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 孝太郎の機嫌は悪かった。

 表にこそ出てはいなかったが、見る人が見ればすぐにわかる。

 現に、孝太郎の両親はすぐに気づいた。

 意外とわが子のことはよく見ているらしい。様子自体が変わったこともわかっているようだが、思春期だからと彼らは気楽に構えていた。

 不愉快さとは別に、気まずさも残っていた。

 昨日、入れ替わりがバレたあとのこと。

 久方ぶりに話せたからか、孝子と武人はさも楽しげに軽口を叩きあっていた。そういったノリの最中さなか、武人は何の気なしに孝子の肩を触れた。

 反射的に、孝太郎は武人の手を思いきり払いのけた。

 タカコは中学生時分の強姦未遂以降、どんなに些細であろうと男子に体を触られるのは、心が受けつけなくなっていたのだ。

 孝太郎は逃げるようにその場を去った。

 気がつけば、胸の辺りがもやもやしていた。

 日をまたいでも、それは一向に晴れない。集中できず、何をやっても身が入らないもどかしさは、余計に苛立ちをつのらせた。その苛立ちはもやもやを更にふくらませ、武人を前にした今、はち切れんばかりになっていた。

「彼女に会いに行かなくていいわけ?」

 市村孝子という名前は口にしない。教室など人のいる場所では、彼女の名前に反応した生徒が聞き耳を立ててくる恐れがあった。

「彼女、『友達』がいないから一人でいるはずだけど」

 対面に座り、パンの入った包みを破っていた武人は、

「だろうな」

 気にも留めない。

 自分で言ったくせに、孝太郎は不快感をあらわにした。

 武人はパンをほおばった。クラスの違う武人がここにいるのは、振る舞い方のアドバイスをしていたからだった。

 そもそもからして、タカコは一橋孝太郎をヘタレだと思っていない。気弱という印象こそ抱いてはいたが悪い意味ではなく、優しさからくるものだと感じていた。

 その受け取り方のズレが、振る舞いにも如実にあらわれていた。ヘタレを装う程度の器用さなら持ち合わせているのだが、他人から、特に異性から見た今の孝太郎は、思いのほか魅力的に映っていた。

 一橋孝太郎への評価に関しては、武人も同じだった。その上で、一橋孝太郎の容姿・性別・その他もろもろが、どれだけ他人の期待値を上げているかを詳細に語った。本来なら、その分だけ反動が大きいのだとも。

 幼少からの付き合いだけあって、武人はよくわかっている。そして、その理解の深さは、一段と孝太郎の胸を苦しくさせた。

「どっちにしろ、アイツとはもう会わないよ」

「はあ? どうして」

「あんまり状況が変わると、念願かなったときに困るんだろ」

「それは……そうだけど」

「昨日たっぷり話せたから、もう話せなくなってもいいんだって。アイツ」

「……タケトはいいの?」

「いいよ」

 平然と言ってのけた。

「アイツの力になれるだけで十分だ」

 孝太郎は武人を直視できなかった。胸のもやもやは、いつの間にかしぼんでいた。

 気を取り直した孝太郎は、その後、

「彼女を一人ぼっちにしないであげて」

 と武人に頼んだ。加えて、「気に病まず、楽にふるまって」との言づけも。

 安心感があった。コウタロウにすべてを委ねても大丈夫だと、確信を得た気分だった。

 しかし、武人が聞き入れてくれるかとなると話は別だ。

 市村孝子と関わるのなら、それがよほどの人物でない限り、ただ闇雲に顰蹙ひんしゅくを買うだけだ。行き過ぎた者に危害を加えられる恐れさえある。孝太郎はもとより、武人もそこは理解していた。が、武人はあっさり承諾した。

 結局二人は昼休みの間じゅう、教室で堂々とそのようなやり取りを行っていたのだが、怪訝に思う者は誰もいなかった。核心はぼかし、言い回しを変え、気取けどられぬよう言葉を尽くす二人の様子は、なかなかに見事だった。

 別れ際武人は、

「なんか似てるな。二人は」

 と評し、孝子も「気兼ねせず、自由にふるまってほしい」と言っていたと教えた。


 コウタロウは市村孝子の性質や周囲からの反応をよく理解していたのだが、残念ながら彼女のように立ち回るだけの器量がなかった。

 元々のりんとした隙のない振る舞いは、もはや見る影もない。

 当人なりにがんばってはいた。ことごとくが裏目に出てしまっていたが。

 隙だらけなそのさまは、「メッキが剥げた」などと噂されていたが、言い寄ってくる者はまだなかった。他校にまで知れ渡っていた彼女の評判は、彼らを怖気づかせるに十分だった。

 互いが互いの出方を窺うといった状況の中、武人はゆうぜんと踏み込んでいった。

 周囲の目には、唯一自身の成績を上回る孝子に対して突っかかっているとしか映らなかった。表面上、孝子は相手をするそぶりを見せず、完全な一人相撲だという印象のみを与えた。

 色めき立ったのは二の足を踏んでいた男子たちだ。彼らはこれ幸いとばかり、武人に詰め寄った。のだが、

「歯牙にもかけない相手を追い落としたところで、ソイツはなんとも思わないだろ」

「同じ立場になっても平気だってんなら、どうぞご自由に」

 たった二言で、下心にまみれた彼らの気勢はくじかれた。

 はたから見れば孝子と武人の間に親密な空気など微塵も感じないが、それでも武人へのやっかみは相当なものだった。

 桐沢武人は同年代の男子に比べて小柄で、少々体が弱い。運動はからきしで、腕っ節などもっての外だった。持って生まれた不遜な態度に「ブジン」と陰口を叩かれるなどは多々あったが、不思議と暴力を受けたことは一度もなかった。

 よほどうまく立ち回っているのか、はたまた弱みを握ることに長けているのか。どちらにせよ武人は、孝太郎の願いを叶えつつ、まんまと盛りのついたけだものから孝子を救った。

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