彼の話 その1 梅に鶯
梅に鶯‐取り合わせのよい二つのもの、よく似合って調和する二つのもののたとえ。
学校は空の上にある楽園だ、と彼は喩えた。
彼は生まれてから今までなにかに縛られたことがないという。
それを自覚したのは小学1年生の夏休み、自由研究に友達と山に遊びに行っていたときだった。
彼には母親が居なかった。そのため父親が男手ひとつで育ててきた。冒険好きの父親とは違い、息子はインドア派だった。山へ行くと言うのも友達の発案で、虫は出るわ、足は痛くなるわの二重苦で行くのを渋っていた。しかし次の日彼は前日の発言をコロッと変え、二つ返事で引き受けたのだった。
彼の考えを180度変えたその理由は、父親の存在だった。彼の父親は大変フリーダムで、思ったことをはっきりといい、どんな仕事をもらっても笑顔で引き受ける男だった。彼のスローガンは「人生生きるなら楽しく」。そんな彼に憧れていた少年は、自分を変えるいい機会だと、山に行くのを決めたのである。
「頂上まで上るぞ!」体長に任命された男の子の声が響くと、彼らはいっせいに山を登り始めた。するとさっそく長い草が行く手を阻む。進んでも進んでもまとわりつくそれは、彼の気分を著しく低下させた。しかし一度引き受けた仕事だからと、零れそうになる涙を耐え、必死に進んだ。少し進むとてんとう虫やハブ、蜂や、はたまた熊などが出没し、外はやはり危険だと再確認した。同時刻、彼の友達たちは門限があるからと去っていってしまった。頂上までいくといったのはどこのどいつだ、と一人吐き捨てる。自分も家に戻るべきなのだろうかと考え、いいや自分だけは頂上まで登らなくては、と湧き上がる使命感が彼の背中を押す。幸い小さい山だったのでたいした時間はかからずに頂上まで上れたが、あたりはすっかり暗くなってしまった。真っ暗な中、月明かりに照らされながら仰向けになった。そこには、無限に続く空が広がっていた。この空を見た瞬間、自分はなぜ狭くて暗い部屋の中にいたのだろうという疑問がわいてきた。それは今まで当然のことのようにしてきたことなのに、この時彼にとってそれは不自然な行動に思えた。やがて腹の虫が鳴ると、彼は暗闇をものともせず、おびえることなく闇に解けていった。その姿は、山に入ったころとは別人に思えた。
中学生になると、今まで隠されていた彼の奇想天外な行動により友達だった人たちが離れていった。今まで彼のことを鬱キャラだなんたと称し奉仕と言う名のパシリをさせていた奴も、陰キャラだなんだと陰口をたたく女子も、暗い性格が好きだった彼女も、みな口を揃えてこういった。「彼は変人だ」と。実質彼はアクティブになり、言ってはいけない暗黙のルールも早々に破り、破天荒の道を究めていった。しかし破天荒な行動だと思っているのは彼の周りに居る人たちの印象で、彼自身は至極当然、それが当たり前だと信じていた。細いタコ糸で縛られている人間関係では、あのどこまでも続く青い空に飛び立てないと感じていたのである。
そして高校1年、彼―――小鳥遊友樹は、特等席となった一番後ろの窓際の席で、先生の声を子守唄にしながら、優雅に空を見つめていた。どうやったらあの空まで飛んでいけるのだろう。目線を落としグラウンドを見ると、別のクラスが体育だったようで、たくさんの生徒がトラックを周回していた。途方もない回数をこなしているのだろう彼らの顔には、疲労困憊がありありと出ていた。なぜ彼らは笑顔をつくらないのだろうか。もちろん望まれていない仕事を受けているだけなのだけれど、一度受けた以上しっかりとこなすのが人間と言うものではないのか。そう考えている間にも、一部の女子生徒が歩きながら談笑を始めていた。なんてザマだ。
「そうはいうけれど、こんなに暑い日ざしのなか、無理に走れって言うほうがおかしいと思うよ。僕はね」
昼休み。ある一人の女子生徒に群がる女子生徒の雑音が教室を占領する中、友樹のクラスメイトであり、数少ない友人の天道橋実が意見する。それは正論だ、と友樹は思った。
「しかしもし本当にそう思っていたのなら、先生に抗議すれば言いだけのこと。」
ふむ、と実は手に持っていたヤキソバパンをほおばった。
手持ち無沙汰になってしまった友樹も、早起きして作った弁当を食べる。
やがてパンを食べ終わった実が続きを話す。
「きみのいいたことはわかる。しかし、それがマイノリティの意見だったとしたら、どうする?」
マイノリティは常にマジョリティによって制圧されている。例えば、シチューをご飯にかける派が科学的根拠を示してきても、この国の大多数はかけないものだと思っているので理解をしない。結果シチューご飯派は肩身が狭くなっていく。最近のデータだと、シチューご飯派も立派なマジョリティになったらしいけど。
同じように、友樹が見た女子生徒たちも、クラスというくくりで見れば少数だ。しかしそれが、体育をしぶしぶ受けている生徒の割合が少ないという証明にはならない。
「やはり何事も自分から動かなければ始まらない。そうだろう、実くん」
数秒の沈黙の後。
「至極当たり前のことをいうね、きみは」
彼の口から、そういうことをいいたんじゃなかったんだけど、と言葉が零れた。
そのときフェードアウトしていた女子生徒のざわめきが突然大きくなった。二人ともそちらを振り向くと、そこにはクラスの女王である羽塚香織に向けられた言葉が飛び交っていた。彼女はめずらしく戸惑っているようで、突然の事態に対処しきれないといった風だった。
羽塚さん意外、とか。
そんな子がタイプなんて引くわ、とか。
その中にひとつ、友樹にとって気になる言葉があった。誰かが発した、実くんがタイプだったんだ、と。
ついに彼にも生涯愛する人ができるのかと親のように感動すると同時に、彼にも同じ考えを話せる人ができるんだろうと喜んだ。話が合うということはいいことだと、彼はかすかに首を縦に振った。
実の長い前髪は、友樹とは違い彼の感情をあらわにすることはなかった。