クジラと星と夏休み
たとえば真夏の夜の話。
テレビを見ている途中でアイスが食べたくなる確率。
冷蔵庫の中にアイスがなくて、部屋着のまま外に出る気になっちゃう確率。
家からコンビニまでの道が、海岸線をなぞる確率。
ここまで全部合わせて、たぶん1%くらい。
「わお」
その道の途中で、海辺に流れ着いた男の子を見つける確率、さらに1%。
「どこから来たの?」
「…………宇宙」
その子が地球人じゃない確率。
たぶん、奇跡と同じくらい。
*
「夏風邪は馬鹿が引くって、本当だったのね」
あたしが話し終わると、詩奈は手のひらをあたしのおでこに当てた。冷たくてきもちいい。
「うそじゃないって」
「うそじゃないってあんたは思ってる。でもそれはうそです。だってありえないから」
「でも見たもん」
「だから風邪引いて幻覚でも見たんでしょ。あんたおでこ熱いわよ」
「暑いからだよ」
「あたしだって暑いわよ」
夏休みなのに制服を着ていた。
夏期講習とか登校日とか、そんな日が八月を半分くらいつぶしちゃって、なのに授業は午前中で終わるから、あたしたちは一日で一番暑い時間に帰り道を歩かなくちゃいけなかった。
道路の向こうで赤信号が揺れている。
「おなか出して寝てるから風邪引くのよ」
「だから風邪は引いてないって」
おなかは出して寝てます。なんでバレてるんだろ。
「じゃあ夢」
「夢でもなーいー」
「なら……」
青信号。
「どーでもいーや」
「ひどくない?」
「知らなかった?」
私はひどいやつよ、とおでこを押された。
じゃあね、と横断歩道を走り去る詩奈に、あたしもじゃあね、と手を振った。
詩奈には相手にされなかったけど、あたしは昨日、確かに宇宙人の男の子と会った。
嘘でもないし、夢でもないし、風邪を引いて見た幻覚でもない。言い切れる。
「ただいまー」
「おかえり、トモカ」
だって、その子は今、あたしの家にいるんだから。
自分の部屋に、真っ赤な髪の男の子が座っている。名前はノアン。昨日聞いた。それ以外のことは知らない。他のことを聞く前に眠くなっちゃったし、今朝は寝坊寸前だったから。
でも、間違いなくノアンは宇宙人だと思う。
今も宙に浮いてくるくる回ってるし。
「宇宙人って、みんな浮いてるの?」
「いや。重力圏に慣れてないからマシンで干渉を拒絶してるんだ。気になるかな? だったらやめるけど」
「ううん、いいよ。見てて面白いし」
面白いかなあ?とノアンは首を傾げて、身体ごとくるんと一回転した。
宇宙っぽいなあ。
「昨日は聞き忘れちゃったけどさ、いつまで地球にいるの?」
「一週間くらいかなあ」
「……ご飯、どのくらい食べる?」
「食べなくてもなんとか。有機生命体の形態を取るのは初めてだけど、このくらいの身体なら手持ちのマシンでメンテナンスできる」
有機生命体。
意味はよくわからなかったけど、漢字と質問の答えはわかった。
「そっか。じゃあ一週間あたしの家にいなよ。お母さんもお父さんもそのくらいなら気付かないと思うし」
「いいの?」
ノアンはぱちくり。目が大きくてうらやましい。
「任せてよ。あたし、隠れて生き物飼うの得意だから」
「うーん」
ノアンは難しい顔をしてくるくる回った。それを見つめるあたしが目を回し始めたころに、回転は止まる。
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」
「うんうん。存分に甘えたまえ」
宇宙人のホームステイ。夏期講習よりは絶対楽しくなるに決まってる。
ワクワクしてた。
「でも、ひとつだけ困ったことがあるんだ」
「何? 僕にできることなら何でもするよ」
「……宇宙人ってさ、どんなことして遊ぶの?」
トランプとか?
