彼女の話 その1 エアーポンプ
学校は大きい水槽だ、と彼女は喩えた。
彼女は生まれてからこのかた自由になったことがない。
それを自覚したのは小学1年生を卒業した、桜並木を母と共に歩いていたときだった。
彼女には父親は居ない。女を遊び倒した畜生だ、と彼女の母は言った。
彼女には父親がどういう存在かはわからなかったが、友達と父親と比較して、そしてきっと母の言うことは間違いなのだと思った。
年の割りに大人びていた彼女は、そのとき愛想笑いを覚えた。
中学の始業式、彼女は友達と言う存在に辟易していた。友達と言うのは、上辺だけの付き合い以上の何者でもなく、相手に合わせるのは滑稽だと感じたので、彼女は正直な付き合い方をした。そうしたら、彼女以外のクラスメイトが団結して彼女をいじめてきた。彼女は強かったので身体的被害には怯まなかったが、さすがに連絡網を回してこなかったり、好きな人(知らない人だった)を言いふらされていたりなんてことには、さすがの彼女も根を上げた。2年になったある日、彼女はまるで別人のような立ち振る舞いをし、相手が望む言葉をかけ、気付けば彼女は生徒会長になっていた。このとき猫を被ることを覚えた。
人気も変わらずに高校生、彼女は学校の有名人になっていた。朝靴箱を開けばたくさんのラブレターが滝のように落ち、昼弁当を出すとエベレストほどの人が群がり、夕方靴を出すとこれまたクラス中がエスコートをするようになった。彼女をよく思っていないごく一部の人が迷惑そうに顔をしかめる中、彼女は優雅に、一人ひとりと言葉を交わし、帰っていく。そんな彼女を見て、誰かが言った。「彼女は希望だ」と。
彼女―――羽塚香織は、希望は人間同士が求める繋がりだといった。
魚を入れた水槽に喩えると、餌だ。
香織は魚に餌をやるとき、特になにも考えない。同じように、人に接するときもなにも考えない。ただ相手の望む容姿で、相手の思う声で、相手の欲しがる言葉を言うだけ。香織にとってそれは、小さいころからの習慣だったので、特になにも思うこともなく行動していた。そして同時に、自分の存在価値を探していた。
(先ほどの自分の思考を踏まえて今日の行動を顧みると、やはり私は魚に餌を与える人間なのだろう。)
しかし同時に、この生ぬるい水が入った水槽から出られない魚でもあった。相手の機嫌を伺えば伺うほど、大海原は遠くなっていく。私は海にいくことなく、この狭い水槽でもがき苦しんでいくのだろうか。
「やはり何事も自分から動かなければ始まらない。そうだろう、実くん」
昼休み。エアーポンプのように変わらなく響く声に囲まれながら、至極当たり前のようなことをいった男子の声が聞こえた。彼は香織から机二つ分離れていたが、透き通った声だったので、雑音にさえぎられることなく彼女の耳に届いた。彼女は周りの話を聞きながら、彼の言った言葉の意味を考える。いや、考えなくてもわかる。
(それは自由な者の考え方だ。)
自分から動けるということ、それは自分は動かなかっただけだと彼女は考えた。たくさんの選択肢があるのに、かたくなに動かなかった人の言い訳に過ぎない。他の道がないのにどうやってその道以外を進めばいいというのか。周りではクラスで誰がかっこいいのかという話題が続いていた。彼女も例外なく話を振られたので、たまたま聞こえた彼の名前を答えておいた。