空人形、満たされる
八月十五日 月曜日
禍渦の発現、及びその破壊から二日。
未だ院内は騒がしいが、それも仕方がないことだろう。あれだけの人間が集団錯乱を起こした上に、中庭でガス爆発が起きたのだから。
そう、一連の事件についてはそういうことになっている。
……ええと、一つ断っておくけれど、私がそう仕向けた訳ではないわよ? 勝手にそういう結果を、現場を調べた人たちが出しただけ。人間って自分たちの知識の内に起きること全てを当てはめたがるでしょう? つまりはそういうことよ。
「でもねえ、少しは自分たちの知識の外のことも知ろうとして欲しいもんだよ。アタシとしては」
「あら? 自分の功績を認められないのがそんなに御不満?」
「いや、そんなんじゃないさ。ただ、こうして禍渦みたいな不可思議なモノに間接的に関わっている間は良いんだけど、もし直接関わることになったとき、人間はきっと何もできないんだろうなって思ってね」
まったく馬鹿なことを言うわね。
仕方がないので満月の声がする方を向いて言ってやった。
「馬鹿ね、満月は。そうやって直接関わらせないためにあなたがいるんでしょうに」
一瞬の静寂。
そしてその直後、私の病室は豪快な笑い声で満たされた。
「あっはっはっはっは、成程ね、確かにそうだ。そのためにアタシと――深緋がいるんだったね」
笑いながらグリグリと私の頭を撫でる満月。
ちょっと、止めてくれないかしら。こんなところを縹に見られでもしたら……。
「あれ、何だか今日は騒がしいね? どうかしたの?」
「ひょ、縹!?」
不味い。
非常に不味いわ。
私の頭を掴んで離さない女のことをどう説明しようかしら……。あの日の病室でのことは禍渦の影響か覚えていないようだけれど、ちゃんと伝えなきゃいけないこともあるし……。
しかし、私がそう思案しているうちにその問題はあっという間に解決された。
「もう、名波さんたら。そんなにグリグリしたらお姉ちゃんの頭がとれちゃいますよ?」
「あっはっは、大丈夫さ、縹ちゃん。このぐらいじゃあ深緋の首は壊れやしないよ」
……………………は?
「そんなことよりも何か用かい、縹ちゃん? なんならアタシは席を外すけど?」
「あ、大丈夫です。変な事件があったって聞いてお姉ちゃんが心配になっただけですから。昨日は病院に入ることもできなくて困っちゃいました」
「あっはっは、姉想いの良い妹さんだねえ、縹ちゃんは。深緋もそう思わないかい?」
あなたはちょっと黙ってなさいな。いま頭の中を整理するのに忙しいのよ。
ええと、七味さんが名波さんで。
名波さんが満月で。
うん。大丈夫。
こ、この程度のしょ、衝撃で私はお、驚いたり、ししし、しないわ。
(ほら、深緋。言うことがあるんじゃないのかい?)
縹に聞こえないように満月が私の耳元で囁く。
「わかってるわよ……」
「お姉ちゃん?」
私と満月の不自然なやり取りを見て、縹は不思議そうな声で私を呼ぶ。
前に縹。
後ろに満月。
これはもう逃げられないわね……。
「縹」
観念して私は彼女の名前を呼ぶ。
「こっちにいらっしゃい」
「う、うん」
縹の気配が徐々にこちらに近づいてくるのを感じる。そうして彼女はベッドの脇にある椅子に腰を下ろしたようだ。
気配を頼りに私は彼女に手を伸ばす。
「……ここかしら?」
「ひゃん!!」
あら、当たりっぽい。ふむ……このプニプニとした触り心地の良い弾性を持ったものは――。
「おっぱいね!!」
「ひょっぺただよう!!」
残念、違うそうよ。まあ、それはともかく。
頬に触れた手を更に進め、縹の後頭部を優しく掌で包む。そして、私は身体を乗り出し引き寄せた彼女の身体を抱きしめた。
「……どうしたの、お姉ちゃん?」
「縹、いままでごめんなさいね」
「な、何が? お姉ちゃんは私に謝るようなことなんて何も……」
「してたのよ」
縹の言葉を無理矢理遮り、言葉を続ける。
「私、ずっとあなたを疎んでいたの」
腕の中で小さな身体がビクンと跳ねるのを感じる。
