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「孝太郎君。ちょっと」
タイミングを見計らっていた孝太郎が、前をゆく孝子を呼び止めた。校舎内ではあったが、辺りに人影はなかった。
「話があるの」
切羽詰まった様子の孝太郎にうながされるがまま、孝子は階を一つ上がった。そこには屋上へ出るための扉と十分なスペースがあった。扉は施錠されていて人が来る心配もなく、身を隠すにはうってつけだった。
「ええっ」
話を聞いて思わず声を上げた孝子が、慌てて口を押さえた。
高嶺の花にヘタレ。二人に貼られたレッテルは、徐々にではあるが剥がれつつあった。
元に戻ったときに不都合が生じないよう相談したことの中には、振る舞い方に関するものは当然あったし、何より念入りに打ち合わせた。お互い、相手のイメージを崩さないよう努めた。それでもほかの生徒が抱く印象は、日に日に変化していった。
孝子もそこは、重々承知していた。
幸いだったのは、進学によって周囲が一新された上に、まだひと月ほどしか経っていなかったこと。おかげで印象が多少変わったところで、大して不審がられずにすんでいた。見知った顔もいるにはいたが、だからといって入れ替わりを勘ぐられるまではないと踏んでいた。
だが。
「タケトがそんなことを?」
孝太郎の語るところによれば、つい先ほど、コウタロウの友人である桐沢武人という男子生徒が、別人ではないのかと詰め寄ってきたというのだ。
「確証があって言ってるわけじゃないとは思うんだけど」
その場はシラを切り通したということだが、孝太郎は少々不安げだ。
「何を考えてるのか分からないよ。あの人」
「市村さん……。たしかにタケトは突拍子もない言動をとったりするけど、いいやつだよ」
タケト、と孝子は呼んでいるが実際には、タケヒト、が正しい。
「そうかなぁ」
「そうだよ。大丈夫大丈夫」
予鈴が鳴った。昼休みの終了だ。
「もう時間かぁ。早く着替えないと」
次の授業は体育だった。
「孝太郎君。先に――」
「あ、僕はもう少し待ってからでないと」
知らず知らずのうちに、孝子の顔は赤くなっていた。
「そっか。そうだね。じゃあお先に」
遅れないでね、と孝太郎はくすくす笑いながら、階段を下りていった。
放課後。
校舎内の人影はすでにまばらで、外からは部活にいそしむ生徒の声が聞こえていた。孝太郎と孝子の二人は昼間と同じ場所にいた。
「どうしてここなの?」
あとから来た孝太郎の声には若干の怒気が含まれていた。いくら人目につきにくいといっても、ここは校舎の中だ。安心などできない。万が一見られてしまえば噂はたちどころに広がり、密会だ逢い引きだとはやし立てられるだろう。
関係が壊れるのではないかという恐れが第一にきた。武人のこともあった。変に勘ぐられるのは避けたかった。
「て、手紙に、ここだって書いてあったんだけど……」
「手紙、って」
「え? 市村さんがくれたんじゃないの?」
「……なんて書いてあった?」
「えっと……『昼間のことで話があります。放課後、教室から一番近い階段を上り詰めた先で』だったかな」
記憶をたどりながら孝子が言う。手紙は念のため、すぐ処分した。
同様の手紙は、孝太郎の机の中にも入っていた。
「孝太郎君っ、急いで!」
言うが早いか、孝太郎は座っている孝子の手を引っ張った。
「い、市村さん、どうしたの?」
「いいから早く――」
「一緒に下りてっていいのか?」
不意に聞こえた第三者の声。二人の視線は、弾けるようにして声の主へと向けられた。
「まあ、下に人はいなかったけど」
踊り場にいたのは桐沢武人だった。
「タケト……」
思わずつぶやいてしまった孝子を、孝太郎が軽く小突く。孝子は口をつぐんだ。
「差出人って、やっぱりタケトだったんだ」
「ふーん。アンタは気づいてたのに呼び出しに応じたのか」
取り繕った孝太郎からの問いに、武人は階段を上りながら答えた。
孝太郎は実際のところ、手紙は孝子からのものだと思い、疑ってすらいなかった。差出人が書かれていなかったのが、かえって安心感をもたらしていた。
対峙した孝太郎と武人には、結構な身長差がある。見上げる武人の態度は、どことなくふてぶてしかった。
「正直、適当に言ったことが当たるとは思わなかったよ」
「さっきのこと? あれは単なる戯れだから」
「昼休みもか。二人は、普段から自分の名前で相手を呼ぶわけ?」
孝太郎は言葉に詰まった。あのときはお互い、声を潜めていた。近くに人の気配がなかったのも確かだ。少なくとも、他人が会話の内容を聞けるはずはなかった。
「なりきるんなら、二人きりのときからやっておかないとな」
「ど、どうして」
二の句が継げない孝太郎に代わり、孝子が続けた。
武人がスマホを取り出す。平然とした様子で、
「これをボイスレコーダー代わりにアイツのブレザーのポケットに忍ばせといたんだ」
「それって盗聴じゃない!」
孝太郎が声を荒らげた。
「そうだな。まあ、すでに消去してあるから証拠にはならないけど。昼間みたいにシラを切られればそれまでさ」
またしても、孝太郎は言葉を失った。武人の行動の意図が、まるで理解できない。
「だからさ、タカが俺に関わってほしくないと思ってるなら、二人が入れ替わってるってことは忘れるよ。どっちにしたってタカが怪しまれるようなマネはしないから、そこは安心して」
「こ、こんなデタラメな話、信じてくれるの?」
「当たり前だろ」
孝子はせり上がってくる言葉を必死にこらえ、隣に立つ孝太郎をそっと見上げた。これが二人の問題である以上、独断で決めるわけにはいかなかった。
反面、孝太郎は、武人の人となりを理解できぬ自分が下手にでしゃばるよりも、よく知っている孝子に任せたほうが間違いはないだろうと思うに至っていた。
孝太郎がうなずくと、とたんに孝子は満面に笑みを浮かべた。
「ありがとうっ、市村さん」
「べ、別に……」
孝太郎は顔を背けた。市村孝子は紛れもなく本来の自分だが、不覚にもその屈託のない笑顔にドギマギしてしまった。他人の目を通すと、多少なりとも違って見えるのだろうか。
武人にも感謝の意を伝えた孝子は、
「どうして、わざわざ消したの?」
もっともな疑問をぶつけた。
武人の返答は、「強要はしたくなかった」とのことだった。盗聴については、「一番手っ取り早く、確実だから」と悪びれもせず答えた。
プライバシーの侵害だと孝太郎は憤慨したのだが、孝子は、
「僕のことを心配してくれてただけみたいだから」
苦笑こそしていたものの、こともなげに言った。このくらいのことなら慣れているとでも言わんばかりだ。
「さすがに、盗聴みたいなマネは初めてだけど」
「二人のプライベートにはまったく興味ないから」
孝太郎は閉口するばかりだった。




