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一橋孝太郎の留学は、デートの前日には本決まりになった。
トッププレイヤーを輩出する受け入れ先アカデミーに、前回と同じスポンサー。特例を認めた彼らの行動は、年齢的にあとがないこともあってか、孝太郎の想定よりも圧倒的に早かった。
中一のころの話だ。
『世界で通用する選手を育てる』というプロジェクトに選ばれたのがきっかけで、一橋孝太郎は留学の機会を得た。
チャンスをくれたのは、立案兼スポンサーが選考のために招いた、同アカデミーのヘッドコーチである。力量と将来性、主体性の高さを買われてのことだった。
今と同じ時期、九月から十月にかけて、適性を見るため短期の留学も行った。
外国人と相部屋の生活には、ことのほか馴染めた。
何より、トッププレイヤーの存在を肌で感じられる。言葉の壁や習慣の違いなど、その喜びの前には無力だったのだ。
アカデミーでは受け入れの準備も整っていた。
あとは、渡航の期日を待つばかり。
そんな状況で、一橋孝太郎は態度をひるがえした。
己の手で摘んだ未来の芽。今一度芽吹いたのは、水面下で粘り強く交渉していた佐々の尽力によるものであった。
佐々は昔、プロのテニス選手だった。
国内では、なかなかに顔が利く。それをフルに活用した。
今回の留学にあたって、選考等は行われなかった。
現在の実力のみをはかられた。
一橋孝太郎を選んだヘッドコーチ自らが足を運んだ。入れ替わりの事実など知る由もない彼は、日本にとどまらせたことを大いになげくはめになった。
決定は当日のうちに、佐々の口を通して聞かされた。
孝太郎は心底から安堵した様子で胸をなで下ろした。
「何から何まで、本当にありがとうございます」
深々と頭も下げた。
「大したことじゃないから」
佐々は頭をかいた。苦笑しつつ、
「しかし、あれだな。これで弟の孝次君には、完全に嫌われるな」
冗談めかして言った。
留学の意志を家族に明かしたときの話だ。
同席した佐々から兄がいなくなると伝えられた孝次は、人前にもかかわらず大騒ぎをした。
ひどく取り乱し、しまいには泣きじゃくった。
両親と孝太郎が一丸となってなだめた甲斐もあって、一応は落ち着いた。しかし孝次は最後まで、佐々を恨みのこもった目でにらみ続けていた。
ちなみに。
前回はまだ幼かったこともあり意味をよく理解していなかったらしく、大事にはならずにすんだという。
「あんだけ懐いてくれると、かわいくて仕方ないだろう」
ああいう弟ならほしかった、と佐々は目を細めた。
「そうですね」
にこやかに相づちを打った孝太郎は、時間差でくすりと笑った。
「ん? どうした」
「あ、いえ」
一度はためらった孝太郎だったが、すぐにその理由は語られた。
「彼女がいることを教えたときも、ぐずって大変だったなって」
佐々は破顔一笑した。
「そりゃ、彼女も難儀だな」
「ええ、まったく」
孝太郎は困ったように、されどどこかうれしそうに笑った。
「これから、少し付き合ってもらえませんか」
陽が沈み、本分といえるトレーニングを終えると、孝太郎はそんなことを口にした。
佐々は理由を聞く前に承知した。土曜の夜だが、どうやら予定は真っ白であるらしい。
「食材の買い出し? 何でまた」
道すがら、孝太郎は明日行うデートのことを簡潔に話した。
相手は母親の監視がきつく、作りたくてもその余裕がないことなどは、質問される前にあらかじめ答えた。次のチャンスがいつ来るかわからないので、わがままでしかないけど、今、恋人らしいことをしたい、と胸中も打ち明けた。
黙って聞いていた佐々は、
「俺から話を持ちかけたのに何だが、本当によかったのか?」
改めて問うた。
孝太郎はうなずいた。
「彼女も納得しています」
「そうか。……待っててくれるといいな」
「その点は絶対に大丈夫です」
