二話
なんとか授業に間に合ったアルタは、教師が召喚術の実地練習の注意事項を伝える中、上の空だった。何となく手の甲の紋章に視線を遣る。あの一瞬、リエイの姿をそのまま写したような紅の光に包まれた景色が頭に焼き付いて離れない。もしもあの時、ウルリアと早く合流していれば、そもそもヘティーに妙に目をつけられていなければ、自分は才能が無いことを残念に思いながら落第する前に学校を辞めただろう。そして叔父の家を継ぐため、必死に魔法だけはなんとか学んで、家を守って全うな生き方を享受したことだろう。アルタは思いを巡らせ、ため息をついた。
使役する機会を伺って、もう十五年ほどは経っている。平和に暮らしていればリエイは出てこず、安息の最後を迎えられたのだろうか。結局、いつ何が起こるか分からない世の中、事故から守る為に出てきたかもしれない。もっと些細なことで使役されようと出てきたかも。
そう、運命は幼い頃、預けられた瞬間から一ミリだってぶれていないのだ。アルタはそう悟った。
「では…ここで軽い実地のリハーサルをしたいと思う…誰か我こそは、という者、手を挙げなさい」
まだ若い教師は、快活な声で生徒を見渡して尋ねた。だが、小さな囁きが起こっても、誰も手を挙げようとしない。それも想定済みだったのか、誰かを指名しようと教師が品定めしていると、すっ、と細くて人形のような手が天井に向かって突き出された。
教師はその手を挙げた少女に喜んで指名する。
「では、ディズリー。前へ」
アルタは自ら挙手したヘティーを物珍しげに眺めた。出しゃばりのヘティーは、自分の召喚技術を誇っていた為、不審にも思わなかったが、アルタは彼女がしっかりこっちを見つめているのに気が付いた。そして挙げていた手を落として指を突き出したヘティーは、アルタを指して教師に振り替えった。
「…彼を、推薦します」
「なっ」
「…ディズリー、その、マクベインはよそう。彼は召喚術に不得手だ。折角だからディズリー、君が…」
「いいえ、私、見たんです。彼が召喚しているところを」
教室がざわめき、アルタは痛いほどの視線を感じて俯いた。アルタが落ちこぼれであることは教室にいる全員といっていいほどの面子が知っている。最悪の事態に、どうしていいのか分からず、ただ教師が別な生徒を指名してくれないかと祈った。
「…そうか。そんなに言うなら彼に頼もう。すまないがマクベイン、前に出てくれないか」
嘲笑が小さくアルタの周りを取り囲んだ。アルタは唇をかみ締め、席を立ち上がると階段を降りて教壇に上がった。目の前に立ちふさがる黒板がいやに大きく感じられる。これはある種見せしめか何かだとアルタははやく席に戻りたくて仕方が無かった。
教師は心配そうにアルタを見つめ、励ますように背中を叩く。
「無理しなくていい、昆虫でいいから召喚してみせなさい。無理だと思ったら言いなさい」
「…はい」
アルタはやや振り返り、じっと自分を見つめるヘティーを睨んだ。何がそんなに気に食わないのか、今日は彼女に散々振り回され、アルタはいよいよ疲労感を覚え始める。
そして震えた手で黒板にロザリオを押し付けると、その周りをチョークで描いた円で囲んだ。
意識を集中させる。具体的に、召喚するというのはどんな感覚であるのか、アルタはまだ知らなかった為、いつも召喚したいものを考えて喚びだそうとしていた。今回も同じように、ウルリアが召喚してみせた漆黒の蝶を思い浮かべて息を吸い込んだ。
円が僅かに光った。アルタは目を見開き、今まで訪れたことのない変化に喜んだ。
だがすぐにそれはかき消され、ロザリオを押さえつけていた手が急激に痛み、アルタはロザリオを握り締めた。
「な…これはどうしたことだ…!?」
教師が焦った表情を見せるなか、簡易な魔法陣は目を開けていられないほど光を放ち、右手の紋章も赤く滲んだ血のように輝きだした。アルタはうめき声をあげ、手を離そうとするが、光が生み出す強大な力がそれを押さえ込んで手が離れない。教師はアルタの手に自身の手を重ねて召喚を解消する呪文を唱え始めた。
だがその呪文に反応し、手がはねつけられるように離れ、アルタは数メートル飛ばされてその場に倒れこんだ。
(なんだこの痛み…!?手が自分のものじゃないみたいだ…!)
カラン、と残ったロザリオが見る影もなくひしゃげて床に落下し、尻餅をついた教師も唖然としてアルタを見遣った。
「…ひとまず、彼を保健室に連れてゆく、授業は自習とする」
教師、ルーペルトはアルタの肩を抱えて歩き出した。ヘティーは不満げな表情で、連れて行かれるアルタを見つめた。