聞くとノアンは、あたしと一緒に、困った顔をした。
*
神経衰弱とオセロで遊んでたけど、そのうちノアンが強くなりすぎてすぎて勝負にならなくなったから、結局海に来た。まだ十八時にならないくらいの時間だったけど、太陽は沈み始めてた。日が短くなってきてる。
「もしかして、夏休みってもうすぐ終わっちゃう?」
砂浜を歩きながら、隣に浮いてるノアンに聞いてみたけど、よくわからなかったみたいで首を傾げられた。答えられなくても知ってた。残り一週間しかない。
「ナツヤスミって?」
「夏休みって言うのはね、夏のお休みです」
「それはわかるよ」
ノアンは日本語ができてすごいなあと思う。細かいところは知らないみたいだけど。あたしは宇宙語じゃハローの言い方だって知らない。
「暑すぎてなーんにもやる気にならないからみんなで休みましょーってこと」
「でも今日は学校に行ってたんでしょ?」
「そこが大人のずるいところですよ。あれこれ言ってあたしたちから休みを奪ってくの」
ずーるーいー、と足を思いっきり振ったら、サンダルが飛んで海にぽちゃん。ありゃりゃ。裾をまくって取りに行く。水が冷たくて気持ちいい。
「学校、行きたくないの?」
「うーん」
そう言われると悩む。
「行きたくないわけじゃないけどさ。休みの方がもっとキラキラしてるから」
「キラキラ?」
「ほら」
あたしが指さすと、ノアンは海を見た。オレンジと白の境目みたいな色の太陽が、光で染めてる海。
「こういうの。わかる?」
「……わかるよ。ここは綺麗な星だね」
「そっか」
えへへ、と笑った。わかってもらえて嬉しかったから。ノアンも笑ってたけど、何だかあたしと違って寂しそうに見えた。ホームシックかな。きっと遠いところから来たんだもんね。あ、そういえば、
「ノアンは何しに地球に来たの?」
「え?」
「観光?」
そんなことも聞いてなかったって思い出した。
「クジラを……」
「クジラ?」
「うん。クジラを見に来たんだ」
「クジラかあー」
宇宙にクジラっていないのかな。いないんだろうな。だってそうじゃなかったら地球にまで来る必要ないもん。
だけど困った。
「このへんはね、クジラはいないかな。見たいんだったら水族館に行くしかないかも。水族館、わかる?」
「わかるよ」
「あたし明日は一日空いてるし、ふたりで行こっか。あたしがお金出すから、電車乗ってさ」
「いいの?」
「ダメなの?」
あたしが聞き返すと、ノアンはまた笑った。今度は寂しそうじゃなかった。
「……ダメじゃない。ありがとう」
「いいってことよ。どんどん甘えたまえ。せっかくの旅行なんだから、楽しまなくちゃね」
夏の日はしぶとい。
太陽はまだ沈まない。
*
夏の水族館なのにあんまり人がいなくて、なんでかなと思ったら今日が平日だからだった。ラッキー。
外で浮かんでるのはマズイよねって、ノアンは地面に足をつけて歩くことにした。最初はふらふらしてたけど、五分もしないうちに慣れたみたいで、駅に着くころには歩き方は自然になってた。運動神経良さそう。
でも髪の毛の色は目立った。光ってるみたいに赤いんだもん。
だから、水族館に入って最初に行ったのはグッズ売り場。シャチの顔がついた黒い帽子を買って、ノアンに被せた。意外といいお値段。お昼ごはんはちょっと節約します。
「どこから行く? まずはクジラ?」
パンフレットを広げてみたけど、どこに何がいるかよくわからなかった。クジラはどこだろう。イルカと一緒に奥の方にいるのかな。
「順番に見て行っていいかな。せっかくだし、色々見てみたいんだ」
「いいよー」
パンフレットを閉じた。次に開くのは道に迷ったときだと思う。道に迷ったときに地図が役に立ったことなんて一回もないけど。
ノアンの前に立って、最初のエントランスに入って行く。
「わ」
「おお」
ふたりして立ち止まって声を上げた。
思ってたより、ずっとすごい。
薄暗い部屋の中を、ぐるっと大きな水槽が囲んでた。青いライトが綺麗で、エアコンが涼しくて、水の中にいるみたいな気持ちになる。
ガラス一枚挟んだ先、目の前を大きな魚が横切った。首を曲げて見上げると、魚の群れが固まりみたいになって動いてる。どれがどれなんて名前もわからないけど、だから逆に、『魚を見てる』んじゃなくて、『魚といる』みたいに感じる。
