エルグランド王国の新年
2016 年、明けましておめでとうございます。
今年も去年に引き続き、なお一層励んで参りますので、どうぞよろしくお願い致します。
では……アリアンローズ有志作家による新年短編企画、『それぞれの新年』エルグランド王国の場合をどうぞ!
「ディアナ、帰ったのか」
厩舎から出てフードを取ったところで後ろから声を掛けられ、ディアナは振り返った。
どう見ても荒くれ者の形で馬を引いて立っているのは、兄のエドワード。顔が女泣かせ悪人系優男なのはともかく、今は纏う空気から完全に無頼者だ。毎年、降臨祭の視察を単独で行う彼は、仕事を転々としながら旅をしている流れ人の設定で王国をほぼ半周する。顔は綺麗な兄だけど、中身は全く外側にそぐわない。
笑顔で近付いてくる主日に顔を合わせて以来の兄に、ディアナも笑みを返した。
「はい、ただいま戻りました。お兄様も、今お帰りですか?」
「あぁ、ギリギリ間に合った。……ちっ、何だって王宮の夜会なんぞの為に、ここまで急がないとならないんだ」
「仕方ありませんわよ。我が家とて、いちおう貴族の一員なのですから」
「その貴族位、いつまで続くかはちゃんと考えといた方が良いぞ。あのケツの青いお坊ちゃまがこのままなら、俺たちの代で『エルグランド王国』は終いかもしれない」
「はいはい。そういう不吉なお言葉は、胸の内だけで呟いてください」
エドワードをいなしながら、ディアナは気付かれないように苦笑する。兄は単純なようでいて、本心は自分の中にしまい込む厄介な性格だ。本気で『王国の終焉』を案じているなら口には出さないはずで、こんな風に軽口の題材にするということはつまり、本音ではそんな未来は信じていないし、来て欲しいとも思っていない。
お父様とは違う方向で、お兄様も天の邪鬼なのよね……と一人ごちていると、その兄が軽く唇を尖らせる。
「最悪を想定しておくことは、責任ある者として大切なことだぞ?」
「本当にそんな『最悪』が目前であれば、視察を終えたお兄様がそこまで上機嫌でいらっしゃる道理もないでしょう。国が沈むときは、端からじわじわと病んでいくもの。半島の端まで巡られたお兄様が異常を発見できなかったのであれば、今代陛下の治世一年目はまずまずなのでは?」
降臨祭の視察は、自領はもちろん隣接している他領もこっそり巡る。祭りという特殊な場だからこそ、普段通り過ぎるだけでは分からないその土地の様子が浮かび上がってくるのだ。
視察を終えて帰ってきたエドワードが、言葉とは裏腹に機嫌が良いのだから、クレスター領のみならず他の土地でも民は楽しそうに笑っていたのだろう。今年の恵みに感謝し、来年の豊作を祈願して。
先代のオースター王が、民の声に広く耳を傾ける賢王であった分、ようやく二十歳を超えたばかりで王冠を戴いた若き王に、民は不安を感じていたが。――彼が即位してようやく一年、ディアナの担当の土地を巡ってみても、王への不満よりは期待の方が大きい。
遠くからしか姿を見たことのない、ろくに個人情報も知らない相手だが、少なくとも『王』としてはそう悪くなさそうだと思う。……奇跡的なことに。
口調を切り替えて、ディアナは朗らかに笑った。
「オース小父さんのお話を聞いて、心配していたけれど。話に聞いた偏向教育を受けていた割に、彼の判断は悪くないわ。特に、ソワール地方への迅速な対応はお見事だった」
「あれは、まぁな。王領でもない土地を、あれほど躊躇いなく救うとは思わなかったが」
今年の水月、王国の中でも特に雨がよく降るソワール地方で、近年稀に見る豪雨となった。川は決壊、橋は流されて家は浸かり。何より大変だったのは、領地が大変だと知って駆けつけた領主が、地盤が弛んだことによる土砂崩れに巻き込まれて死亡したことだ。彼はまだ若く、跡取りの息子は幼児。こんな大災害に対応できるわけもない。
