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空人形、受容する

 病室から一歩足を踏み出すと目の前に広がったのは、病院の清潔そうな白い壁……ではなく、さっき私を襲った縹のように虚ろな眼をした人間たちが蠢いている光景だった。

「病院ってこんな気味の悪いところだったのね。知らなかったわ」

 パッと見ただけでも全員精神科に即日入院が必要なことは明らかだ。

『深緋……、それ本気で言ってる?』

「あら、違うの?」

『………………』

 満月が信じられないという様子で黙ってしまったことから考えると病院の一般的な光景ではないらしいわね。一つ勉強になったわ。

『……ってそんなことはどうでも良いって!! ほら来たよ!!』

 廊下の右側からお爺さんが一人跳びかかってくる。そんなに元気なら病院に来なくてもいいんじゃないかしら。

 そんなことを思いながら、軽いステップでお爺さんのル○ン的飛び込みを回避する。

「満月、もう一度確認するけど走り回れば良いのよね?」

『ああ、そうだよ。その間にアタシが禍渦の場所を特定するから』

 そう。

 走り回って良いのね?

 私は自由に動き回って良いのね?

「…………ふふ」

『深緋?』

「ふふふ」

「あはは」

「あはははははははははははははははははははははははははははは!!」

 力強く床を蹴る。

 景色が後ろへ流れて行く。

『うおっ、何、何!?』

 ああ、もう堪らない!!

 これよ、私が取り戻したかったのは、これ!!

 身体を動かす度に魂が震える。

 口元が笑みに歪むのを止められない。

 馬鹿みたいに。

 壊れたように。

 私は脚を止めることなく、ひたすら呵々大笑し続ける。

 いまの私の姿は傍から見ればただの変人だろう。けれど、そんなことは心底どうでも良いことだ。

 いま、私はここにいる。重要なのはそれだけだ。

『ちょっと深緋!! 嬉しいのはわかるけど調子に乗り過ぎだよ、そんなんじゃ、すぐに――うわっ!?』

 一瞬。

 私は自分の身に何が起こったのか理解できなかった。

 廊下に溢れる医者、看護婦、患者。その群れの中を私は一人で(私の中にいる満月を除けばだが)すり抜けていた筈なのだ。

 私を捕まえようと迫りくる彼らの、ただの一人に触れられることなく。自由を謳歌していた筈なのだ。

 未だ呆けたままの頭で周囲を確認して、やっと自分の現在地が何処なのかを理解する。

 何階と何階を繋いでいるのかはわからないが、ここは階段の踊り場だ。どうやら走ることに夢中で目の前に階段があることに気がつかなかったらしい。

『目が覚めたかい、深緋?』

 やや呆れた調子で満月がそう尋ねてくる。

「…………ええ、存分に」

 私ったら人前でこんなにはしゃいでしまうなんて……。淑女失格だわ。別に淑女たろうとはしていないけどね。

 そうして再び走り出そうと立ちあがる。

 いや、正確には立ちあがろうとした。

 そして、立ち上がれなかった。

「……え?」

 それも当然のこと。私が再び手に入れた脚は、再び使い物にならなくなっていたのだ。私の両の脚は見事なまでにへし折れていた。

 その状態を同様に再び得た眼で確認することになるとは何とも皮肉が利きすぎている。

「嫌……」

『あっはっは、嫌も何も自分でやったことだろう? ごちゃごちゃ言うもんじゃないよ』

「嫌よ、嫌……」

『あのね、深緋。見えるようになっても、走れるようになっても壊れるもんは壊れるさ。だって君は人間なんだもの。あんなロケットみたいなスピードで突っ走って階段から落ちりゃあ、いくらアタシが同調して身体が強くなってても壊れるに決まってる。見てごらんよ、壁も床もグチャグチャだ』

「私……、私は……」

 満月の言葉よりも。

 階上から迫りくる人間よりも。

 また自分が何もできない人形に戻ってしまったことが何よりも怖かった。

『ま、壊れたもんは治せば良いだけのことだけど。ほら深緋、早く立って走ってくれない? 院内を一周はしてくれないと禍渦が何処にいるのか感知できないだろう?』

「だ、だけど…………脚、私の脚が……」

『脚がどうしたってのさ、脚なら動くだろう? アタシが一緒なんだから』

「そんなこと………、……え?」

 私は疑おう筈もない自分の眼を思わず疑ってしまった。

 だって、そうでしょう?

 さっきまで骨が突き出ていた脚が傷一つなく元に戻っているなんてことあるわけがない。いくら何でもそんなことは…………。

『あっはっは、信じられないって顔だね。おかしな子だ。自分が見える、歩けるようになったことはすんなり受け入れた癖に。結果に喜ぶのに、その原因を知ろうとしなって言うのかい? 深緋は』

 ……確かにそうかもしれないけれど、あなたが原因を説明する時間を惜しんだんじゃあなかったかしらね。

 脚が元通りになったことで少し冷静さを取り戻した私はそう言ってやろうかと思ったが止めておいた。ここで言い争いになってもしょうがないもの。

『深緋、君が歩けるようになったのも、いま傷が元に戻ったのも全部アタシの力だよ。アタシが神様から与えられた力は「再生」。回復不可能といわれる傷も、不治の病もアタシの前にひれ伏すのさ』

「再……生?」

『ああ。もっとも、再生できるのは同調した人間だけだけどね』

 このとき初めて私は満月を信じることができた。これまで妄言だと思っていた話が現実のものだと信じることができた。

 だがそれは、いまの彼女の言葉で神様や禍渦についての話に説得力が出てきたからではない。

 正直に言って禍渦の話が嘘であろうが、真であろうが、そんなことは大したことではない。極端な話彼女が神様の使いではなく、悪魔の手先であろうとも私は一向に構わない。

 再生。

 私は彼女の力によって再び生かされた。

 空っぽの人形から、生きる活力を持つ人間へと戻してくれた。

 私にとって、それだけで彼女を信じるに足る理由になる。

『ありゃりゃ、今度は階下から亡者が進軍してきたみたいだね。霊安室が近くにあったのかな? 何にしても面倒が増えちゃったよ』

「……問題ないわ」

『うん?』

 静かに私は立ちあがる。

 満月のくれた脚で。

 ゆっくりと。

 しかし、力強く。

「さっき私があんなスピードで走れたってことは単純に筋力も強くしてくれているんでしょう?」

 ついでに体力も。

 言ってしまえば身体能力全般が引き上げられているのだろう。

『おや、よく気づいた……ってまあ、あんだけはしゃげば気づきもするか。そうだよ、いまの深緋ならプロレスラーだって片手で、いや、指一本で苦もなく倒せるだろうね』

 苦笑しながらも彼女は肯定する。

「なら、やっぱり問題ないわ。あなたのお願いを叶えるのに、彼らは、力加減する必要のない彼らは障害になり得ない」

 そうして私は迷うことなく亡者の蠢く階下につながる階段へと向かう。彼らに二度目の死を与えるために。


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