自分が小さくなったみたいに思えた。
「すごいね。綺麗だ」
ノアンが言った。
「ノアンは海で流されてたんだから、もっとすごいの見たんじゃないの?」
「夜だから何も見えなかったよ。昼に降りてくるんだったな」
「次来るときはそうしなよ。あたしがまた拾いに行くからさ」
「……うん。そうだね」
「……? なんか悩み事?」
「え」
ノアンはびっくりした顔であたしを見た。
「なんで?」
「なんか急に元気なくなっちゃったから。当たり?」
「いや……」
ノアンはそう言うけど、どう見たって落ち込んでた。昨日の夜もそうだけど、ノアンはすぐに難しい顔になる。なんでだろうって考えて、
「もしかしてノアンってさ、家出してきたの?」
「ええっ?」
「お父さんお母さんとケンカして地球まで来たのかなーって。なんか寂しそうだからさ。違う?」
「……違うよ。でも、」
ノアンは帽子を深く被りなおした。引っ張ったつばで、目元が見えなくなった。
「寂しいのは、そうかもね」
それだけ言って動かなくなったノアンに、悪いことしちゃったかなと思った。せっかく遊びに来たのに、あたしが変なこと言っちゃったかもしれない。
「ごめんね」
だから、あたしは手を繋いだ。ノアンの手が震えたのがわかった。
「クジラ、見に行こうよ」
繋いだ手の分、寂しさが消えるといい。
宇宙から来たんだもん。寂しいに決まってるよね。
「……うん」
大きな水槽のコーナーを抜けると、今度はトンネルの通路だった。横はもちろん、上も下も水槽になってて、海の中のトンネルを歩いてるみたいだった。
次は深海魚。壁に小さな水槽がいくつもはめこまれてて、ひとつひとつに違う魚が住んでいる。暗くなってる水の中は夜の海みたいで、怖いような気もしてくる。
横には柱みたいな形の水槽があって、その中に色とりどりのクラゲが浮かんでる。LEDライトに照らされて、透けて光って見えた。
その次は熱帯魚とか、外国の魚。見たことない魚ばっかりで、泳いでる海が想像できない。
ミュージアムとふれあい広場を抜けてさらに先。アザラシとかアシカの姿が見えてくる。
魚から哺乳類に種類が変わった。この近くにいるはずだ。
探せばイルカはすぐに見つかった。だけど肝心のクジラが見つからない。
「どこだろうね」
と話しかけてみたら、隣にノアンがいなくなってた。探すのに夢中になってるうちに、繋いだ手も離してたから。
迷子になっちゃった?と慌てて周りを見たら、みっつ隣の水槽の前に立ち止まってた。
「ごめんごめん、置いてっちゃって」
「これだ」
「え?」
ノアンの視線の先を追った。水槽の中。泳いでいるのは、
「……これ、イルカじゃないの?」
「一番小さい種類のクジラなんだって」
近くの案内板を見たら、確かにノアンの言うとおりだった。
クジラとイルカの違いは大きさだけらしい。だから、クジラの中で一番小さいこのクジラは、イルカと変わらないような見た目をしてる。
そうなんだ、と納得したけど、ノアンがどう思うか気になった。クジラを見るために地球に来たって言ってたけど、どんなクジラを期待してたんだろう。
もしも見たかったのと違ったら悪いことしたかな、と思って、顔色を窺ってみると、
「ノアン……?」
泣いていた。
ノアンは小さなクジラを見つめながら、水槽の明かりに照らされて、青い涙を流してた。
「ねえ、トモカ」
どうして泣いてるんだろう。今ノアンはどんな気持ちなんだろう。
「もしもこの星が滅んでしまうとしたら、君はどうする?」
そういうことが全部わからなかったから、あたしは何も言えなかった。
*
「たらふくケーキ食べるわ。体重のことなんて気にする必要なくなるし」
「あ、それあたしもやりたい」
「あんたはいっつも食べ放題でしょ、この食いしん坊」
「む、そんなことないよ。あたしだってちゃんと気を遣ってるもん」
反論したけど、詩奈には鼻で笑われた。
水族館に行ってから三日が経って、金曜日。最後の登校日が終わった。もう土日が終われば夏休みも終わっちゃうから、すっきりしたー、とはいかないけど。
すっきりしないのは、それだけじゃない。
水族館でノアンが言ったあの言葉。あれきりノアンはそのことには触れないままで、あたしは寝苦しい夜を過ごしている。
この星が滅ぶって、どういうこと?