そんなソワール地方の惨状を『災害報告』としてさらっと聞かされたらしい王は、すぐさま支援に乗り出した。真っ先に民の救済を命じ、家を流された者には仮住まいを、畑が駄目になった者には補填金を、……家族を喪った者には見舞金と哀悼の言葉を送って。流された橋を修理し、決壊した川を更に強くするための案を募ってと、どこまでも民の側に立った彼の対応は、それまで民の間にあった『新王への不安』を吹き飛ばすのに充分なものだったのだろう。ソワールの被害は甚大だったが、『国王陛下に感謝の品を献上するため、一日も早い復興を』と領主一族含め領民の心は一つになったとのことだ。
エドワードもそれは分かっているはずだが、彼の不満そうな表情は変わらない。ひとまず愛馬のジョイを休ませるため厩舎に入り、一人になって戻ってきた兄と一緒に、ディアナは屋敷の裏口に向かって歩き出す。
ディアナの横で、エドワードがため息をついた。
「王宮に出入りしていると、メッキが剥がれたあいつの姿もいろいろと見えてくるんだ。確かにいちばん肝心な部分は外さないかもしれないが、普段のあいつはぽろっぽろ抜けた政策や提案書を、ろくに読み込みもしないまま下に降ろして来るからな」
「その辺が偏った教育の弊害よね。問題点を見極められないようにされてるんでしょ」
「考えるってことができないっぽいな。外宮室とつるんでるだけでも、それは分かる」
「即断即決にしては悪くない判断だから、これで頭を使うことを覚えれば、絶対に大成するお方だと思うんだけど……」
「ディアナ、身贔屓は禁物だぞ。オース小父さんの息子だからって、点を甘くするな」
「私が甘くしたところで、最終判断をなさるのはお父様なんだから、関係ないわよ」
そうやって注意する兄こそ、身贔屓してはいけないと躍起になりすぎるあまり、新王への点が必要以上に辛くなっている気がする。エドワードは昔から『オース小父さん』が大好きで、そんな彼の忘れ形見である新王との特別な『絆』を望んでいないわけがないのだ。……頑なな反発は、募った憧れの裏返し。
(とはいえ、私たちの方から接触するわけにもいかないしね。……こればっかりは、陛下の方から私たちに気付いてくださらないと)
エルグランド王家とクレスター伯爵家の間にある、奇跡のような『友情』。先代王オースターと、兄妹の父デュアリスがそうだったように、叶うのであれば現王と兄も、互いが唯一無二の存在となれたら良い。『悪の帝王』であるクレスター伯爵家の絡繰りに、いつか新王陛下が気付いてくれれば。
新王の『抜けっぷり』をぶつぶつ語るエドワードに苦笑いしながらも付き合っていると、裏口の扉がぱたんと開いた。同時に顔を上げると、実に頼りになる侍女、リタが怒りの笑顔を浮かべて立っている。
「――お二人とも、いつまで話し込んでおられるのですか。夜会までもう時間がございません。すぐに湯を浴びて、お着替えなさいませ!」
反論しようもない雷に、クレスター兄妹はそれぞれの『悪人面』をしゅんとさせつつ、即座に従った。
**********
降臨祭期間は昨日で終わり、本日は森月最終日。――それはつまり一年の終わり、新しい年の幕開けを意味する。
降臨祭で十日間お祭り騒ぎだった王国民だが、年越しと新年は打って変わって静かである。森月最終日は祭りの片付けをしつつ、夜は家族で年越し料理を楽しみつつ過ごし。新年はそれぞれの集落で集まるところもあるようだが、やはり基本は家族、隣近所同士でのんびりするものとされている。敬虔なアルメニア教信者は、新しい年を迎えられたことを神に感謝するため神殿へ赴くそうだが、この国でそれが少数派なのは間違いない。
が、それはあくまでも一般の民の場合。貴族たちの新年の迎え方は、王宮で朝方まで続く夜会である。言葉に若干の矛盾が生じているが、夕方から始まり夜通し続く会なので、やはり『夜会』だ。
そして貴族の社交である以上、クレスター家にとっては楽しみよりも『仕事』の側面が強いわけで。派手なドレスでばっちり武装した『氷炎の薔薇姫』として、ディアナは今夜も夜会をあっちこっちしていた。『年迎えの夜会』は二度目だが、去年は先王陛下の喪中だったこともあって、装飾も最低限のひっそりとしたもの。ここまでひっそりするなら、もういっそ夜会そのものを自粛すれば良いのにと思ったことを覚えている。
