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「どうして目の前に私がいるの」

 見つめ合う少年と少女。沈黙を破った声は少年のほう、一橋孝太郎ひとつばしこうたろうの口から発せられたものだった。

「え? 僕? え?」

 少女、市村孝子いちむらたかこが混乱した様子で自身の顔に触れる。震えはじめた手が、力なく体へと降りていく。とたんに悲鳴が上がった。

「む、むむむむ、胸がっ」

 真っ赤な顔になっていた。

 孝太郎の側は全身をまさぐっていたが、やがて固まってしまった。しばらく経ったのち、股間から手を離すと、

「ね、ねえ、あなたの目の前にいるの、誰?」

 蒼白な顔でたずねた。

「ぼ、僕……」

 それっきり、二人は絶句した。

 無理もないことだった。誰だって、人と中身が入れ替わってしまうなど、想像すらしない出来事だろう。

 一橋孝太郎の体に入り込んでしまったタカコは仰向けに転がっている。その上に、市村孝子の体に入ったコウタロウが覆い被さっていた。

 はたから見れば孝子が孝太郎を押し倒したとも取れる体勢だが、二人は離れない。

 いまだに見つめ合ってさえいた。

 とはいえ、二人は恋人同士ではない。単なる友人だ。奥手な彼に業を煮やした彼女が押し倒した、などという愉快な話ではなかった。

 倒れ込んでいたのだ。

 陽も落ちはじめたつい先ほどのこと。

 先に石段を下りていた孝子が、突然バランスを崩した。

 段数の多い石段は傾斜もきつく、途中に石畳はあるものの、落ちればタダではすまない。とっさに伸ばした孝太郎の手は、孝子をつかむことはできずに空を切った。

 二人の距離は、手を伸ばした程度で届くほど近くはなかったのだ。

 一人ではこらえることができなかった孝子の体は大きく傾き、今まさに落下せんとしていた。

 前のめりになっていた孝太郎は、自らの身を投げ出した。

 結果、孝子のみならず、孝太郎までもが石段を転がり落ちるはめになったのだ。

「ィタ……ッ……」

 顔をしかめた孝太郎が後頭部を押さえた。忘れていた痛みが、よみがえってきたのだ。

「だ、大丈夫?」

「ん……」

 一応は声変わりをした男の声にもかかわらず、その声にはえもいわれぬ艶めかしさがあった。

「私……私の体は、大丈夫なの?」

「う、うん、平気。どこも痛くなってないよ」

 わずかに頬を赤らめていた孝子が立ち上がった。己の体勢に、ようやく気がついたらしい。

「ご、ごめん」

 孝子の声は少々上ずっていた。

 のそのそと、孝太郎は上体を起こした。

「ありがとう」

 孝太郎の口から発せられた言葉に、孝子はきょとんとした。

 一橋孝太郎の全身は、今なお止むことなく悲鳴を上げ続けている。その事実が、身を挺して自分を助けようとしてくれた結果なのだと、タカコは文字通り、痛いほど感じていた。

 とはいえ、お互いが入れ替わってしまった今の状態では、コウタロウの行動が実を結んだとは言い切れないだろう。

 孝太郎が動けるようになるのを待つ間、孝子は石段を、自分たちが落ちた場所までのぼってきていた。

 孝太郎がそう仕向けたのだ。

 あのあと孝子は、何度も謝罪の言葉を繰り返した。

 タカコからしてみれば自分の体が無傷だったということだけで十分なのだが、どう説明しても、何を言っても謝罪は止まなかった。

 さすがにしつこいと感じたらしく、「あのとき急に足元が崩れた感じがした。ちょっと見てきてほしい」というようなことを言って、ひとまず遠ざけたのである。

「どこもグラついたりしてないみたいだよ」

 前かがみになって辺りの石段に触れていた孝子は向き直った。

 倒れた場所に座り込んだまま、孝太郎は首をかしげた。

 先ほど言ったことはその場しのぎのデタラメというわけではなかった。確かにそう感じたのだ。

 だが、言われてみれば違うのかもしれない、とも思えた。

 二人は、お互いの心と体が入れ替わった。その前後の感覚など、どこまでが『市村孝子』で、どこからが『一橋孝太郎』なのか、わかりようがない。

 一橋孝太郎の体が感じたことを、自分のものだと思い込んですり替えたのかもしれないのだ。

「そっか。ありがとう」

「市村さん、あの――」

「孝太郎君」

 孝太郎が言葉をさえぎった。

 当人たちにとっては当たり前のことなのだが、入れ替わった今の状態で互いの名を呼び合うというのは、いささか滑稽に映った。

「ずっと見えてるんだけど、パンツが」

 若干の間のあと、はっとした孝子があわててスカートを押さえた。かと思えば、次の瞬間には悲鳴を上げつつその手を離していた。

 孝子がとっさに押さえたのは太ももの付け根辺り。不可抗力としか言いようがないが、手は股間にも触れてしまったのだ。

「ご、ごめ、っ……わざ、っと、じゃ……」

 言葉につっかえまくったあげく、孝子はむせた。

 孝子のスカートは校則よりも短い。そして、当然のことながらコウタロウにスカートを穿いた経験などはない。

 見えないように気を回すことができなかったのも、無理からぬことだった。

 孝太郎はうつむいていた。辺りはすでに薄暗く、孝子の距離からは確認できないが、その肩は少しばかり震えていた。

「孝太郎君は見せびらかしたいの?」

「ちがっ」

 即答しつつも結局スカートにはさわれず、孝子はその場にしゃがみ込んだ。

 しかし、自身がより高い場所にいるうえに向かい合っている今の状態では、むしろ逆効果であった。

 そのさまをこっそり窺っていた孝太郎は、やがて吹き出してしまった。

「あははははっ、孝太郎君笑わせないでー」

 痛い痛い、と悶えながらも、孝太郎はなお笑っていた。

「か、からかってたの?」

 石段を下りてきた孝子は、少々涙目になっていた。

 実際のところ、孝太郎にはスカートの中が見えていたわけではない。

 ただそれは、二人の距離や周囲の薄暗さのおかげでしかなかった。からかっていたのは事実だが、無防備さに気づいてもらう必要があったのもまた事実だった。

 孝太郎はそれを説明し、一旦は謝ってから、

「でもね、今みたいな態度をとられると、戻ったときに私が困るんだよ」

「そ、それはわかるよ。だからさ、どうすれば戻れるのか、早く考えよう」

「そうしたいのはやまやまだけど、もう時間がないの」

 よろよろとふらつきながら、孝太郎が立ち上がる。支えようとした孝子を、孝太郎は手で制した。

「あ、孝太郎君ちは門限ないんだっけ」

 少なくとも、軽口を叩く余裕はあるらしい。

 孝子は引き下がった。

 こうなることを、薄々感じてはいたのだろう。だが、入れ替わったまま一日を過ごすというのは、コウタロウにとってこの上なく心苦しいものだった。

「どうすればいいんだろう……」

「心配ご無用っ。スカートのことなら、道すがら私がレクチャーします」

 言った孝太郎が歩きだした。重い足取りとは裏腹に、声の調子はあくまでも軽い。

 孝太郎は身振り手振りに状況説明などを交え、スカートを押さえる真似をしていった。

 孝子は一つ一つしぐさを覚えつつも、実際に試すことはせずにいた。そのことに対して、孝太郎は特に何も言わなかった。

 二人はそのあと、ボロを出してしまわないよう、家族のことや日課のことなど、最低限のことを共有しあった。

 それも終えるとやがて二人は別れ、それぞれ相手の家へと帰っていった。

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