景色は生きている
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
やあ、つぶらやくん。大変お待たせしたね。最近、SNSで写真をアップするのに凝り始めてしまってね。だいぶ時間がかかってしまった。
――そんな個人的な用事、客が来る前とか、帰った後にゆっくりやれって?
いやあ、ごもっともな意見。大変に恐れ入るねえ。
しかし、私はこのごろ忘れっぽくて仕方ない。思い立ったが吉日、とばかりにすぐさま行動に移さないと、忘れてしまうんだよ。いや、本当に。
今の時代はいいねえ。自分の持っている写真を、簡単に他の人にさらして共有してもらえるんだから。ひとむかし前なんかは、自分からおもむくか、他の人から招かれるかしないと、映像の類を見る、という行いはできなかったからねえ。
今は家から一歩も動かず、パソコンを通して、即席の図書館や美術館に浸ることも可能ときている。こりゃ四六時中、どっぷり画面とにらめっこする気持ち、無理もないかなとも考えてしまうよ。
しかし、人が集まるところには、怪異も集まるのが世の流れ。中には、うかつに触るとやけどでは済まない事例も混じっている……かもね。
君も調べものをする上で、わきまえていた方が良いことかも知れないし、話をしてもいいかな?
私の学生時代の話になる。
その頃はちょうど、パソコンとデジタルカメラのブームがやってきていてね、カメラで撮った映像を、パソコンの中に取り込んで保存する、ということが広く認知され始めた時期だったんだ。
当時、フィルムを現像に出してやかれるのを待ち、写真を確認するばかりだった私にとって、カメラにくっついた液晶パネルで画像をその場で見られる、というのはカルチャーショックを覚えるほどの出来事だったよ。個人的にね。
私の界隈では、カメラとパソコンの両方を所持している友達はいなかった。
今のように小型化、低価格化の競争が始まるか否か、という時期だ。どちらか一方を買うだけでも、学生にとっての大枚をはたかなくてはいけない。カメラの中だけで写真を楽しんでいるという人も多く、私もその仲間入りをしたくて、せっせとお金を貯めていたものだ。
その友人の中に、デジタルカメラでの撮影に魅せられた子がいてね。毎月のように、せっせとどこかに出かけて行っては、撮って来たと思しき写真を、カメラ越しに私たちへ見せびらかして来た。
「一隅を照らす」。この言葉を、彼は好んで使っていたよ。他の人が目にかけないこと。気にも留めないことを拾い上げることが生きがいだとね。
ガイドブックなどで紹介される有名どころには興味を示さず、自分だけの穴場を探すことに凝っていた。自然、撮ってくる写真も、彼の説明なくしては、どこで撮影したものか判断がつかないものばかりとなる。
その中で、私が特に心惹かれた一枚があった。
写真の上部から二股に枝分かれし、土壁を三角形に区切る、巨大な木の根っこ。そして壁に描かれていたのは、二人の人物像だ。
向かって右手の人物は、その頭上に金色の球をいただき、十二単を身につけ、捧げるように両腕を、左側へ向けて差し出している。手のひらには、銀色の四角い盾が乗せられている。
対する左手には、ひもを通した勾玉を首にかけ、貫頭衣を着た男。女性の前にひざまずき、みずらを結った頭を垂れている……と、そのような絵だ。
女性と男性が、互いに時代の食い違った格好をしている。それが気になったのかも知れない。当時のデジカメの画素は少なく、荒さの残る画像だったけど、私の印象に強く残るものだった。
友達に写真に写った絵の所在を尋ねてみると、ここで話すのはなんだからと、校舎の屋上手前の扉まで連れてこられたよ。
多くの人に聞かせたくない。いかにも、「一隅主義」な彼らしい行動と言えた。
次の休み。私は彼から聞いた場所へと向かったんだ。今までのお年玉をはたいて買った、デジタルカメラを手にしてね。
彼から聞いた場所は、県をまたいだとある山だった。ハイキングコースあり、バンガローあり。バーベキュー場は川原に面して、北を仰ぎ見れば、小さな滝から水が降り落ちてきて、音としぶきを、絶え間なく憩いの場へと提供してくれているのが分かるだろう。
私が目指すのは、その滝の裏側。コースの順路を外れているばかりか、立ち入り禁止になっている場所だ。そこへ細々と続く足場も、横になってもつま先が少し宙に浮いてしまうという、崖っぷち。