……実は『年迎えの夜会』には、国王が臣下へアメノス神の恵みを分け与えるという神事的側面もあるので、喪中くらいでは中止にならないのだが。ディアナがそれを知るのは一年後のことである。
(通常の『年迎えの夜会』はこんなに華やかなのね)
美々しく、けれども品よく飾り付けられた王宮内とホール。料理も豪華かつ美味なものばかりで、出されるお酒も一級品揃い。音楽隊も数が多く、腕の方も申し分ない。さすが王宮、この一言に尽きる。
誘われるまま踊っては、たまに不埒な『逢い引き』の申し出を蹴飛ばして。夜会を楽しんでいる令嬢を装いつつも、ディアナがしているのは紛れもない諜報だ。去年一年ですっかり定着した悪名高い『氷炎の薔薇』を誘う相手の内実は何か。会話と態度から探りつつ、さり気なくホール全体も把握して、現在の王国貴族がどのような状態にあるのか推測する。……とはいえまだ二年目のディアナは、せいぜい表層を読み取れる程度だが。
まだまだ慣れない社交諜報を、外面のみ余裕のはったりを効かせてこなしているうちに、あっという間に時間は過ぎて。
「ディアナ、ここにいたのか」
「お兄様」
さすがに疲れ、飲み物片手に休憩しているところで、エドワードと合流した。自らも給仕から飲み物を受け取り、エドワードはディアナの横に並ぶ。
「疲れたか?」
「……少し。これほど盛大な会も久々ですから」
「あぁ、通常の王宮夜会は去年のデビュタント以来だったな」
「わたくしも失念していましたが、そうでした」
オースター王が崩御されたのは、去年の秋。通常王の喪は一年で、その間はあらゆる会は簡素なものにしなければならない。王宮で開かれる三つの夜会のうち、ディアナが経験したことのある『普通』はデビュタントしかなかったのだ。デビュタントのときも無駄な豪華さに面食らったが、『年迎えの夜会』は『シーズン開始の夜会』とはまた違った華やかさがある。
ホールの中央でくるくる回る人々を何となく眺めていると、遠くから独特な音が聞こえてきた。一つが呼び水になり、重なって響き合って、やがて王都中に新年を告げる鐘が鳴り渡る。
微笑んで、ディアナは兄と向き合った。
「――新しい年の訪れを、お祝い申し上げます。今年も、アメノス神の恵みが、あなたとともにありますように」
「ありがとうございます。あなたにも、この上ない幸福が訪れますよう、お祈りいたします」
新年の挨拶は、十二回の鐘を聞き終えたそのとき、最初にいる人とまずは交わすものとされている。ホールでもこのときばかりが音楽が止まり、皆がそれぞれに挨拶を交わし合っていた。
この、親しい相手でも初対面でも変わらずに、お互いに相手の今年一年の幸福を祈り合う瞬間が、ディアナはとても好きだ。単なる定型文であっても、誰かの幸せを願う言葉はとても綺麗だと感じる。
若者たちを中心に、挨拶を終えた者からホールを出ていくのを見て、ディアナはきょとんと首を傾げた。
「……珍しいですね。普通、王宮での夜会を途中で切り上げてお帰りになるのは、お年を召した方々だと思うのですが」
「ん? ……あぁ、アレか。ホールからは離脱してるが、あの顔ぶれを見るに家に帰るわけじゃないと思うぞ」
「では、別室に集まって仲間同士で過ごすと?」
「そうする奴らもいるだろうけど……」
兄の歯切れは非常に悪い。そこまでもったいぶられると、却って気になるのが人間なのに。
悩むエドワードを置いて、ディアナは歩き出した。一拍遅れ、慌てた兄の声がする。
「待て待て、ディアナ。どこへ行くつもりだ?」
「どこって。お父様とお母様、叔母様にも、新年の挨拶をしなければなりませんでしょう」
「あぁ、そっちか」
「――それから、出て行かれた方々がどこで何をなさっているのか、少し覗いてみようかと」
「その好奇心は片付けろ!」
