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「どうだった、今の試合は」
練習試合を終えたばかりの孝太郎に、佐々は声をかけた。
これから普段のレッスン時と同様に、一からすべてのプレーを振り返る。将棋などで行う感想戦みたいなものだ。
「そうですね」
孝太郎が口を開く。一セットのみだったこともあってか、まったく息があがっていなかった。
相手をつとめたのは中沢円。同世代では、孝太郎に次ぐ力量を持った選手だった。
中沢は『まどか』という女性のような名前にそぐわず、非常にガタイがよくいかつい外見をしていた。
強靭なフィジカルから繰り出されるストロークはフォア・バックともに強烈で、ジュニアの身ながらすでに一級品といえた。そのストロークをもって相手を振り回し、ともすればそれのみでウィナーを決めるというのが、中沢の基本スタイルだった。
大半の選手はスピードと回転量が両立したボールに手を焼き、思いのほか正確な左右へのコントロールによってまともな体勢で打つことすらままならなかった。
今回の試合。
以前にも増して強力になった中沢のストロークを、孝太郎はいとも簡単に打ち返していた。
孝太郎は身長こそわずかに上回ってはいても、筋力では到底及ばない。にもかかわらず、そのストロークはあらゆる面で勝るとも劣らない質を備えていた。
運動連鎖にすぐれ、ロスのない効率的なスイングから繰り出されるショットは、攻撃一辺倒とも見られる中沢をベースラインから下がらせ、逆に振り回してしまうほどであった。
守備に回らせれば、中沢を封殺できるというわけでもなかった。むしろ、そこからが本領だといっていいだろう。
中沢の脚力はすさまじいもので、こと短距離に関してはスプリンターもはだしだ。
ボールに対する反応も並外れて早かった。
どこに打たれても強打で返せるほどの守備範囲の広さこそが、中沢が持つ最大の武器だった。
その中沢がボールに触れない。
反応できず、棒立ちになる場面さえあった。
どのような選手であっても普通は、打つコースや球種などによって多少なりとも動きに差が出る。
中沢とて例外ではなかった。
だが孝太郎のスイングからは、そういった『くせ』といえるような動きが消えていた。
ここ一年における鍛錬の成果といえた。
これではいくら予測にすぐれた選手であろうと、その能力を十分に生かすことができない。脚力のみでは、どうあがいても対応しきれないのだ。
モーションに違いがないのはサーブも同様であった。
孝太郎の長身から繰り出されるそれは強力無比でもあり、中沢は満足に触れることすらできなかった。
だからといって常に一方的というわけではなかった。
中沢が放ったエース級のサーブに体勢を崩され、押し込まれてしまう場面もあった。
が、中沢はポイントを取れなかった。
まともな体勢で打たせず、左右へと散々に振り回してもなお、孝太郎は死んだボールを、チャンスボールを献上することがなかった。だけでなく、中沢がネットへ出てきた際には、パッシングショットで逆に相手のわきを抜いていた。
中沢は打ち返せるはずのコースを潰した位置に移動していた。
時間を奪われていた孝太郎は打ち返すのがやっとという状況だった。それでも、ウィナーを取ったそのボールには、平時に見劣りしないだけの勢いがあった。
ほかの選手であれば返すのがやっとというきびしい体勢からでも、孝太郎は力の乗ったショットを打つことができる。図抜けた可動域の広さとしなやかな筋肉が、それを可能にしていた。
その柔軟性は、コートカバーリングにも遺憾なく発揮されていた。
孝太郎のフットワークにおける切り返しは、他の選手と比べても、文字通り一歩早かった。左右に振られてボールを打っても、体が外へと流れないのだ。
身長を除けば、一橋孝太郎が持つ強さの源というのは少々わかり辛い。生半可な者には計り知れないものだった。
良さを理解されにくい面まで含めて彼らしい、とタカコには感じられた。
「うん。そうだな」
練習試合の一切を物語った孝太郎の言葉に、佐々が相づちを打った。
タカコは一橋孝太郎の行っていたプレーに関わってはいなかった。彼の体にすべてを委ね、つぶさに動きを感じ取りながら、特等席でただ観戦していただけであった。
「孝太郎の言うとおり、今の状態では最高のプレーだった。文句のつけようもないくらいだ」
どこか冗談めかした様子で、佐々は続けた。
試合の結果は6-1。中沢は自身の最初のゲームをかろうじてキープできたのみで、残りのゲームは全部孝太郎が取っていた。
「大いに対策を練ってもらえ」
練習試合が始まる前、佐々はそんなことを口にした。
今回の話は、中沢側からの申し入れで決まったものだ。
地域の異なる彼らがこの時期に遠征してくるというのは、夏休み中に行われる全日本ジュニアテニス選手権を見据えてのことだろう。
中沢側の狙いは明白であった。にもかかわらず佐々は、「手の内をすべて見せろ」と暗に言ったのだ。
突飛な言葉というわけではなかった。
一橋孝太郎に対してのみではあったが、佐々はレッスン時であっても、基本的に自分からは物を教えない。
方針を考え、決めるのは、教わっている側の孝太郎であった。
そうすることで本人が思い描くビジョンをより明確にさせ、自らの意志をも高めさせた。
佐々は、孝太郎が望むならいくらでもアドバイスを送った。プライベートを削ってでも孝太郎が満足のいくトレーニングメニュー等を作ったし、時間や周囲の目が許す限り練習にも付き合った。
「それが夢への糧になる」
佐々はそう言葉をしめた。
職業として指導にあたる者であるくせに、佐々は目先の結果を孝太郎に求めなかった。
それは孝太郎のコーチをはじめたころ、まだ何の実績もなかったときから変わらないのだという。
タカコには、にわかに信じがたい話であった。が、佐々と接するほどに、それが事実なのだと思い知らされた。
孝太郎の両親が佐々の方針を受け入れてくれていたのも大きかった。
スポンサーともいえる彼らも、孝太郎に結果を出すことを強いなかった。彼の成長を長い目で見ていた。
結果、孝太郎はのびのびと、誰はばかることなく己の才能を育んでいた。