四話
リエイという赤い犬は、爪の先端をあと一ミリでも違えば刺さってしまうほどで前足を止めた。目の前には冷や汗をかいたアルタの姿があった。ヘティーは咄嗟に突き飛ばされたアルタに命を助けられ、へたり込んだまま唖然としてアルタを見つめた。
リエイは爪を隠してすっと体制を直すと、アルタの側に擦り寄った。
「一体何が起きたんだ?」
アルタはヘティーを守る為に落としてしまったウルリアを抱え、リエイを見遣った。名前が頭に瞬時に浮かんだ後は、リエイのあまりに速い動きに目が追いつかなかった。彼がヘティーを守れたのも、幸運だったとしかいい様がない。ヘティーは急いで立ち上がると、アルタを一瞥して走り去った。アルタは何故こんな事をしたのかと問い詰めようと追いかけたが、アルタのブレザーを噛んだリエイがそれを引き止めた。
「お前…」
「これ以上あの者を追うのは無意味です。今はあなた様のご友人を介抱しましょう」
「うおっ、喋った!」
アルタはウルリアを一度降ろし、しゃがみ込んでリエイを見つめた。ウルリアは驚いた様子でリエイを見つめ、交互にアルタへと視線を移した。
「お初にお目にかかります。僕は李叡。前の主であるオーヴァン様から継承され、あなた様に使役されるべく、機会をうかがっておりました」
「オーヴァン?それは父さんの名前か?」
「はい。あなた様のお父上であらせられます。オーヴァン様は、僕と三つの条約を元に僕がオーヴァン様のお命を頂くまでの間、長期契約をすることを約束いたしました。」
「ちょ、ちょっと待て!」
アルタは立ち上がって首を傾げたリエイを見つめた。頭がうまく整理できず、アルタは大きく深呼吸するとくしゃっ、としわを寄せた表情でリエイに尋ねた。
「いいか、まず…えっと、継承ってどういう事だ?あと、父さんの命を貰うって…何だ?」
「継承というのはそのままの意味でのこと。僕はオーヴァン様との契約を破棄され、あなた様に譲られたのです。ですから、先ほど申し上げました三つの条約をあなた様に守って頂く義務があります」
「おい…って事は、俺、お前に殺されちまうのか?」
リエイは実に人間らしいしぐさでふいっ、と視線を逸らすと、ややあって言いにくそうに告げた。
「そういうことに…なりますね。あなた様の使役が終われば…」
「な、な、なん…、」
「まあ、それに関しては追々交渉いたしましょうか、さて」
アルタはまだいい足りなく、聞き足りず、口を開いて文句の一つでもいってやろうかとしたが、すぐにリエイに阻まれて口を閉じた。
「ご友人がお怪我なされているのですから、僕がお運びいたしましょう。どうぞ背中へ」
アルタは不服で、無理やり割り込んで話題を変えたリエイを信用するべきかと悩んだ。だがあっさりとリエイは鼻先でウルリアの体を抱え、背中に放り込む。アルタはウルリアの怪我の具合がまず大事と判断したのか、そのままリエイに任せておくことにした。
ウルリアは暫く黙っていたが、やがて思い立ったようにアルタに声を掛けた。
「ねえ、アルタ…ちょっと聞きたいんだけど…」
「どうかしたのか?傷が痛むのか?」
「あ、いや、あのさ…さっきから誰と話しているのかなーって」
「…リエイの声が聞こえないのか?」
リエイは頷くように少し頭を下げ、背中におぶったウルリアを見上げた。アルタは自分にしか聞こえないというリエイの声に戸惑う。
「左様でございます。僕の声は契約者であるあなた様にしか聞き取れません」
アルタはウルリアを見遣った。今またリエイに返事をすれば不審がらせてしまうかもしれないと思ったアルタは保健室にウルリアを預けるまで黙っていることにした。リエイもそれを汲み取ったのか、その後は自分から話すことはなかった。