「できるわけないことを仰るのはお止めくださいませ。わたくしたちから『好奇心』を取ったら、割と歪なものしか残りませんわよ」
「……否定できないのが痛いが。ってディアナ、待て!」
待てと言われて待つ人間は、古今東西どこにもいない。
すたこら歩くディアナをエドワードが追いかけ、途中で無事家族とも合流して新年の挨拶を交わした後、ディアナはホールから飛び出した。まずはどこから見に行こうか、と考えたところで。
「ずっと殴りたかったんだぁ!」
「何だと!? 女を取られたくらいでうだうだ騒ぎやがって!」
「彼女は僕の運命のひとだ!」
「金と貢ぎ物でなびく『運命』かよ。安いもんだな!」
……考えるまでもなく、ホールから出たまさにその先で、殴り合いの喧嘩が勃発していた。事情を叫びつつ遠慮なく拳が飛び交っているので、とても分かり易い。
最終的には『彼女にどれだけ貢いだか自慢』をしながらの拳闘みたいになった、見知らぬ男二人をぼうっと眺め、ディアナはぼそりと呟く。
「ていうか、そこまでお金と贈り物をしないと振り向いてくれない女の人なんて、常識で考えてかなりの不良物件だと思うんだけど、そこは良いの?」
「殴り合ってる当人たちが気にしてないんだから、突っ込んでやるなよ。男にとっちゃ、贈り物でどれだけ女を満足させてやれるかは、一種の階級でもあるし」
「そういう甘いこと言うから、『男にはたかって当然』な女がつけ上がるのよ。恋人からのプレゼントが嬉しいのは、その人の心が籠もっているからでしょ? 好きな相手が一生懸命選んでくれた贈り物だから嬉しいのであって、値段や品物の善し悪しなんて関係ないのに。どれだけ貢がれたかで恋人をコロコロ換える女は、愛情をお金でしか測れない感性の持ち主よ。お金が全てだから、どれだけ真心を尽くしても報われないし。……そんな人のどこが良いの?」
保護者よろしくくっついてきた兄に、うっかり素に戻って問いかけた。ディアナの貴族ぶりっこは、去年一年頑張ってそこそこ定着したけれど、気を抜くと剥がれる。
割と真剣に頭を捻ったディアナに、兄の方は涼しい顔だ。
「俺にもよく分からんが、あれだけ殴り合うくらいだ。あいつらにしか分からん良さがあるんだろうさ」
「ふーん。まぁ、人の好みは千差万別って言うけどね」
本人たちが納得の上で殴り合っているのなら、確かに外野がとやかく言う筋合いではない。兄妹は恋人へのプレゼントについて語りつつ、廊下を渡って庭の方へ消えていった。
――ところで、ディアナの最初のツッコミこそ小声の呟きでも、その後の兄妹の会話は普通の音量で行われていたわけで。ディアナの理路整然とした『貢がれ女への批判』は、殴り合っていた本人たちにも届いていた。会話の途中で拳も止んでいたのだが、喧嘩そのものへの興味関心はゼロだった兄妹は気にしていなかっただけだ。
「今のって……クレスター兄妹、だよな?」
「うん。……けど、兄も妹も、普段と態度がまるで違ったけど。二人きりだとあんな感じなの?」
「ていうか、声は変わらずの悪人風情だが、言ってることは至極まともだったぞ。確かに……あれだけ貢がないと振り向いてくれない女は、普通じゃない」
「そう、だよね。顔が綺麗なのと、上手に持ち上げてくれるのとで、高価なプレゼントをねだられることはあんまり気にしてなかったけど」
「……なぁ、俺、あいつと別れるわ」
「僕も……彼女を追いかけるの、止めるよ」
「お互い、女を見る目磨こうぜ」
「そうだね。次はプレゼントの値段じゃなく、そこに込めた気持ちを喜んでくれる子を探そう」
ざっくばらんな兄妹は知らない間に、タチの悪い女に引っかかった若者二人を救った、のかもしれない。
そんな一幕は知らず、中庭に降りた二人は今度こそ、物陰に隠れて小声で口喧嘩する羽目になる。
「こういうことなら、最初から言ってよ!」
「どう言えってんだ! 『新年の王宮はいつもより男と女がオープンになっていちゃつくから、庭には降りるな』とでも言えば良かったのか? あのお上品なホールで!?」
