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一橋孝太郎の朝は、非常にゆったりしたものだった。
目を覚ますのは、平日休日を問わず、いつも同じ時間だ。
体を起こせば、すぐにまた目をつむる。そこから十分間ほど、深くゆっくりと呼吸のみを繰り返した。
聞いてもいないのに、コウタロウは瞑想なのだと言い張っていた。
そのあとは短時間のウォーキングを行った。ジョギングやランニングなどではなく、ただただゆっくりと、体の状態を感じながら歩くだけ。そうやって、体をじょじょに覚醒させていくのだ。
プロを目指しているくせに悠長だ、と受け取られることが多かった。そう思わないのは、家族とコーチの佐々くらいだった。
そういった世間の思惑は別として。
タカコには静かに流れるこの時間はとても心地よく、またかけがえのないものだと思えてならなかった。
昼時。
陽がさんさんと降り注ぐ中、孝太郎と佐々の二人は午前中のシメとしてショートラリーを行っていた。
土日は基本的にテニスのレッスンはなかった。けれども大抵の場合、一橋孝太郎はテニスに明け暮れていたようなので、タカコもそれにならうことにしていた。
「よし、ここまで」
佐々はボールを止めた。
二人はコートを出てからも、入念に、時間をかけてクールダウンを続けた。
テニスをはじめたばかりのころ、一橋孝太郎はもっぱら一人で自主トレに励んでいたらしい。
いつしか佐々がそこに加わった。
ほかに受け持っている生徒のレッスンがない時間帯限定ではあったが、時たま付き合ってくれるようになった。去年の夏を過ぎた辺りからは、終日、付きっ切りで相手をしてくれるようになったという話であった。
明らかに特別扱いだった。ほかの生徒などから苦情は出ないのだろうか。
クールダウンの過程で口まで軽くなってしまったのか、孝太郎はふと浮かんだ疑問を口走っていた。気づいたときには後の祭りであった。
「おっまえ、今さらそこを聞くのか」
佐々はコーチング中を除けば、非常にフランクで取っつきやすい。三十も半ばと親子ほど年は離れていたが、コウタロウは兄のように慕っていた。
「んー……」
佐々は頭をかいていたが、やがて、
「まあ、あのころは俺もまだまだ新人だったし、コーチとしての実績は何もなかったからな。苦情なんかは散々言われたし、コーチ仲間からは白い目で見られもしたさ」
予想はしていた返答だったにもかかわらず、孝太郎は言葉を失った。
「あっ、昔の話だからな。今は違うぞ」
孝太郎はうなずいた。そこも想像できた。問題がなくなったからこそ、こうして堂々と付き合っているのだろう。
「そんなことより、だ」
佐々は話題を変えようとした。
「孝太郎のほうはどうだ? 結構経ったし、何か進展でもあったか」
「え?」
「しらばっくれんなよ。俺が気づいてないとでも思ってるのか?」
孝太郎の体がこわばった。
入れ替わりのことがバレているのかもしれない。武人という前例もあった。さすがに、コーチングの方向性まで任せきりにしたのは怪しかったか。
孝太郎がどう切り抜けようかと考えをめぐらす最中、佐々は、
「女だよ、お・ん・な。いるんだろ、好きなヤツが」
想像だにしなかったことを口にした。
孝太郎はあっけにとられた。自分でも、間の抜けた表情をしているのが手に取るようにわかった。
「孝太郎さ、どうしても入りたい高校があるって言って、勉強のためにテニスの時間まで削ってたろ」
佐々はニヤニヤと笑っていた。
「そんなことされりゃ、言わなくったってわかるさ。で、告白くらいはしたのか?」
「あ……う……」
言葉が出てこない。孝太郎の頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。
「……まだっぽい、な」
反応を見た佐々は、そう見当をつけた。
「まあ、あれだよ。よしんばうまくいったとしても、その子が孝太郎の夢をちゃんと理解してついてきてくれるかは別問題だしな。慌てずに、じっくりやればいいさ」