「自分が自由に動けるからって、自分は世界が見えるからって、私の世話を焼こうとする。私にはそれが苦痛でしょうがなかったわ。お姉ちゃんは私がいないと何もできないのよって言われているような気がして」
「……私、そんなこと」
「大丈夫よ、縹。大丈夫。ちゃんと知ってるわ、あなたはそんなことをする子じゃないってことは。それでも私は、お姉ちゃんは卑怯だから、そうやって考えることであなたに責任をなすりつけて逃げてしまったのよ」
「……………………」
縹は私の腕に抱かれたまま何も言わない。
「だから、私は縹に謝らないといけない、許して貰えないかもしれないけれど」
やっと私は縹の懺悔を言い終える。これで私が言いたかったことは全部言った。後は彼女に、縹にその審判を任せよう。
そして、しばらくして縹が口を開く。
「……知ってたよ」
ポツリと。
雨粒が一滴、私の肩に落ちた。
「お、お姉ちゃんが私のこと嫌ってたの」
そしてその最初の一滴を皮切りに、私の肩に局所的集中豪雨が発生する。
「でも、わ、私のせいでお姉ちゃんの眼と脚が駄目になっちゃったんだから、どんなにき、嫌われてても……私に、で、出来ることをしようって、あの事故の後に決めたの」
「縹……」
「でも」
さっきとは逆に縹が私の言葉を遮る。
「でも、お姉ちゃんがそ、そんな風に思ってたなんてわた、私知らなかった。私がそうすることでお、お姉ちゃんを苦しめてたなんて思いも、し、しなかった」
縹は私の身体を強く抱きしめて。
目から大粒の涙を零しながら言う。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
彼女が繰り返すのは存在しない罪へのコンフェッション。七年間自分を責め続けてきた小さな少女の心の叫び。
きっと誰もが、彼女の罪を否定してきたことだろう。
君は悪くない、私が、私の運が悪かっただけなのだ、と。
それでも縹は耳を貸そうとしなかった。
だって彼女は正直で、綺麗な人間だったから。
真っ白だった自分の心についた汚れに対して見えない振りなんてできなかったのだ。たとえそれが、偽りの汚れであっても。
そして、その汚れを消せるのは父親でも、母親でも、縹でもなく。
縹が罪を感じている人間だけなのだ。
「縹」
未だ懺悔を続ける縹を少し引き離し、その両肩を掴んで彼女の顔を私の正面に据え、彼女の名前を呼ぶ。
「泣かないで、しっかり聞きなさい。あの日のあの事故はあなたのせいじゃないわ」
「で、でもお姉ちゃんだって、ヒック……悪くなんかない」
しゃくりあげながら縹は私の罪を否定する。
……この様子だとトラックの運転手に罪をなすりつけてもこの子はかばうのでしょうね。まったく本当にこの子はどうしてこんなに良い子なのかしら。世界中の人間に自慢してやりたくなるわ。
「ええ、そうね。私も悪くなんかないわ」
「だったらやっぱり――」
「だからね、縹。こうしましょう」
優しく諭すように私は言う。
「悪いのは神様よ。何の罪もない私と縹をこんなに悲しませているのは不幸が起こる前に何とかできなかった神様のせい。そう割り切って終わりにしましょう。私も、縹も事故に縛られるのはもう終わりにするのよ」
「…………お、お姉ちゃんはそれで良いの? そんな嘘で有耶無耶にして本当に良いの?」
あらら、やっぱり作り話っぽいわよね、この話。
でもね、縹。これは本当のことなのよ。私が眼を失って、見ることのできた世界の真実。
「勿論よ、こんな嘘一つで私と縹がもう苦しまなくて済むのなら、私は喜んでそれを受け入れるわ」
「…………うう」
「うう?」
「うううあああああああああああああああああああああああああああああん!!」
自分の罪が赦されたことで彼女は感情を抑えきれなくなったのだろう。七年間背負ってきた汚れが涙で洗い流されていく。
もう、良く泣く子ね、縹は。
それでも、私は縹が泣きたい気持ちはわかるから。
泣かせてしまった理由はわかるから。
縹が泣き止むまで再び彼女を抱きしめ、気づかれないようにそっと。
私も泣いた。