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 九月最後の土曜日。

 夜半近く。

 示し合わせた時間ピッタリに、まず鳴ることのない孝子のケータイに着信があった。

 ディスプレイに表示されたのは孝太郎の番号。

 電話帳には、登録されていなかった。両親にバレないよう、市村孝子が彼の痕跡を残さないようにしていたのだ。

 二人はデートを画策していた。

 明日は孝子の両親、美貴みたかと亮介の結婚記念日。毎年のことだが、二人はこの日、終日家を空ける。

 監視の目がなくなるのだ。

 ありがたいことに日曜日でもある。まさに、千載一遇の好機といえた。

 コールは三回で切れた。

 孝子はほっと息を吐いた。大丈夫、という合図だった。

 同様のことを孝子も行った。

 学生時代における、最初で最後のデートの幕開けであった。


 見知った顔との遭遇を避けるために都心まで遠出をした孝太郎と孝子は、改札を出たところでようやく言葉を交わした。

「こ、孝太郎君、おまたせ」

「ボクも今来たところだよ」

 孝太郎はくすりと笑った。照れくさそうに、孝子も頬を緩ませる。他人のフリをしてはいたが、二人は同じ電車でやって来たのだ。

 駅の構内は人でごった返していた。喧騒も相当なものだ。

 通行の邪魔にならないよう連れ立って隅へと移動したあと、孝太郎は上半身を丸め、顔を近づけた。

「市村さん、スカートなんだね」

 市村孝子は家の中で着ることこそないが、外出着としてパンツの類は何着か持っている。孝太郎はてっきり、そっちを穿いてくるのだと思っていた。

 孝子は恥ずかしそうに、「自分の好みで選んだ」と白状した。

 予想外の行動だったこともあってか、孝太郎は、

「穿くと気が引き締まるし、何よりかわいいもんね」

 珍しく、微妙にズレた受け答えをした。

 孝子は下に黒のタイツを穿いていた。いまだに、スカート一枚の感覚には慣れないようだ。トップスは白のブラウスで、ボタンは上まできっちり留めている。すそは中に入れてあった。濃紺のフレアスカートはほんの少し短めで、ハイウエストではないだけに、腰の高さが際立っていた。シャツの透け対策も万全だった。入れ替わった際の教育のたまものであろう。靴にスニーカーを選んだのは、いかにも今の孝子らしいといえた。

 孝子は本来の彼女とは異なり、ファッションに疎い。今回のチョイスは市村孝子が隠し持っていた雑誌などを参考に、数は少なくとも種類は豊富な服の中から決めたものだ。

 髪形については特にいじらず普段通り。孝子にとっては、ありのままこそが至上、なのだろう。

 対する孝太郎が数どころか種類も少ない似たり寄ったりの服の中から選んだのは、ジーンズに白シャツ。孝子とは反対にすそは出してあった。上二つのボタンも留めておらず、そこからは黒のインナーがチラリと覗けていた。シンプルであるが故に、彼もまたスタイルの良さが一際目立っていた。

「じゃ、行こっか」

 孝太郎が右手を差し出す。孝子はとっさに右手を出した。

「市村さん。握手じゃないんだから」

 あはは、と孝太郎は小さく笑った。

 彼は左肩にかけていたバッグを右肩にかけ替えると、差し出したままの格好で赤面している孝子の右手を握った。

 外は秋晴れ。絶好のデート日和だ。

 残暑過ぎ去る穏やかな陽気にいざなわれるように、二人は足を踏み出した。


 ようようと街へ出た二人。

 今は、消沈した様子で公園のベンチに腰かけていた。

 当初の予定であれば、もうしばらくはウィンドウショッピングに興じているはずだった。

 二人は仲良く、同時にため息をついた。

 街中での彼らは、明らかに浮いた存在だった。

 落ち度があったわけではない。普通に店をめぐり、静かに談笑していただけだ。

 彼らの振る舞いは、落ち着いた服装も相まって、上品という印象を周囲に与えた。はぐれないように手をつなぐ姿などは、誰の目から見ても仲睦まじい恋人同士であった。

 注目を受けないはずがなかった。

 類まれな容姿を持つ者同士、慣れていることもあって多少であれば気にならない。そんな二人でも耐えられないほどに視線が集まった。

 人混みにも溶け込めない彼らは、楽しむどころではなくなった。昼時にはまだ早かったが、予定を大きく繰り上げるしかなかったのだ。

「ごめん。別の場所のほうがよかったね」

 プランを立てたのは孝太郎だ。ウィンドウショッピングというのをやってみたい。そんなささやかな願いからだった。

「ううん」

 孝子は孝太郎の手をそっと握った。

「大変なのは大変だったけど、楽しかったよ。いろんなものを見て回って話もできたし、何より一緒にいられるから」

 後押しをしたのは孝子のほうであった。打ち合わせの際、「孝太郎君の行きたいところがいい」と自分の希望を伝えていたのだ。

「それもそうだね。ありがとう」

 手を握り返した孝太郎は、屈託なく笑った。

 気を取り直した二人は公園を回った。

 都会にありながら広大な敷地を誇るこの場所は、幸いなことに人であふれ返ってはいない。やがて落ち着けそうな場所を見つけた二人は、孝太郎が用意したシートを敷いてそこに座った。

