでクレームをつけられる謂われはないのだが、ダーツ店はお得意さんを減らしてはやっていけないので謝るしかない。まるで本当に俺が悪いかのように。
さらに怒鳴られ続けること数分、やっと向こうの気が治まってきたところで、次の来店時にダーツ機を一台貸し切りという提案で落ち着いた。
「誰だったの?」
お疲れ様、というように同じくバイトであるユキがお茶を出してくれた。
「タナカさんだよ。ここの常連の」
「あぁ、あの大してうまくもない…」
「そう、うまくもないんだけど口だけは達者なあいつ。ここで買ったフライトが歪んでいて優勝できませんでした~だってさ。まったく……大事なトーナメントなのに確認もなしにフライトつけるほうも責任があると思うんだけど。それ以前に、本当に決勝までいけたのかな?」
本人には決して、口が滑っても言えない愚痴である。悪口も混ざっている。
ユキから渡されたお茶を啜りたいのだが、猫舌が邪魔をしてなかなか飲めない。
「今度タナカさんが来たら、また疑わしい自慢話を聞かされるかもね」
「それやだぁ。あたし、あの人の嘘聞いてるのイライラしちゃう」
うんざりといった顔をユキが見せる。
「他にもお客さんが来てくれれば矛先が変わるのにね」
「他のお客さんだって聞きたくはないだろうね」
「それは……ある!」
程よく温度の下がったお茶を啜りながら談笑する。
時給七百円のダーツ店。お客が来ていないときは何をしていてもいいというゆるい条件のバイト。このダーツ店でバイトを始めて二年になるが、俺が見たところ、あまり流行ってはいない。夜八時から十二時までのシフトで、平均してお客さんの数は五組ほど。しかも、それほどお客さんも長居はしないので、四時間の勤務時間のうち三時間は自由時間という自由ぶり。一日の売り上げが俺らの賃金を下回るという見事な不採算を起こしているので、いつ首を切られるかと怯えながら勤務している。
この日もお客さんは少なく、勤務時間の大半をユキとの談笑で過ごす。
「さっきからトオセくん、あたしのおっぱいばかり見てるでしょ」
突然の発言に、お茶が入ってはいけない場所に入った。
「ちょっと……そん……なことな……い」
むせてうまく喋れない。
「えー、絶対見てるよ。だって、あたし危機感を感じてるもん」
「危機感ってなんだよ!」
「こう……あたしの貞操ピーンチ! みたいな」
「うへへ、おいしそうだなぁ! って、ざけんな!」
「うわ、今のすごい変態っぽいよ」
ユキが白い目を向けた。演技だと分かっていてもちょっとたじろいでしまうような視線だ。
「すいません……」
思わず謝ってしまう。
何の生産性の欠片も感じられない談笑。だが、こんな会話が大好き。
まぁ、実際ユキの胸は無視できないものがある。小柄で線の細い体躯に似合わない宝。それは決してアンバランスではなく、彼女の魅力を引き上げているオプションである。顔も泣きボクロがとてもチャーミングで可愛い顔なので、男の俺としてはユキと同じシフトのときは若干の下心があってもおかしくはないのだ。
「おいしそうなんて、古風というかなんというか……おかしな表現だね」
「俺が思うに、絶対おっぱいはうまいぜ? やわらかいし、芳醇な味わいがするはずだ」
「……本当に変態っぽい」
「すいません……」
ちょっと本気で引かれ始めた。
しかし、おいしそう、か。
昨夜の夢は異常な出来事で、俺は美味そうに女性の胸を食いちぎっていた。
――肉は柔らかく、あふれ出す血はとても甘く芳醇な味わい。
――体は痺れ、思考は加速し磨耗して、快感に変わる。
「トオセくんどーした? おーい?」
「あぁ、なんでもない」
夢で体験した肉の味を思い出し、少しぼうっとする。
「もう今日はお客さんこないのかもね。早めに閉めちゃおうか」
今日の売り上げを諦め、それぞれ閉店作業に取り掛かる。
俺はレジを閉め、ユキはダーツ機の電源を落とし、戸締りをする。
なんとなく昨夜の夢が頭から離れなくなり、戸締りに勤しむユキの体を眺めていた。二の腕、ふくらはぎ、乳房、尻、喉――
やわらかそうで、食いちぎったら血が噴出すんだろうなぁ。
「全然レジ終わってないじゃない。ぼうっとしすぎだよ?」
閉め作業を終えたユキがレジにやってきた。
「あぁ、ごめん。ちょっと考え事をしていた」
ユキを食いちぎる妄想を。
「しょうがないなぁ。手伝ってあげる」
「すまんな」
「次に同じシフトになったときは、あたしの分も働いてもらうからいいよ」
ユキはにひひと笑い、レジの閉め作業を手伝う。笑顔で泣きボクロが少しだけ上がる。
二人並んでレジの閉めをする。その間もずっと昨夜の夢が頭をちらついて、結局ほとんどをユキがこなしてしまった。