恋人同士が王宮主催の夜会でらぶらぶモードに突入するのは、ディアナも知っていた。婚約がまだでも『お付き合いがある』と周囲にそれとなく知らしめるのも、貴族の社交術だ。そうやっていちゃつく恋人の中にはお互いに忙しくて、堂々と会えるのがそれこそ王宮の夜会くらいな人たちもいるそうだから、そこに文句をつけるつもりはない。
が。誰に見られるかも分からない王宮の庭で、キスくらいならまだしもそれ以上に及ぼうとしている男女の姿をうっかり目撃してしまった十六歳乙女の心情も、誰か汲んではくれないか。遠目で、普通に知らない人だったから、思わず物陰に隠れて兄に八つ当たる程度で済んでいるけれども。
八つ当たられたエドワードとて、もちろん黙ってはいない。『賢者』の末裔らしい正論で切り返してくる。
「だいたいだな。王宮夜会の日の中庭が、恋人たちの逢い引きスポットなのは常識だろう。生け垣で入り組んでるから、それぞれの空間が個室みたいになってるし」
「それは分かってるけど。せいぜいお喋りくらいだと思ってた」
「……まぁ、開始と終了の夜会に関しては間違ってない。が、『年迎えの夜会』はなんて言うか、いつもよりあちこちでテンションがおかしいんだよ」
「だからって、野外であんなことする?」
「ディアナ。人の趣味嗜好も、千差万別だ」
世の中には野外プレイなるものも存在するとは、エドワードは言わなかった。男女の交わりについて最低限の知識しか持っていないディアナには刺激が強いと判断したのだが、そうしてエドワードが過保護にディアナからその手の情報を遠ざけ続けた結果、彼女がその分野に疎くなったのだという自覚は兄にはない。
基本的に素直なディアナは、兄の断言に「そうなんだ」と納得し。しかしそれとこれとは別だと、ため息を吐き出す。
「あのね。そういうのが好きな人は、心の準備なく現場を目撃するかもしれない誰かにも配慮して、もうちょい奥まった、死角の多い場所でコトに及ぶべきだと思うの」
「個人的には、その意見にも全面的に賛成だが……」
野外プレイについて論じていてはキリがない。エドワードはディアナを促した。
「俺が口ごもった理由は分かったろ。ホールに戻るぞ。新年を迎えた王宮じゃ、ある意味ホールがいちばん安全だ」
「中庭からは全力で脱出したいけど、まだ庭園広場とか、見てない場所は沢山あるわ」
「……ディアナ」
「それよりお兄様。私に構っている暇があるなら、これだけ恋人同士がいちゃつける場所に、どうしてお義姉様を誘わないのよ」
すったもんだの大騒ぎを繰り広げ、ようやく婚約まで漕ぎ着けたエドワードと義姉のクリステルは、お互いが抱える特殊な事情をどうにかするまではと、まだ公には婚約を発表できていない。というか、クレスター家が勝手にクリスを未来の嫁扱いしているだけ状態だ。
ただでさえ、本来なら思う存分いちゃつける降臨祭に逢えていないのだから。王宮夜会でも二人の関係を周囲に悟られないよう、互いに遠目で存在を確認するだけだったのを、ディアナはちゃんと知っている。
お節介バンザイなディアナの指摘に、エドワードは苦い顔になった。
「別に、逢おうと思えばいつでも逢える」
「今夜のお義姉様、お綺麗だったわね。いつもは凛々しいけれど、あぁやって令嬢風に装われると、楚々として可愛らしい女性に早変わり。……結婚適齢期だし、お兄様との関係なんてごく一部の人しか知らないんだから、きっとあちこちでお声が掛かるわ」
「……何が言いたい?」
「社交デビューして二年目の小娘にすら、『一夜の火遊び』を持ちかける輩がごろごろしてるんだもの。ひょっとしたら火遊びじゃなく、本気でアプローチ掛けてくる男性もいるかも」
「お前は、クリスが、そんな輩になびくと?」
「まさか。私はただ、知らない間にお義姉様がおモテになるの、お兄様は嫌なんじゃないかなーって」
初恋もまだのディアナにとって、恋愛に関する知識を仕入れるのはもっぱら、書斎にある恋愛小説で。どんな本を読んでも、ヒロインに言い寄る男にヒーローが嫉妬を爆発させる展開は必ずといって良いほど出てくる。リタに以前話したら、「そういうのを『お約束』というのですよ」と教えられた。
