三話
アルタは、部屋に入ってすぐ、今までは転がっていたのがジュース瓶だったのが、今回は酒瓶に変わっていたのを見つけ、大きくため息をついた。どうやら落としてしまったらしい。自棄になって飲んだのが目に浮かんだ。そして足元にはその酒瓶と共に原稿用紙が散らばっているのが何よりの証拠だった。アルタは適当にそれを拾い、とんとんと向きを揃えて汚い机に置く。
肝心のシモンといえば、すっかり酔いつぶれて大事な話どころではなさそうだった。
「シモン」
返事はない。寝ているようではないが、返事をする気力もないようだった。編集者が座っていたのであろう一部だけ丸く片付いた場所に座り込んで、アルタは再び声を掛けた。
「シモン!おい、シモン!」
「うー、うるさい…ごめん、怒鳴らないで頭が痛い…」
「ったく」
アルタは立ち上がり、水を取りにキッチンへ向かう。シモンがああなるのは珍しいことではないので、アルタの対応も様になってきた。
シモンがよく使うグラスを丁寧に洗って、アルタはどう切り出すべきかと思案した。突然酔いつぶれた男へ友人に呪詛を植え付けられたなど話しても忘れられて適当な返事をされるのでは?そう思うと長くかかると思い、アルタはうんざりとしてグラスに注いでいた水を止めた。
部屋に戻ると、今度は熟睡した様子のシモンにため息すら出ない。
水を机に置いて、実力行使と、アルタはシモンの肩を揺さ振った。
「おい、この酔っ払い!起きろって!」
「やめて…耳元では…ううっ、頭が痛い」
咄嗟にシモンは、アルタを突き飛ばした。体が不調だったアルタは、そのままよろめき、シモンの机に手をついた。その拍子に水が盛大にこぼれ、グラスが潔く飛び降りて四辺へ散らばる。
「あ!」
アルタは原稿だけでも守ろうと手を伸ばし、水が迫り来る机へ身を乗り出してなんとか原稿を掴み取る。だが、そのとき、体を支える為についた右手が長年シモンが隠していた魔法陣に触れ、壮絶な痛みと電撃のうような鋭い何かがアルタの中へと駆け巡った。
アルタが硬直し、小さな悲鳴を上げたのを感じ、今まで伏せっていたとは思えないほど素早く起き上がったシモンは、紫の光に包まれたアルタに急いで駆け寄った。
「しまった…!アルタ、手を離せ!手を離すんだ!」
三度目に体に走った衝撃。抑止反応ともう一つは違う何か。
アルタは体がうまくシモンのいう事を聞けず、ただ立ち尽くす。シモンは何とかこの効果を打ち消そうと呪文を唱え始めた。
『きて』
声がした。
アルタは頭に駆け巡る大量の情報に捕らわれながら、しっかりとその弱弱しい声を聞き届けた。
『ここに、きて』
バチッ、とスパークしたような激しい音と共に、アルタの手は離れ、彼は気絶もせずただ驚いたようにのけぞって尻餅をついた。シモンは狼狽してアルタの怪我を見つめ、更に怪我とは反対の原稿を握り締めた右手を見つめて息を飲む。
アルタはようやく搾り出したかすれる声でシモンを見つめて告げる。
「今の魔法陣は…俺が生まれたときの…記憶」
シモンは目を逸らして答えない。
体に流れ込んできた電撃のように鋭く走った膨大な情報。それらは全て記憶だったことに気がついた。まるで今までみた夢を一度に頭に叩きつけられるかのような衝撃。
煙をあげた机を見つめて、アルタはシモンの服の裾を掴んで涙を流した。
「俺が辛いとき父さんの日記を見てるように…シモンは俺が生まれたことを…、見ていてくれたのか」
今流れてきた全ての記憶は笑顔と、至福に包まれていた。机に描かれた魔法陣に触れ、少しづつ見たい記憶に触れながら執筆する叔父、シモンの姿が目に浮かぶようだった。アルタはわんわんと子供のように泣きながら、シモンの服にすがりついた。
「俺、死にたくない…死にたくないよ…」
純粋な、まだ十六の少年の願い。シモンは苦渋の表情を浮かべ、彼の肩を撫でた。
辛い事が連なり、彼の心は限界だったのかもしれない。強がっていても、これが彼の本来あるべき姿だった。何もしてやれないことを分かっていたシモンは唇をかみ締める。
兄が譲った最強の召喚獣。その代償はあまりにも大きかった。