人が人を食うなんて、異常な妄想であることは分かっている。ただ、昨夜の夢があまりにも強烈すぎて頭から離れてくれない。実際にそんなことをしたら気味が悪いし、犯罪者になってしまう。
そう、気味が悪い。
だけど、甘美な夢だった。
「じゃあ、次はトオセ君のがんばる番だからねぇ。ばいばーい」
ほとんどの閉め作業をユキにやってもらい、店の前で別れた。
昨夜の夢を思い出してからぼうっとしてしまっている俺も家に戻ることにした。
自転車に乗って灯りの点々とある国道を通る。車も通らないし人影も滅多にない。それでも俺みたいなバイト帰りの人が時々は通るみたいだ。
俺のいる歩道の反対側。暗くて他に人の居ない道を女性がひとり。
あの女性もバイト帰りだろうか? などとどうでもいいような思考を巡らせてペダルを漕ぐ。この辺りの治安はそれなりにいいけど、この道は暗いし怖いよなぁ。
人通りの無い、暗い道で女性が食い殺される夢。
なるべく思い出さないようにしていたが、この道は昨夜の夢の舞台となった道だ。辺りに民家も無く、人通りも皆無のため何かあっても誰も助けに来ない道。その道で一人で歩いている女性。
いやなデジャヴだ。
もう一度、女性へと目を向ける。
タンクトップにハーフパンツ。とてもシンプルで、夏という時期に適した服装である。程よく露出も多く、男である俺には良い目の保養になる。
――二の腕、ふくらはぎ。
気がついたら、またおいしそうな部分に目がいってしまう。
俺に、人を食べる癖はない。
昨夜の夢が強烈なだけだ。俺は、人を食べない。食べない。
こんな馬鹿みたいな言い聞かせをしているのは、おそらく希少だろう。俺だけかも。だが、そんな馬鹿みたいなことをさせるくらい昨夜の夢が強烈で、印象的で、甘美だった。
そんな思考を巡らせている間も、視線は女性のおいしそうな部分から離れなかった。
携帯電話の着信音が部屋に響く。
「はい」
「あー、やっと出たぁ」
ユキの元気な声が聞こえた。
「トオセくん、今日はあたしとのシフトなのに遅刻とはいい度胸じゃない」
そうか、今日はバイトだったな。
「ごめん。体調崩しててね……今日は出れそうにない」
「んー、いいけど、そういうときは、もう少し早く連絡くれるといいなぁ?」
「ごめん」
本当は、体調なんて崩していない。
外に出るのが怖い。
外には女性がいる。
たくさんのおいしそうな食事が俺を待っている。
数日前にあの夢を見てから、女性を見かける度に二の腕とかふくらはぎなどのおいしそうな部分に目がいってしまう。あのやわらかそうで、血のたっぷりと詰まっていそうな、おいしそうな部分に。
「体調くずしてるんだ? ご飯しっかり食べてる? バイト終わったら何か買っていってあげようか?」
「いらない! 来るな!」
つい声を荒げてしまった。だが今、女性がそばに居たら俺は我慢できる自信がない。
「そ……そう。わかった……お大事にね」
怒鳴られた事に、驚きと悲しみの混ざったような声で通話を切られた。
俺を気遣ってくれたのに嫌な思いをさせてしまったな。だけど、もし、ユキが俺の部屋に来てしまったら、俺は今以上にユキに申し訳ないことをしたかも知れない。
――力一杯に抵抗するユキを押さえつけ、叫べないように喉を食いちぎり、それから二の腕、乳房、ふくらはぎ――
「あぁぁっぁっぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああ」
俺は狂ってしまったのか?
女性が食べたい。
あの夢を見て以来、この欲求ばかりが際限なく高まっていく。
もう、普通の食事が喉を通らない。俺は怖い。
女性を食べてしまうのが怖い。
高まる欲求は、通常では考えられない方法でしか解消できない。だが、怖い。
「がぁぁああああああああぁぁぁぁあああぁぁぁああぁぁああああぁ!」
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
食べるのが怖い。俺が俺でなくなる気がする。それが途方も無く怖い。だが、食べたい。
壁を殴る。テーブルを踏み壊す。グラスを投げつける。部屋の中であらゆるものを壊してみたが、この欲求は解消されない。そんなものじゃない、と言わんばかりにさらに膨らんでいく。
俺は部屋を飛び出した。
もう嫌だ。
欲求はストレスとなり、俺を苛む。
人でありたいと望む意思に、女性を食べたいという欲求が肉薄している。
涎は先ほどから止まらず、Tシャツをベトベトに汚す。息は荒く、目は血走っているのが分かる。
「げぇぇぇえぇ! ごぇぇぇぇえええええ!」
募る欲求が胃を痙攣させる。
灯りの乏しい国道で、少ない電灯の下に胃液を撒き散らす。
二度ほどの嘔吐を済ませ、己の吐瀉物が敷き詰められた地面へ腰を下ろした。
相変わらず、息は荒い。欲求は加速していくばかり。
どうして?
