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 直前になってゆらいだ香苗が、孝太郎と初めて接触したのはその前日。金曜日の放課後だ。

 同日、同時刻。

 人の気配もまばらな校内。屋上へと通じる扉の前で孝子は、武人たけひとに会っていた。

「おまたせ。タケト」

 孝子は、武人の隣に腰を下ろした。スカートで座るのも、だいぶ板についてきたようだった。

 武人はスマホをいじっていた。自分が無理を言って誘ったくせに、画面から目を離すそぶりは見せない。

 けれども孝子に、気分を害した様子はなかった。

「こんなところで話って、いったいどうしたの?」

 ようやく、武人はスマホから目を離した。

「タカ、アイツと付き合ってるんだってな」

「えっ」

 一瞬にして、孝子の顔は青ざめた。

「今日、コウ本人から聞かされた」

「な、なんだ、そうだったの。てっきり、バレたのかと思ったよ」

 安心した孝子は、ほっと胸をなで下ろした。かと思えば、彼女は小さく悲鳴を上げた。

「どうした」

「さ、さわ、触っちゃった」

「その体、もうタカのもんじゃないか。何を気兼ねする必要がある」

「それは、そうなんだけど」

 言いつつ、孝子は呼吸を落ち着ける。

「タカがどう扱おうと、アイツに、文句を言う筋合いはないだろ」

「そんなことないよ、恋人だもん。それに――」

「今の状態でいることを望んだのは自分のほうだから、とでも言いたいのか」

「ど、どうしてそれを」

「そのくらいは、わかるさ。本意ではないこともな」

 孝子はかぶりを振った。

「ワタシの、本心から出た願いだよ」

「だったら、その体をもっと楽しむはずだろう」

「できないよ。そんなひどいこと」

「コウは、『タカ』になら何をされても構わないと言っていたぞ」

「え……」

 思わず知らず、孝子は生唾を飲み込んだ。

 とたんにせきを切った煩悩の波。市村孝子の体は、引っ張られるようにして熱を帯びた。

「ちぐはぐだな。タカは」

 孝子は押し黙り、うつむいた。興奮とは別の恥ずかしさ、不甲斐なさで、顔は一層赤くなった。

 すべては武人のてのひらの上。意図した通りに事が運んだ。

 ここから一気に畳み掛け、心にたまったおりを吐かせる。そういう筋書きだった。

 しかし、武人は何も言わなかった。

 孝子は身を縮こまらせている。押し寄せる男のさがに、必死で耐えていた。

 理由はともかく、その姿は、はたから見ると少しばかり痛ましいものであった。

 最終的に武人の口から出てきたのは、

「戻りたいと思わないのか?」

 という、人並みな言葉だけだった。

 孝子は即座にうなずいた。

 発言までにかなりの間があったことで、気持ちはいくらか落ち着いていた。目をつぶり、何度か深呼吸をしたあと、ようやく顔を上げた。

 見つめられた武人は、視線をスマホに移した。

「後悔はしてないよ。自分で選んだことだから」

 今一度、孝子は深呼吸をした。

「テニスができなくても、どんなに苦しくったって、後悔をすることだけは絶対にない」

「そうか」

 あきらめたように、武人は大きなため息をついた。スマホをしまうと、

「最後に一つ、聞いてもいいか?」

「うん。いいよ」

 多少の間のあと、武人が口にしたのは、

「アイツとさ、よく付き合えるな。元は自分の体なのに」

 今さらでしかない、普通の感性さえ持っていれば誰でも抱くであろう疑問だった。

 しばし、孝子は考え込んだ。

「なんていうのかな。たしかに、姿かたちは『僕』なんだけど、表情や所作、声の感じとかって全然違うよね? タケトもそう感じない?」

「まあ、そうだな」

 武人は、しげしげと孝子を眺めていた。

「だよね。だからさ、僕には、『僕』が市村さんにしか見えないんだと思う。……えっと、答えになってるかな」

 孝子は少々不安げに、上目遣いに彼を見た。

「なってるよ」

 ようやくの返事。孝子の顔に、ぱあっと笑みが広がった。

「どこぞで聞いたセリフだったけどな」

「へ?」

 武人はくつくつと笑った。

「タカがアイツと付き合ってて、ホントによかったよ」

「えへへ、ありがとう」

 照れくさそうに、孝子は頬を染めた。

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