聞こうと思えば、聞けると思う。
だけど聞く気にならないのは、あのときノアンが、悲しい顔で泣いてたから。
「まあでも、夏休みの終わりなんて世界の終わりみたいなもんよね。わたし来年は絶対夏期講習出ないわ」
「来年受験だよ?」
「だからよ。勉強してましたとか言っとけば怒られやしないって」
「ずるいこと考えるよね、詩奈は」
「賢いと言いなさい、賢いと」
詩奈はふふん、と笑って胸を張って、長い髪をかき上げた。風に揺れた。
「で、賢くない明香さんは、もし八月でこの星が滅んじゃうとしたらどうするわけ?」
「えー……、思いつかないよ」
「何よ。自分じゃ思いつかないのにわたしに聞いたの?」
「自分じゃ思いつかないから詩奈に聞いたんだよ」
詩奈はうーん、と難しい顔で腕を組んだあと、筋は通っちゃいるか、と頷いた。
「ま、何も思いつかないってのもある意味幸せよ」
「どこが?」
「何も思いつかないってことは満足してるってことでしょ。明日が来てもいいし、来なくてもいいって、そんな気持ちで生きられるならそれ以上のことはないと思うけど」
「そうかなあ」
「知らないけどね、適当言ったし」
「もー!」
なんで適当言ったの、と責める前に青信号。
じゃあね、と詩奈は走り去った。逃げられた。
詩奈に聞けば何かいいこと教えてもらえるかな、と思ったけど、そんなこともなかった。当たり前だと思う。詩奈は頭はいいけどあたしと同じで地球人だし、地球が滅びるのかも、なんてこと知りもしないんだから。
「ただいまー」
「おかえり」
家に帰ると、相変わらず赤い髪の男の子。ノアンが来てからまだ六日なのに、お馴染みの光景になっちゃった。
楽しくやってる、とは思う。
午前中は学校に行っちゃうけど、午後からは毎日家の中で遊ぶなり、外に出かけるなりしてるし。
でもやっぱり、気になっちゃう。
どうして泣いてたのか。ノアンが何を知ってるのか。
「ねえ、トモカ」
「はいっ!」
急に名前を呼ばれたから、大きい声が出ちゃった。恥ずかしい。けどノアンはそれを気にしてないみたいで、
「今夜、海に行かない? 話したいことがあるんだ」
と続けた。
あたしも話してほしいことがあったから、
「うん」
と頷いた。
*
夜の海に来たら、ノアンと初めて会ったときのことを思い出した。これからここに来るたびに、このことを毎回思い出すと思う。
砂浜にはひとり分の足跡しかつかない。地球人の、あたしの足跡。ノアンは相変わらず浮かんでいた。
「話したいことって?」
ノアンは海を見ながら答えた。あたしのことは見なかった。
「……本当は、誰にも言わないつもりだった。けど、トモカは僕に優しくしてくれたから、だから……、言うべきだと思った」
夜の海は黒くて、月が照らすところだけが白い。空には星が出ていたけど、光が弱くて水面には映らない。
「この宇宙には、クジラがいるんだ」
「クジラって……、あのクジラ? 水族館で見てきた?」
「いや、もっと大きい」
「どれくらい?」
「星より」
空を見上げた。星より大きいクジラ。夜空には、星も小さくかけらみたいに映るから、どこにも見つけられるわけなかった。
「宇宙のクジラは星を食べる。丸のみだ。そしてクジラはもうすぐこの星にやってくる」
ノアンはポケットから小さな機械を取り出した。暗いからどんな形をしてるのかよくわからなかったけど、赤い数字が光ってるのは見えた。
『2d:4h:23m:16s』
sの前についた数字が減っていくのを見て、それが残り時間だってことに気付いた。