『お約束』に則るなら、こういう言い方をすればヒーローは動かずにはいられない、はず。
「……いいか。ホールに戻るんだぞ。新年の王宮は、若い女にとって危険地帯なんだからな!」
「はーい、分かりました」
よい子のお返事をして、足早に中庭から去る兄を見送った。『いつ』ホールに戻るかディアナは言及しなかったのだが、エドワードともあろう者がそんな初歩的な穴を見逃すとは、恋愛小説的『お約束』、恐るべし。
「さ、てと。次は噴水広場ー」
一人になり、足取りも軽くディアナは中庭を立ち去った。――その後彼女があちこちで出くわした貴族たちの奇行は、数え上げるだけで夜が明けるほどに膨大だったので、ひとまずは割愛して。
――うん、新年の王宮は、ただの混沌空間だ。
一通りの場所を見て回ったディアナが抱いたのは、そんな身も蓋もない感想だったとだけ、記しておこう。
ディアナがのんびりと、『普通』の年迎えの夜会を楽しめたのは、これが最初で最後になるのだが。未来を知る術など彼女にはなく、今はただ、新しい年への希望を抱くばかりであった。
† † † † †
調理場で皿洗いをしながら、新年を告げる十二回の鐘を聞いたシェイラは、鐘が響く間だけ手を止めて、新しい年に思いを馳せた。
(年が新しくなれば何かが変わる……なんて。希望を持つだけ、虚しいけど)
いつだって忙しかったけれど、いつだって自分を大切に慈しんでくれた父。貴族の社交デビューだって過不足なく整えてくれて、「若い頃のお母様にそっくりだ」と涙ぐんで喜んでいた。……あの幸せがいつまでも続くと、数ヶ月前までは疑っていなかったのに。
いつものように商品の買い付けのため海へ乗り出した父は、シェイラの知らない間にこの世の人ではなくなっていた。突然の知らせに呆然としているうちに、どこから話を聞きつけたのか、祖父に勘当されたはずの叔父が戻ってきて、カレルド家の当主となって。父が、祖父が、必死に大きくしてきたカレルド商会を、何の躊躇もなく売り払ってしまった。生まれたときから親しんでいた家人たちにも暇を出し、戸籍上は養女としたシェイラの実際は、給金の要らない召使い。朝から晩までこき使われて、満足に食べることも眠ることも許されない。
父を亡くした哀しみと、急変した現実に涙して。けれど、どれだけ泣いても日々は続いていくと気付いて、それなら泣きながらも自分の足で立たなければと思った。……ずっと、カレルド家の総領娘として大切に育てられてきたシェイラには縁のなかった、掃除や洗濯にだって真剣に取り組んだ。
足掻いても、足掻いても、変わらない毎日。商会も無くなって、身分だけは貴族だけれど社交にすら出してもらえない。何の力もないこんな自分に生きる価値はあるのかと、ひもじくて眠れない夜にふと思うこともあるけれど。
(……それでも、新年の鐘は希望を告げる合図だ、ってお父様はよく言ってた)
甘い望みだということは分かっている。けれど、自分にはまだ、鐘の音を聞いて希望を抱けるだけの余裕があるではないか。
去年の新年は、父が自分の幸福を祈ってくれた。今年は一人で迎えたけれど、その思い出がシェイラを支えてくれる。
「新しい年の訪れを、お祝い申し上げます。……今年も、アメノス神の恵みが、ともにありますように」
静かに呟いて、少女は皿洗いを再開させる。
『新しい年に、何かが変わってほしい』――彼女の願いが叶うことを知っている者は、今はまだ、誰もいない。
† † † † †
お世辞にも壮麗とは言い難い田舎の神殿にも、いちおう鐘はついていて、新年を告げる鐘を鳴らす神官もいる。
一つの鐘が十二回鳴り、山びこ効果で重なって聞こえるのも、趣があると言えばあるのかもしれない。
どこか遠い目をして鐘を聞き終えた父が、くるりとこちらを振り返って口を開いた。
《明けましておめでとうございます》
《本年もよろしくお願いいたします》