あまりに自信満々な返答に、佐々は思わず吹き出した。
「信じるのは大いに結構だが、そこにあぐらをかくなよ」
「そのつもりです」
「ははは。お前なら、心配いらないのかもしれないな」
「佐々コーチこそ、本当にいいんですか?」
アメリカへは、何も単身で向かうわけではなかった。
佐々も同行する。スポンサー側の、留学した選手に対する配慮の一つだった。
「当たり前だろ。これは俺にとっても、学びのチャンスなんだから」
「いえ、そうではなくて」
「ん? ああ、それなら心配無用だ」
「いないんですね。相手の方」
肯定した佐々の目には、孝太郎があわれんでいるかのように映った。
「出会いがなかったわけじゃないからな」
口ぶりは、なぜだか少し、言い訳がましかった。
「いい人はいなかったんですか?」
「いたよ。知人の紹介だったけど。……そういえば、海外での生活にも意欲的だったな」
「良縁じゃないですか。なのに、どうして」
「彼女には申し訳ないけど、俺から断った」
「――」
「そうだ孝太郎」
佐々は、口を開こうとした孝太郎をさまたげた。
「何を作るか、もう決めてるのか?」
「はい」
「好みや何かは、ちゃんと把握してあるか?」
孝太郎は即答せず、考えるしぐさを取った。そしてすぐに断りを入れてからケータイを取り出し、手早くキーを打った。
佐々はほっと息を吐いた。
しかし、その安心も束の間。孝太郎は、
「元カノ、香苗さん、でしたっけ。忘れられないんですか?」
ケータイを手にしたまま、容赦なく話を戻した。
坪口香苗。
付き合っていた期間は二年足らず。佐々の女性遍歴の中では、相当に短かった。直接の面識こそないが、一橋孝太郎もよく知る相手だった。
「まあ、そうなるな」
多少の間はあったが、答えは返ってきた。
「会いたいですか?」
「ああ」
この二文字が発せられるまでには、ずいぶんと時間がかかった。
「半年以上経ってるのにな。振られてなお、気持ちが消えないなんて、初めてだよ」
佐々は足を止めた。目的地であるスーパーは、眼前にあった。
「最低な男だな、俺は」
言葉とは裏腹に、その表情は晴れ晴れとしていた。
「孝太郎のおかげで踏ん切りがついたよ。ありがとうな」
佐々は一人で話を進めていく。
ああだこうだと、佐々は理屈をこねなかった。それもあってか、孝太郎が握っていた主導権は、もはや完全に移ったようだった。
「いまだに愛してるなんて、あいつからしてみれば、本当に迷惑な話だけど」
「そんなこと、ありませんよ」
「気休めでも、そう言ってくれると心強いな」
佐々はポケットに手を突っ込んだ。
孝太郎はとっさに、香苗の居所を伝えた。そこは今いる場所から目と鼻の先にあるカフェであった。
「お前、どうして――」
「これから会う約束をしていました」
さすがに佐々は絶句した。
が、それもわずかな間だけ。すぐに気を取り直し、どこまで事情を察したかはわからないが、
「気苦労をかけてすまなかった」
深く頭を下げ、その場から走り去った。
孝太郎はスピーカーをふさいでいたテープを剥がし、設定を変えてから、ケータイを耳に当てた。
「すみません、独断でこんなマネをして。佐々さんにも内緒で行いました」
「ううん」
電話越しの香苗の声は、涙にぬれていた。
「ありがとう。最後に、彼の本心が聞けてよかった」
「佐々さんは、正面からぶつかればきっと応えてくれます」
「そうだね。……もっと早くに気づけていれば、彼を苦しませずにすんだのに」
「話を、ちゃんと聞いてあげてくださいね」
「もちろん。一橋君が心を砕いてくれたおかげでできた機会、無駄にはしないよ」
通話を終え、ケータイをしまった孝太郎は、満足げな笑みを浮かべた。
二人は赤い糸で結ばれている。その確信があったのだ。
翌、日曜日。香苗は日本を発つ。佐々への想いを振り切るために決心した、海外勤務が理由だった。
向かう地はアメリカ。一橋孝太郎が留学するアカデミーと同じ州であった。