そのフォローは孝太郎の耳には入っていたが、タカコにまでは届かなかった。
「そっか。佐々コーチがそんなことを」
「ごめんね。勝手に踏み込んじゃって」
孝子の目には、孝太郎が意気消沈している風に映った。
「いいよいいよ。えっと……あっ、ワタシも、聞いてみたいと思ってたことだし」
「ふふっ。じゃあ、そういうことにしとこうかな」
「えっ、そういうこと?」
あはは、と孝太郎の笑い声が社殿の中でひびいた。
二人が話すのは、日常のたわいない出来事。ただ楽しんでいるようにも見えるが、れっきとした目的があっての行為だった。
お互いの日常の話を交換しあうのは元に戻れたときに困らないため。経験したはずの出来事を知らないといった状況を防ぐためであった。
ただ、それだけが目的ならばそこまで念入りにしなくとも、戻れたときに要点だけ話せば事足りるはずだ。
やはり二人は、単純に楽しんでいるだけなのかもしれなかった。
今は、先だっての佐々とのやり取りを孝太郎が物語っている場面だった。
「あんな質問くらい、いくらでもはぐらかせたと思うけど。あの佐々ってコーチ、ずいぶんと正直な人なんだね」
「たしかに明け透けだよね。佐々コーチって」
「うそとか、つけない人なのかな」
「みたいだよ。そのせいで、しょっちゅう彼女を怒らせるってなげいてるし」
なんだかもったいないよね、と孝子は苦笑した。
話に乗っかるようにさらっと、孝太郎は、
「その彼女と別れたって言ってたよ」
「ええっ?」
孝子は仰天した。信じられない、といった表情をしていた。
なぜ、孝太郎はそんな話まで知っているのか。実を言うと、佐々とのあのやり取りには、まだ続きがあったのだ。
孝太郎と佐々はあれ以降もクールダウンを続けていたのだが、孝太郎は結局、最後まで上の空だった。
佐々は、孝太郎がすでに玉砕したあとで、地雷を踏んでしまったのだと思うようになった。誤解が解けたのはずいぶんと経ってから。言うなれば、なぐさめるつもりで自身の破局話を口にしたのだ。
結論を言うと、孝太郎は立ち直った。たが、佐々にとっては厄介なことに、孝太郎の食いつきが思いのほか良かったのだ。
さすがに佐々は理由をごまかした。しかし、孝太郎は信じなかった。
これには佐々も驚いた。そして。
孝太郎の感じが最近は違うということもあって大丈夫だと思ったのか、佐々はあっさりと白状した。
佐々は一方的に振られたのだという。
テニスにかまけて、彼女との時間をないがしろにしていたツケが回ったのだ。
積もり積もった不平不満を一気にぶちまけられたあげく、「テニスきちがい」と罵倒までされたらしい。
彼女に甘えすぎていた。何より、あんな言葉を吐かせてしまうほど追い詰めていたことを、佐々は後悔していた。
話し終えたあと佐々は再三にわたって、「気に病むなよ」と言っていた。
語っている間、慎重に言葉を選んではいたが、一橋孝太郎のことが原因だというのは明白であった。
「お互いに納得ずくで別れた」と孝子には伝えた。
「……仕方、ないんだね」
「好きなだけじゃ一緒にいられないんだよ、たぶん」
「なんだか、悲しいね」
うつむきがちに孝子はつぶやく。彼女の持つ艶っぽい瞳は、少しばかり潤んでいた。
若干の間のあと、
「ねえ。こ、孝太郎君」
どこか照れくさそうに、孝子が名前を呼んだ。孝太郎は視線を戻した。
「どうして、そんな話題になったりしたの?」
当然といえば当然の疑問だった。
「えっ、と……確か……」
言いよどんでいたかに見えた孝太郎は、次の瞬間には、
「忘れちゃった」
あっけらかんと言った。
「エッ」
「あははっ、何その変な声。心配しなくても問題ない話だったと思うよ。なにせ、私が覚えてないくらいだし」
「そ、そっか。なら、いいんだけど」
孝子はすんなりと納得した。
「そんなことより、市村さんのほうは何かあった?」
話を振られた孝子が語ったのは、両親の言いつけはきっちりと守っているということと、あとはせいぜいが武人とのこと。孝太郎側とは異なり、雀の涙ほどの量でしかなかった。