毎年の恒例なので、これだけはおそらく本国の人並に綺麗な発音ができているはずだ。……これ以外に父の生まれ故郷の言葉を知らないのもどうかと思うけれど。
少し長く息を吐いて、カイは首を傾げた。
「毎回思うんだけどさー、これってどういう意味?」
「ん? 意味そのものは、エルグランド王国の挨拶とそう変わらないと思うぞ。新しい年を祝う言葉と、新しい年もどうぞよしなに、といったところだ」
「そうなんだ? なら、別にこの国の言葉で挨拶したって」
「それはそうなんだが」
息子の素朴な疑問に、父である黒獅子――ソラは苦笑した。
「《明けましておめでとう》、この一文を上手く訳せなくてな。直訳すると、非常に語呂が悪い」
「エルグランドの挨拶に比べると、ずいぶんと短い気はするね」
「この国の新年の挨拶は、アメノス神を絡めるだろう。別に彼の神に恨みはないが、俺の信仰する神は他にいるからな。たかが挨拶ではあるが、俺の神を裏切るような気がして、あの言葉を口にする気にはなれない」
「父さんって信心深いよねー。俺も自分をアルメニア教の信者だとは思ってないけど、かといって他に神様がいるわけでもないし。……父さんの国の人って、みんな信仰に熱心なの?」
ソラは笑って首を横に振る。
「国教的なものがあるにはあるが、この国に負けず劣らず民の多くは適当だ。神職でもないのに拘っている、俺たちみたいな者の方が珍しい」
「あ、父さんは少数派なんだ。なんかスゲー堅苦しい感じの国を想像してた」
「俺みたいなのしかいない国なんて、俺も行きたくないな」
「行きたくないとまでは言わないけど、信仰心って拗らせると面倒だから、対応が難しそうだとは思うよね」
数は少ないが、この国にも熱心なアルメニア教の信者は存在する。中には熱心すぎて、自分の解釈する『アメノス神』と違う姿を描いた壁画の神殿に火をつけて回るような危ない者も。依頼されてそいつの捕縛に立ち合ったカイは、『拗らせた信仰心はめんどい』とつくづく思ったものだ。
父親はただ信心深いだけなので、話していても面倒だと思ったことはないけれど、宗教が一般層にも広く浸透しているような国ならば、それだけ『狂信者』も多いだろうと思っていた。が、父の生まれ故郷も、神様に対するスタンスはこの国とあまり変わらないらしい。
少し気になって、珍しくカイは踏み込んでみることにした。
「父さんが信じているのは、どんな神様なの?」
「……珍しいな、お前がそんなこと聞くなんて」
「話したくないなら、別に良いけどさ。ちょっと気になったから」
「話したくないわけではないが。……複雑な心地には、なる」
呟いて、ソラは上空に浮かぶ月を見上げた。柔らかな光を放つ月は、どこか微笑ましげに、語り合う親子を見下ろしている。
「……そうだな。一言で言えば、あの月のようなお方だ」
「月……?」
「明るい日の光の中では、慎ましやかに白く。夜の闇の中では、寄り添うように優しく。見上げればそこにいて、いつも――いつでも、見守ってくださる」
「……それって、今も?」
「あぁ。――感じているよ、いつも。あの方の心が傍らにあるのを」
だからこそ申し訳なくて、複雑なのだがな……と囁いて、ソラは笑った。
「カイ。お前は、俺みたいになるなよ」
「……どういう意味?」
「本気で心を傾けて、大切に守りたい存在ができたなら。そこにどんな障害があろうと躊躇うな。……引き離されてから、守れもしない相手の心だけを感じ取れるようになったって遅いんだ」
いつも穏やかな父の黒曜石に一瞬だけ浮かんだのは、焦燥と絶望。彼が故郷に残してきたのは、今でも狂おしいほどに求める存在で、なのにどうしたってそこに辿り着くことはできないと。
詳しく聞いたことはないけれど、ソラが来たくてエルグランド王国に来たわけではないことは、これだけ長い時間を共に過ごせば感じ取れる。……帰りたくとも帰れない、ソラですらどうにもできない『理由』があるらしいことも。