ところどころ苔も生えていて、体重のかけ方を間違えれば、十メートル近く下の滝つぼにドボン……という、危ない場所だった。年とった今ならば安全をとり、即座に諦めるところだろうけれど、いやはや、私も若かったねえ。
そうしてたどり着いた、滝の裏側。流れ落ちる水の幕の完全に裏側には、意外なほどしっかりとした足場の出っ張りと、友人から見せてもらった写真と、まったく同じ姿の壁画が目の前にあったんだ。
いや、絵というより芸術の領域だ。写真の時には分からなかったが、この岩壁の絵は、油、染料の類を用いたものではなく、岩の表面にせせり出てきた、色とりどりの鉱石。それらの輝きによってのみ、形作られていたのだから。
地質学に疎い私ではあるが、とても最近の人の手によって作れるものではないと、ひと目で感じた。何百年、何千年、あるいはそれ以上の昔に仕込まれていたものが、時を超えて表に出てきた……そのように思えてならなかったんだ。
私は早速カメラを構え、何度かシャッターを切る。満足いく絵になるまで、十枚ほど撮ったかなあ。一番いい奴を残して、あとは消してしまったよ。当時のデジカメは100枚に届かないくらいしか、写真を収められなかったから。
どうにか目的の写真を撮って、帰宅した私を、父親が出迎えてくれた。いつもは仕事で遅いはずなのに、意外だったよ。
「手洗い、うがいをしたら、ちょっと付き合ってくれないか」
父から話が振られるのは、高校受験前の進路相談の時ぶり。この人は大事なことがある以外では、私を呼び止めたことがない。
私はデジタルカメラを持ったまま、居間に連れていかれる。向かい合ってソファに腰かけた後、父は尋ねてきた。「そのカメラで、もう何か写真を撮ったのか」と。
私にしては大きい買い物。お年玉は親が管理していたから、今回の引き出し具合は父親も知っているはず。
説教か、と私は少し身構えてしまったが、続く父の言葉は予想していなかったものだった。
「その写真、消さない方がいいかも知れないぞ」
わけがわからなかった。どうして撮ったばかりの写真を消す気になるというのか。
私が素直に疑問をぶつけると、父は話をしてくれた。
ほんの半年ほど前。父の職場の同僚が亡くなられた。その人もデジタルカメラを持っていて、色々な場所の風景を撮影していたらしい。父も何度か写真を見せてもらったことがあるそうだ。
そのうちの何枚かに関しては、もう撮影することはかなわない景色も混じっていた。災害、人災を問わず、何かしらの原因で、もう撮影当時の環境が残っていないのだそうだ。
「でも、あの時、あの場所の絵は、このカメラの中に残っている。早く自分用のパソコンも買って、そちらにもデータを保存しておきたいものだ」
そのためにお金を貯めているところなんだ、と話していたが、数ヶ月後に彼の訃報を聞くことになったんだ。話を伺ったところ、亡くなる前日に地震があり、彼自身はケガをしなかったものの、机の上に置いていたデジカメが落ち、データがまるまる吹っ飛んでしまったとのこと。
そのことで翌日は落ち込んで、落ち込んで……いよいよお風呂に入った時、一時間以上出てこないから、家族が様子を見たところ、彼は頭を洗う態勢のまま、息をしていなかったんだそうだ。蘇生も試みられたが、そのまま帰らぬ人になってしまったとか。
「偶然ならば、それでいい。だが、俺には写真によって生き永らえた『景色』の命が、死に際に彼を連れて行ってしまったような、そんな気がするんだ。あの景色とその命は、この世界の中でも、もはや彼のカメラの中にしか残っていなかったんじゃないか。だから死ぬのがさびしくて、彼を道連れに選んだんじゃないか。そう思えてならないんだ」
その父の言葉が、どうも頭にこびりついてしまってね。しばらくは写真を撮ることにびくついたものさ。もしも地震とかが起きて、自宅を始めとする場所が倒壊。データが消えてしまった時に、この世から完全に命脈を失ってしまう景色が、存在するんじゃないか、とね。
でも、今はこうしてネットワークを拡散できるようになって、少し安心している。こうしてばら撒いておけば、世界から消えることはないだろう、とね。
例の滝の場所かい? ああ、あそこは数年前に土砂崩れがあったらしくてね。確かめにいったところ、絵はおろか、もうあの細々とした足場さえも、残っていないんだ、