二日と四時間、二十三分。
「夏休みが……」
あたしが言うと、ノアンが続けた。
「夏休みが終われば、この星も終わる」
そんな、とも、うそだ、とも思わなかった。
「そっか」
「……怖くないの?」
「わかんないよ」
実感がなかった。
大きなクジラがやってきて地球を食べちゃうから、夏休みと同時にあたしたちみんな終わっちゃいます。
そんなこと言われたって、どんなこと考えればいいんだろ。
「ノアンはどうするの?」
あたしが聞くと、ようやくノアンがこっちを向いた。びっくりした顔してた。
「僕のことなんて……」
「ノアンのことが聞きたいよ。自分のことは、まだよくわかんないから」
「……僕は、クジラの監視員だ。クジラの移動経路を観測して星に送る。僕の星でもクジラに対抗する手段はまだない。だから、ギリギリまでこの星に滞在したあと、クジラに飲み込まれる前に近くの星に退避する」
「そっか。よかった」
「何がいいもんか……。 わかってるのか、」
「わかってるよ。ノアンは死なないってことでしょ?」
「だけど君は死ぬ」
「……ごめん、それはちょっとわかんないや」
ノアンはうつむいた。
怒らせちゃったかな、と思って下から覗き込んでみたけど、どんな顔してるかはわからなかった。
「……知らなかったんだ」
声は震えてた。
「宇宙に僕ら以外の生命体がいることも。君たちが僕らと同質の精神を持っていることも。ありえないと思ってた。ありえないはずだった。奇跡みたいな確率で僕たちは出会ったのに、こんな、こんな……」
だからあのとき泣いてたんだ、とようやくわかった。
悲しい顔。寂しい顔。その理由がわかった。
優しいんだ。
「……君が望むなら」
「え――」
包みこむみたいに、手を握られた。
ノアンが顔を上げた。涙の跡。
「僕と一緒に、この星を出よう。もうひとり分なら、なんとか調整できるかもしれない。してみせる」
「なんとか、って、どうやって」
「――こうやって、さ!」
ノアンが海に向かって飛び出した。
「わ、わ、わ」
引っ張られるまま、足をつっかけながらあたしも海に向けて走り出す。サンダルが抜ける。冷たい水に足を浸して音を立てる。
一歩、二歩、三歩――、四歩目はなかった。
もう飛んでた。
「わ――」
月が近い。海が遠い。星も近い。
初めて見る景色だった。
世界で一番自由になったみたいで、身体が熱くなる。
「僕と一緒に行こう。月に、火星に、僕の星に」
「月と、星……」
手を繋いだままのノアンが、あたしの目を見つめた。
あたしも見つめ返して、遠い星のことを考えて、それから身体が熱くなって、夏の夜だからかな、妙に暑くて、頭に血が上って、いてもたってもいられないくらい熱くなって――、
「きゅぅ」
*
風邪引いた。
あんなに詩奈に「風邪引いてない」って言っておいて、結局風邪引いた。
何が悪かったんだろ。
夜に外に出てたことかな。アイス食べすぎかな。冷房当たりすぎかな。それともお腹出して寝てたからかな。
夏風邪を引くと、クーラーの使い道に迷う。つけたらもっと悪くなりそうだけど、つけなかったら暑くて暑くていられない。扇風機を使うにしても、汗が冷えてもっと悪くなりそう。
でもラッキーだったのは、そんなに重たい風邪じゃなさそうなことだった。頭がぽーっとするけど、それだけ。問題はそれがこの星が終わる二日前の話だってことなんだけど、おかげで考える時間ができたと思えば、結果オーライかも。