 いつの間に時が過ぎたのか、時刻はすで十二時半。休日だろうと一定な、二人の昼食タイムだった。

 孝太郎はいそいそと弁当を広げた。

 目的の違いから、メニューは基本別々だ。けれども弁当箱は分けてはおらず、二人分一緒に詰めてあった。

「わー。懐かしいなぁ」

「お母さんを思い出す?」

「うん」

 はずみで口走ってしまった孝子は照れくさそうに笑いはしたものの、否定はしなかった。

「いいお母さんだよね。あこがれちゃうよ」

 孝太郎がそう思うのも無理はなかった。

 一橋孝太郎の食に関する注文はかなり多く、また細かい。日ごと異なる要求も大多数の親にとってはただただ面倒くさいだけだろうが、彼の母親は完璧に満たした。さながら、アスリートを支える栄養士であった。

「理想像」だと孝太郎は断言した。

 母みたいな人が理想。目指すべき指針として、孝子は心に刻みつけた。

 話を切り上げ、

「いただきます」

 手を合わせた二人。まず箸をつけたのは、孝太郎にうながされた孝子だった。

 普段通り少量を口に含んだ彼女は、無言で、ゆっくりと咀嚼そしゃくしていた。幸せに満ちた表情は、噛むほどにその度合いを増していく。ややあって飲み下すと、すぐさま、

「おいしい!」

 もはやわかりきっていることを言った。

「そっか。よかった」

 孝太郎はほっと息を吐いた。

「孝太郎君のものにまで手を出しちゃったらどうしよう」

「そんなに?」

「うん。間違いなく、今まで食べた中で一番だよ」

 言い終わるなり、孝子は二口目を口に入れた。

 そんな彼女とは裏腹に、孝太郎の手はまったく動いていなかった。

「孝太郎君は食べないの?」

 口を開いたのは、きっちり飲み込んだあとだった。

「なんていうか、胸が一杯になっちゃって」

 首をかしげる孝子に、孝太郎は、「弁当は自分が作った」と答えた。

 市村孝子と一橋孝太郎の味覚は、驚くほど似通っている。念のため確認してみると、食材や味付け、料理に至るまで、好悪のことごとくが同一であった。

 出来上がりを試食したとき、孝太郎の舌は満足していた。だからこそ自信はあった。

 とはいえ所詮は初心者。教えを乞うたところで、母親たちが作る、絶品と言って差し支えない料理には到底太刀打ちできない。

 それでも、言えば孝子は喜んでくれるという確信があった。

 にもかかわらず、すぐに言い出せなかったのは、こういったシチュエーション特有の不安を、少なからず感じていたのかもしれなかった。

「後学のためだよ」

 照れ隠しか、孝太郎は、感極まって何も言えない孝子に向かってつぶやいた。

 二人にとって人生最高といっていい食事のひと時。それが過ぎ去るのは、まさしくあっという間だった。

 来たときよりもきれいに片付けてからその場を引き上げた二人は、以前とは別のベンチに座っていた。

 残された時間を、この公園でまったりと過ごすことに決めたらしい。人がほとんどいない穴場を見つけられたことが決め手となった。

 彼らはともにリラックスしていたが、姿勢はすこぶる美しかった。どこまでいっても絵になる二人である。

 先ほどのランチ。

 孝子は結局、「今日くらいは羽目を外そう」という孝太郎の言葉も手伝って、彼が食べるはずのものにまで手をつけた。

 そこで得た満腹感と心地のよい陽気にうながされたのか、孝子は小さなあくびをした。

昨夜ゆうべは眠れなかった?」

 口元を隠したまま、孝子は、

「う、うん。よく、わかったね」

「ボクも眠れなかったから」

「そうなんだ」

 孝子は破顔した。

「でも、おかげでノルマは全部すませることができたよ」

「じゃあ、今日は楽できるね」

「うん」

 言うが早いか、孝子は再度あくびをもらした。

 それを機に生まれた無言の間。聞こえてくるのは、風にそよぐ木々のうたばかりであった。

 やがて孝子は孝太郎の肩へと寄りかかる。不安を一切感じさせない、安らかな寝顔だった。

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