「ごめんね、アルタ…僕が、ヘティーに付いて行っちゃったから…」
保健室は無人だった。教師は職員室に用があるとのメモを残して部屋を開けていたので、アルタは勝手にベッドと応急処置の道具を借りると、ウルリアの頬の傷を手当てした。
アルコールで湿らせた綿を血が滲んだ傷に持っていくと、大げさなほどウルリアは抵抗をみせ、苦笑する。
「悪い、慣れていなくて」
「う、ううん、こっちこそ」
「…お前、なんでヘティーなんかの口車に乗せられたんだ?何かあったのか?」
「…ほんと、なんにもないよ!ただ、ロザリオを取られちゃって」
アルタは手に張り付く絆創膏をやっきになって剥がしながら、俯いたウルリアを見遣った。ウルリアは何か言いたげに口を動かしていたが、やがて頬に無理やり絆創膏を貼り付けられて話題を変えるのだった。
「そういえば、すごいじゃないかアルタ。どうしてあんなすごい召喚獣が出せること、教えてくれなかったんだい?」
「い、いや、俺も今日初めて知って…俺自身の成果じゃねえし…なんとも言えないな…」
「でも、すごい。名前の契約なんていつの間に覚えたの?」
「名前の…契約?」
アルタは興奮した様子のウルリアに首を傾げた。授業ではまだ聞いたことがない言葉に、ウルリアは喜々としてそれに答えた。
「名前というのはすごい力を持っているのは知っているよね?例えば、ご法度だけど黒魔術では名前で人を縛ったりする術がある。召喚するとき、名前が必要なのはそのためなんだけれど、クラスが高い妖獣とか、霊、神の使いとかは名前を互いに知り、一定の条件の元する高度な召喚術があるんだ」
「頭いてえ…簡単にいうと、名前があればすげえ使役ができる召喚の方法ってことか?」
「そうだね」
アルタはウルリアが腰掛けるベッドの側で寝そべるリエイを一瞥し、目を細めた。ウルリアが言う通りのことは確かにリエイと言っていた事と合致し、リエイは三つの条約があると言っていた。それが何なのかは二人でいる間に話したいのか、声が聞こえるわけでもないのにまだ聞いていない。しかしアルタにとって重要なのは、この召喚に使われた代償が自分の命ということだった。
アルタはそれとなくウルリアに尋ねた。
「なあ、召喚獣が条件を出した上、見返りを求める契約ってあんのか?」
ウルリアは目を見開いて首を振った。
「それは…、禁術だよアルタ」
「きんじゅつ?」
次から次へと新しい言葉が飛び出して、アルタはとうとうベッドに突っ伏してウルリアを見上げた。彼は日ごろの予習の賜物なのだろうが、アルタはそこまで熱心に独学も貫いていなかった為に付いて行けない。
「そういう召喚する者がとてつもない代償を払う召喚は昔禁止されたんだ。そのリスクが大きな召喚は、世界を変える力を持っていると言われているからね」
「世界を…?!」
「そういった召喚をする人は黒魔術で人を呪い殺すよりも簡単に、望んだ未来が手に入る禁術で世界を変えるんだ。つまり、自分が国王に…なるとか…」
アルタは思わず起き上がってまじまじとウルリアの顔を見つめた。まさか自分に継承された力がそんなに強大であるものだと知らなかったアルタは、契約解消の術もいつかは見つかるだろうと気楽に考えていて、ウルリアに教えられた真実に愕然とする。父は自分になんて呪いを残してくれたのかと、紋章が刻まれた手をぎゅっと握り締めた。世界を変える力なんて自分には必要ない。それなりに召喚や魔法が使えればそれでよかったのに。アルタはその先頭が真っ白で、ウルリアの言う言葉が耳からすり抜けていくのを感じた。そして、いつしか自分の命を奪うであろう血のように真っ赤な犬を忌々しげに睨むのだった。