何か自分にできることはないかと尋ねたところで、不器用な父親が「子どもがそんなことを気にするな」と返してくるのなんて分かり切っているけれど。……それでも、父のために何かしたいと思うのは、息子としてそこまでズレていないのではなかろうか。
――とりあえず、今は。
「どうかなぁ。そこまで執心できるような相手ができるとは、ちょっと思えないけど。今は毎日、何とか過ごすことで精一杯だし」
「心が傾くのは一瞬だぞ。傾くというか、あれは堕ちる感覚に近いな」
「父さんも、そうやって『神様』に堕ちたんだ?」
「……神様、に含みがあるような気もするが、まぁそういうことだ」
久しぶりに父とゆっくり過ごせる時間を、明るく楽しいものにしよう。
月に見守られながら話す獅子親子の、これが激動の一年の幕開けだった――。
† † † † †
舞台は再び、王宮へと戻る。若者たちが抜け出し落ち着いたホールを、一段高い席からこの国の若き新王、ジューク・ド・レイル・エルグランドが眺めていた。彼の背後には、王を守る近衛騎士団の団長、アルフォード・スウォンが静かに控えている。
新しい年を迎え、穏やかに談笑する人々を眺めながら、アルフォードの顔色は冴えなかった。
(ついに、年が変わってしまった……。後宮の告示が始まる)
先王陛下の喪中を口実に、ジューク王への「正妃を決めろ」という声を封じ込めてきたが、喪が明けてしまえばアルフォードでも止められない。王にはまだ正妃を娶るつもりはなく、内務省との話し合いは平行線のままだったが、少し前にあちらが変化球を投げてきたのだ。――曰く、「それほど愛する女性との結婚をお望みなのでしたら、後宮を開設して心惹かれるお方を見つけてはいかがでしょう」と。
内務省の高官たちは「正妃になりたい令嬢を募る」と大口を叩いたが、おそらくそんな望みを抱いている娘は少数派だ。王は王で、「後宮を作れば正妃を決めろと言われなくなる」という目先の楽に囚われて、その提案に頷いてしまった。王が後宮に興味を示さなければ、その状況を打開するべく未婚の令嬢がどんどん集められるのは、今の内務省の中心人物たちのやり方から考えても明らかなのに。
先代オースター王とリファーニア妃は、臣下の目から見ても仲睦まじい夫婦だった。そんな二人を『理想』とするジューク王は、愛する女性に愛されて夫婦になりたいと、そこだけは譲れないと言い切っている。……王を心身共に守るのが近衛の務め、王が望むのなら可能な限りで力になりたいとは思うけれど。
(……今の王国の政情を考えても、下手を打つと後宮が嵐の発生源になりかねないよな)
どう動くのが、王国と王にとって最善なのか。いつもなら頼れる親友エドワードも、今のジューク王が関わる重大事に手を貸すことはできないだろう。……考えるほどに、頭が痛くなる。
「……正妃になることを望む者、か。くだらん。正妃の地位だけを欲する女など、愛せるものか」
貴族たちからの挨拶を受けるだけ受けて、それからはずっと無言で椅子に座っていた王が、ふと呟いて立ち上がった。表情を引き締め、一歩近づく。
「いかがなさいましたか、陛下」
「疲れた。少し休みたい」
「承知いたしました。控えの間を整えておりますので、ご案内いたします」
「助かる。……団長」
静かに呼び掛けられ、作法のままに頭を垂れた。
「は、何か」
「後宮にやってくるのは、どんな女たちなのだろうな」
「それは……」
「正妃狙いで入宮する娘など、最初から相手にするつもりはないが。……なら、どうすれば私は、愛し愛される存在と出逢えるのだろう」
「……きっと、いずれ。程良きときに、アメノス神のお導きがありましょう。焦ることなく、陛下は陛下のご正道を歩まれませ」
ふ、と王が笑った気配がした。一拍置いて、言葉が返る。
「あぁ。そう、だな」
後の歴史書に大きく記され、世界史に名を刻むことになる『ジューク王の後宮開設初年』は、こうして始まりのときを告げる――。
現在本編で出番のない仔獅子含め(笑)、楽しんで頂けましたでしょうか。
2016年が皆様にとって、素晴らしい一年となりますように!