寝てる間、考えてた。
ノアンと一緒に行くかどうか。
夜の海であたしは気絶した。
ノアンはあたしを部屋まで運んで、目を覚ましたら『無理に連れ出してごめん』って言ったきり、どこかに行ってしまった。地球を出ちゃったわけじゃないと思う。前に土日はお父さんとお母さんがお休みだから、家にはいられないかもって話をしておいたから、それでどこかに出かけてるんだと思う。
この一週間、ずっとノアンと遊んでたから、ひとりきりの土曜日は短く感じた。
短かったけど、自分なりの答えは出た。
と思う。風邪っぽい頭で出した答えだから、正しいかはわかんないけど。
日曜の朝もまだ熱っぽくて、だけど体温計で計ったら平熱以外の何物でもなくて、テレビを見ながら夜を待った。
夜が来るの早かった。
日曜日だし、八月三十一日だったから。
「ノアン」
名前を呼ぶと、ノアンが振り向いた。
夜の浜辺。いつもの場所。真っ赤な髪の男の子は、ポケットからあの時計を出した。
『0d:0h:31m:45s』
「待った? ごめんね。中々抜け出せなくて」
「いや、どうせ十五分前まではこの星に残ってるつもりだったんだ。気にしないで。それより……」
ノアンが手を伸ばした。
「答えを聞かせてくれる?」
一歩近づいた。
「行かないよ」
だけど、その手は取らなかった。
「……そっか」
「ごめんね。一緒に行こうって言ってくれて嬉しかったけど、やっぱりあたし、この星で生まれたし……、ううん、違う」
熱っぽい頭を振った。
こういうことが言いたいんじゃない。家族がいるからとか、友達がいるからとか、こういうの、全部後付けだってわかる。
それが理由にならないわけじゃない。だけどそれだけでもない。
もっとあたしにはいろんなものがあって、そういうの全部合わせて、クジラに食べられちゃう星に残ろうって気持ちができたんだって、そうわかる。
じゃあなんて言ったらいいんだろうって、
「夏休み、終わっちゃうから」
考える前に、言葉になった。
「……うん。なら、僕はもう行くよ」
笑って言ったら、ノアンも笑ってくれた。
「一週間ありがとう。楽しかった」
ノアンは浮かび上がる。月と星の空に向かって。あたしは砂浜に立っている。だから見上げてる。遠ざかっていくノアンを。
そうしたら、また風邪がぶり返してきたみたいに身体が熱くなってきた。何もこんなときに風邪引かなくてもよかったのに。せっかく治ったと――、
「あ」
気が付いて駆け出した。
サンダルはいつもみたいに脱げた。水の上から砂を踏んで、黒い海の白い月を割って走った。
浮かんでいくノアンの、服の裾をつかんだ。
「好き」
風邪じゃなくて、恋だった。
「へ」
空中でバランスをなくしたノアンが降ってくる。
それを抱き留めようとしたけど、思った以上にノアンは重くて、あたしも尻もちをついて、ばしゃん、と水柱が上がった。
冷たい水で、頭からびしょ濡れだった。
「……あれ」
先に声を出したのは、ノアンの方。
「……飛べなくなってる」
「え」
飛べなくなる原因なんて、ひとつしか思い浮かばない。
「あ、あたしが壊しちゃった!?」
「いや、壊れるようなものじゃない。いったいどうして……」
首を傾げたノアンが、顔を上げた。
目が合った。
見つめ合った。
抱き合う恰好になってることを、思い出した。
それからノアンは、それにきっとあたしも、夜でもわかるくらい顔を赤くして――、
『0d:0h:22m:11s』
星の終わりまで、あと二十分。




