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 入れ替わりが起きた石段をのぼりきった孝子の息は、少しあがっていた。

「やっぱり、結構キツイなぁ」

 ついひとり言が出た。若干、膝も笑っていた。

 ここぐらいの石段、一橋孝太郎であれば屁でもない。だからこそ、この事実に孝子は少なからずショックを受けた。

 孝子が足を踏み入れたこの神社に、人の気配はない。

 静謐せいひつそのものだ。

 コウタロウは昔こそおっかないと敬遠していたのだが、今では大のお気に入りといえる場所だった。

 毎日のように顔を合わせてはいるが、一切関わらずに高校生活をこなす孝太郎と孝子。

 二人は久方ぶりに会う約束を取りつけた。孝子の側に、ようやく会えるだけの時間が作れたのだ。

 制服姿の孝子が社殿へと入った。スカートを押さえながら腰を下ろす。

 相も変わらず、赤面していた。コウタロウは人のいない場所ではいまだにこうだが、少なくとも人前では平静をよそおい、顔に出ないよう努めている。

 しばらく経って、

「おまたせ。市村さん」

 孝太郎が姿をあらわした。

「ぼ、ワタシも、ついさっき来たばかりだから」

 武人のことがあって以降、呼び方などは普段から外見のほうに合わせておこうと決めてあった。

「そっか」

 孝太郎がラケットバッグを下ろした。このあと、日課ともいえるテニスのレッスンがある。アカデミーへは神社からのほうが近く、そのまま行けるように準備を整えてから来たのだった。

 孝太郎はその場に座った。

「なんだか、久しぶりだね」

「うん」

 それっきり、会話は途切れた。もとより、話し込むだけの時間などなかった。

 これまでも決して多くはなかった二人きりの時間。それでも、市村孝子の都合さえつけば、二人は必ず会えていた。

 彼女の時間が許す限り、一緒にいた。

 一橋孝太郎が、自身にとって大切なはずのテニスの時間を割いていたのだ。彼女には内緒で。

 それはさておき。

 今回の話。直前になるまで伝える余裕がなかった孝子は、またの機会に、とあきらめていた。

 今日会うに至ったのは、孝太郎が、

「少しだけでもいいから会いたい」

 と言ったからだった。

 ややあって、

「気が詰まるよね。ウチって」

 つぶやくように、孝太郎が言った。

「ごめんね、あんな両親で。干渉がすごくて、プライバシーも何もあったもんじゃないでしょ」

 実際問題として、孝子は異性と話すことすら禁じられている。監視といっても過言ではないその行為のせいで、孝太郎側からは連絡を取ることができないのだ。

「へ、平気だよ」

「我慢してるよね」

「してないしてない」

 口早に答えた。

 不意にイタズラっぽい笑みを見せた孝太郎に、孝子はドキリとした。

「市村さんってさ、本当に素直だよね」

「へっ? な、なにが」

「なーいしょっ」

 あはは、と孝太郎は笑った。

「でも、鬱憤うっぷんが溜まったら遠慮なく言ってね。すっきりするから。ボクのお墨付きだよ」

 最後に孝太郎は、

「孝太郎君にばかり割を食ってほしくないの」

 ぽつりと、その本心を語った。


「テニス、楽しんできてね」

 送り出す際に孝子が口にしたのは、そんな言葉だった。

 とんでもない、と孝太郎はあのとき、思わず叫びそうになった。

 正直な話、血迷ったんじゃないかとさえ感じた。タカコからすれば、一橋孝太郎が受けるレッスンは「過酷」の一言に尽きた。

 一橋孝太郎が受けているのはジュニア育成のコース。あんな感じではあっても、プロの選手を目指していた。

 対するタカコにテニスの経験はない。どころか運動自体、体育でするくらいのものだ。

 詰まるところはスポーツに縁のない、ずぶの素人であった。気持ちが追いつかないのも、無理はなかった。

 アカデミーに着いた孝太郎が最初にしたのは、自身のコンディションを事細かくコーチである佐々行正(ささゆきまさ)に伝えることだった。

 情報を共有し、体と向き合ったところで、二人はともにコートへ出た。

 まず行うのは、ウォームアップを兼ねたショートラリーだ。

 サービスライン付近で打ち合うこのラリーでは、一球一球、ゆったりとした動きでていねいに打っていく。

 本来なら、ボールタッチ、フットワークなどを確かめつつ、心身の感覚をすり合わせてゆく。仕方のないことだが、現状は一橋孝太郎の体の記憶にすべて任せきりとなっていた。

 二人は少しずつ後ろへと下がっていく。

 お互いがベースラインに達したところで、佐々はボールを左右へと打ち分けはじめた。

 体が温まり、筋肉がほぐれるにつれて打ち分けの角度は広がり、球威も増していった。左右へと振り回される孝太郎は、常に佐々の位置へ返球していた。

 そんなラリーをしばらく続けたあと、

「孝太郎、フィニッシュ」

 佐々が返した甘い球を、孝太郎は思いっきり打ち込んだ。

 それが終われば今度は、佐々の返球を含めた全部の打球と自身の動きを反芻し、実際と一橋孝太郎が思い描く理想とのズレをあぶりだしていく。

 プレーのすべてを覚えておくこと自体は苦ではなかった。それでも、しょせんは門外漢でしかないタカコにとって、彼の体に頼れないこの部分に関してだけは今のところお手上げだった。

 コウタロウとも相談した結果、苦肉の策として、コーチの佐々に一任することに決めた。

 佐々はこの確認作業の間、基本的に口をはさまない。せいぜいが、孝太郎が見逃してしまったところを指摘する程度だ。自覚的にプレーを行えるよう、いつも孝太郎自身にやらせていた。

 だからこそ訝しみはしたものの、孝太郎たっての願いということもあり、佐々は承知した。

「最後のショット。あれな、打つ前からコースがバレバレだった。あれじゃ、いくら威力があっても台無しだぞ」

 精査がすんだら、ボレー、スマッシュの順番で同様のことを繰り返す。仕上げに、もう一度ラリーを行った。

 佐々は左右への打ち分けに加え、ベースライン際に落ちる深い球や、前へとおびき出す浅い球なども打つようになった。

 出てきたらボレーやスマッシュを打たせつつ、時にはロブで後ろへ走らせる。

 孝太郎は前後左右、コートの隅々まで走り回りながらも、佐々のもとへと正確に打ち返していった。

 これらの一連を、一時間ほどかけてじっくりこなした。

 時計の針は、十八時を回ろうとしている。三時間にわたるマンツーマンでのレッスンがはじまるのは、これからだった。

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