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市村孝子として日々を送るコウタロウは、悶々としていた。
夕食前。
孝子は、課されたノルマを果たすために問題集を解いていた。
しかし、まったく手につかない。
机に突っ伏したり、背もたれにもたれかかって天井を仰ぎ見たりしても、気は一向に晴れなかった。
結局孝子は集中することをあきらめ、ベッドにうつ伏せで寝転んだ。枕に顔を押し付けたまま、
「うー」
持て余した欲求に身もだえる。
テニスはおろか、体を動かすヒマさえないというのは、この上ないほどコウタロウの精神をさいなむものであった。
しばらくすると、孝子はのそのそと起き上がった。目元をぬぐい、
「よし、やるぞ」
自らを鼓舞した。
タカコに迷惑をかけることだけは、絶対に避けたかったのだ。
ノルマはその後、どうにかこうにか時間内に達成できた。
孝子はほっと息を吐いた。
コウタロウにとっては、その日のノルマをこなすだけで精一杯だった。タカコのように効率よく、ほかの日にやる別教科の分まですませてしまえるほど、頭は良くなかった。
ダイニングでは、ちょうど、孝子の夕食の支度が整ったところであった。
「終わったの」
市村孝子の母親、美貴の声は、コウタロウにとって、どこか冷たさを感じさせるものだった。
「終わりました」
孝子は持ってきた問題集を母に渡した。
「なら、さっさと済ませなさい。もうすぐ亮介さんが帰ってくるから」
「はい」
孝子は席に着いた。針のむしろに座るような心持ちだった。
母親は問題集に目を通していた。ごまかしは許さないといった様子で、徹底的に。
「いただきます」
気を取り直した孝子が手を合わせる。時間を浪費すれば、きちんと食事を取るだけの余裕がなくなってしまうのだ。
一橋孝太郎が用事はないと偽って会っていたように、市村孝子にも隠し事はあった。入れ替わってしまったことで、コウタロウはその事実を知らされることとなった。
彼女が口にしていた門限とは、親が決めたものではなかった。ただ単に、夕食に間に合うギリギリの時間というだけのことだった。
彼女は平日、休みなく塾へと通わされている。しかも部活等は一切やらせてもらえないにもかかわらず、決まって遅い時間帯だ。
送迎は父親である亮介、もしくは母親が必ず行った。
学校が終わればすぐに帰ってくるよう指示されてもいた。実質の門限はこちらだといってよかった。
とはいえ、ノルマさえこなせるのであれば、帰宅が遅れても一応は問題ない。
だが、何日も繰り返すようなら、ただでさえ重いノルマを達成不可能なほど課される上に、専業主婦である母親が登下校の送り迎えまでやりだすのだということだった。
入れ替わって三日目、タカコは淡々と語った。
一人きりになったとき、コウタロウはなぜか涙が止まらなくなった。枕に顔をうずめ、声を押し殺して泣き続けた。
強制と自由意志という大きな違いはあれど、市村孝子と一橋孝太郎の生活サイクルは、どことなく似通っていた。あらゆる面で異なる今の生活において、以前と大差ない部分というのは、多少なりとも二人に安心感と心強さを与えた。
ほかにも共通点はあった。
自分たちだけ、家族とは同じ時間に食事を取らない。
コ食、とでもいうべきものだ。
「おかえり」
とは、テニスのレッスンから帰ってきた孝太郎に、両親が投げかけた言葉だ。一橋家では、帰宅時に留守でさえなければ、必ず返事があった。
「ただいま」
はじめのうちこそタカコは面食らっていたが、最近ではこういった些細なやり取りにも平常心で応じられるようになっていた。
それでも若干受け身なのは、相変わらずであった。
途中、リビングをのぞいてみると、母親はすでにキッチンへと消えたあとだった。父親と、少々年が離れた弟の孝次は、今もそろってテレビを見ていた。孝次はスプーンをくわえたまま夢中になっていたのだが、父親につつかれたことでようやく我に返った。
「あっ、兄ちゃん! お、おかえりっ」
声変わりもまだな甲高い声で言いつつ、慌ててスプーンとプリンの乗った皿を見えないよう隠した。一応、気を使っているのだろう。
嗜好品の類を、一橋孝太郎は一切口にしない。
プロの選手を目指すようになってから、自然と避けるようになったらしい。体を第一に考えた食事は、日々の生活でも徹底されていた。結果として献立も、家族とは別物になった。
嗜好品は食べず、献立も別。当初はお互い、驚きを隠せなかった。
「いいよ。気にせず食べな」
タカコ自身、美容に関心を持ってからというもの、嗜好品などは口にしなくなった。
今はレッスン後ということもあり、空腹感はあった。それでも、食べたいという気持ちは起こらなかった。
ほっとした様子の孝次はプリンを一すくい食べ、またテレビにかじりついた。
「太るよ。こんな時間に食べちゃ」
「兄ちゃんだってこれから食べるじゃん。それに太ったって、兄ちゃんよりおっきくなるから平気だもんね」
不意の突っ込みにも、孝次は平然と切り返してきた。
兄弟でこうも違うんだなぁ、と、孝太郎は思わず目を細めた。