たかがちょっと異常な夢を見ただけなのに、どうしてこうも引きずられるんだろう?
泣きボクロのある女を押さえつけ、喉を食いちぎり、やわらかい肉を食す夢を。
――噴出す血は甘くて、芳醇で。
――思考は加速し、磨耗して、快感へ。
「―――――――――――――!!!」
再び胃液を吐き出す。もうつらい。
もう俺には、次に女性を見たら自制できる自信がない。確実に襲い掛かる自信がある。それは俺のこの高まる欲求を解消してくれるだろう。俺の願望を打ち砕くだろう。
俺は最期まで人でありたい。
俺が甘美な食事に味を染めてしまう前に消えよう。
吐瀉物に汚れた体を引きずり、這いずるように車道を目指す。
本当に馬鹿みたいな理由だよな。人を食うという異常な夢を見て、引きづられて、惹きずられて、けど最期は人間でいたいから死ぬなんて。出来損ないの昔話みたいだ。それでも、こうでもしないと俺はきっと食べてしまう。
人を食べたいという未練が足を引っ張り、なかなか車道に出れない。今、自分を始末しておかないと、取り返しのつかないことになる。理性が欲求に逆転されつつある。今、車道に体を放り出して、俺の体をずたずたに潰しておかないと、もう自分では死ねなくなる。
いまだ若干優勢な、理性による決断を実行するために、足を引っ張る欲求との力比べのような匍匐前進。
ゆっくりと前へ、車道へと進む。ゆっくりと。
気がつけば涙が出ていた。
人を食べたいという未練だけではない。そうだ、俺はこの世にもまだ未練はあるんだよな。死にたくないなぁ。けど、俺のこの世への未練は、俺の欲求とは相容れないものだから、どちらにせよ死ぬしかないんだよな。
体の半分が車道に出た。
暗い国道。見通しが悪く、車もよほど注意深く運転しなければ、俺は死ねるだろう。まさか車道に人が寝そべっているなんて思いもしないだろうな。
あとは俺の理性が残っているうちに車が通ってくれることを祈ろう。
数日前に見た夢。あまりにも強烈で、刺激的で、甘美な人を食う夢。
「なにやってるの!」
「ユキ……」
俺の体が車道から引きずりもどされる。
「いったい、何をしてるんだい? うわ……吐いちゃったのかぁ。まったく、体調が悪いって時に出歩くもんじゃないよぅ」
「……なんでここにいるんだ?」
「ん? ん」
コレ。というように右手に持ってる袋をちらつかせる。
「いやさ、ご飯の差し入れでもしようと思ってさ」
にひひと、ユキは笑う。
俺が理不尽に怒鳴ったにも関わらず、飯を持ってきてくれたのか。こいつはかなりいい奴なのかも知れない。
「それで」
ユキは聞く。
「体調悪いって言ってるのに、こんなところで何してるの?」
「それは……」
死のうとしてた。なんて言ったらどれほど白い目で見られるだろう。だけど、俺も限界だった。
全て話した。夢のこと。それが頭から離れなくなって、今ではもう自制できる自信がないことを。
ユキは俺の告白を、白い目で見るどころか、真剣に聞いてくれていた。
「それで、もう死ぬしかないと思ったんだ」
俺も余程追い詰められていたらしい。告白の最中に再び涙が溢れ出し、嗚咽を混じらせながらユキに話す。
「それはもう自分ではどうしようもなさそうなのかな?」
「現状だと、もう自分ではどうしようもない感じ」
「そっか……」
むぅ、っと眉を寄せて、ユキは自分のことのように、真剣に悩み出した。
本当にいい奴だ。
ごめんね、さっきは怒鳴ったりして。
ごめんね、ユキの服まで俺の胃液で汚れてしまったね。
「ユキ」
「ん?」
思案顔のままこちらに顔を向けるユキ。ちゃんと謝らなければ。
「ごめんね」
俺はユキに襲い掛かり、喉を食い破った。
/了
練習用に時々手を加えています。